第二章 トーク・ア・ブルー・ストリーク
第4話 休息
ホテルの敷地へと入り、建物の正面へと回った二人は扉の前に立つ田中を見つけ近付いていった。
「田中さん。どうしました、こんなところで。何か外で仕事でも?」
「いえ、先程小熊様、明石様に関する連絡がございまして、言伝を預かっております。今宵はこちら〝ホテル・ディープ・グリーン〟にお泊り下さい。これから帰られるのであれば日が沈み、山を下りるのは大変危険です。如何でしょうか?」
思いがけぬ提案に小熊はサングラスに指を立て、その手で頬を撫でた。
捜査を終えていない以上、この場に留まれるのは小熊にとっては朗報に違いない。周りにどれだけ大物が居ようと関係は無いが、問題はすぐ横で鼻息を荒くしている男のほうだ。明石は自分に決定権が無いのを知っているせいか、帽子を脱いで小熊に視線を送っている。
「いいじゃない。何を悩んでるの? 完全会員制のホテルに泊まれる機会なんて滅多にないんだよ。ほら、ミーシャだってここまで運転してきて結構疲れたでしょ? だからお言葉に甘えてさ」
どうにも決め兼ねている小熊は視線を駐車スペースへと向け、自分のハマーを見た。確かに明石の言い分には一理ある。普段は車の運転そのものが好きだが、五時間以上の運転と慣れない山道に加えて、横に座っている男によるストレス――総合的に判断すれば、一日のうちに同じ道程を行くのは耐えられない。
「わかったわ。でも、問題が一つ。お金が無いわ」
そもそも泊まる予定も、金を使う予定も無かったのだから当然だ。
「じゃあ、僕が立て替えておくよ。カードなら持ってるからさ」
ポケットから財布を取り出そうとした明石だったが、それを田中が制した。
「いえ、お代は結構でございます。お名前は明かせませんが、お二人の宿泊料金を立て替えると仰っている方がおられますので」
「そうですか……まぁ、それなら」
小熊が引き下がったのは、道中で聞いたこのホテルの上客が警視総監だということと今回の捜査が繋がったからだった。
拳を握り締めて喜ぶ明石とサングラスを外した小熊の前で、田中が人差し指を立てて口を開いた
「しかし、代わりと言ってはなんですが……一つお願いがございます。先刻申し上げた通り、このホテルにお泊りになられる方の大半は警察や捜査と言った言葉に敏感にございます。なので、お二人には身分を偽っていただきたいのです」
一応は予想していた展開ではある。しかし、下手な嘘では長続きしないのは明白で、捜査も続けたいことを考えれば、多少話し込んでも大丈夫な身分に偽る必要がある。だが、あくまでも会員制のホテルに泊まれるほどの人脈があり、それでいて持ち得る知識で対応できる職業でなければならない。
悩む小熊を余所に、明石は笑顔を崩さぬまま口を開いた。
「それなら、もう決まりだね。ミーシャは高級自動車ディーラーで、僕は証券マンってことで」
「畏まりました。私のほうからご紹介することは無いので、そのように認識しておきます。では、お二人の関係は如何いたしましょう?」
「あからさまに他人のふりをするのは無理だから――ここはやっぱり夫婦とか」
「却下よ。考えただけでも鳥肌が立つわ。それに夫婦って設定にしたら一緒の部屋に泊まらなきゃならないでしょ? だから、良くても知り合いね」
明石が小声で「別に何もしねぇよ」と呟いた瞬間、小熊は振り向くのと同時に握った拳を鳩尾目掛けて食い込ませた。
「ん? なんだって?」
笑顔で問い掛けてくる小熊に言葉を返したい明石だが、腹に受けた衝撃によって口を開けず、目の前で手を振って応えて見せた。
「小熊様、明石様、今の時間でしたらホテル内で人に会う可能性は低いので、中をご案内致します。お部屋に関してもその時に話し合われたら如何でしょうか?」
能面のような表情を維持したままの田中は、やはり一流のコンシェルジュだった。田中の提案に乗った二人は、後を追ってホテルへと足を踏み入れた」
「――うっわ」
思わず声を出したのは小熊のほうだった。
蔦の這う外壁とは打って変わり、内装は淡い黄緑色の壁にアカンサス模様が描かれ、等間隔に絵画が飾られており、豪華な雰囲気を醸し出している。飾られた絵画の横には、それぞれに合う花瓶に花が挿されて、廊下を彩っている。
明石は飾られた絵画を眺めながら、笑顔を見せた。
「これはドガだね。しかも、その中で風景を選ぶとは……素晴らしい」
いや、それは笑顔というよりも恍惚とした表情だった。
「明石様は絵画に造詣が御有りでしたか。ご指摘の通りでございます。レプリカではございますが、廊下に飾られている絵画は全てエドガー・ドガの作品にございます。ちなみに申し上げさせていただきますと、一階には風景を、二階にはバレエを、三階にはそれ以外の絵を複数飾ってありますので、よろしければご覧になってください」
「それはもちろん。まさか一流のホテルで、ドガの絵が観られるとは……」
放っておけばこのまま対談でも始まってしまいそうな雰囲気だったのを感じた小熊は明石の横に立ち、小声で問い掛けた。
「誰? その、どがって」
「……それ本気で聞いてるの? ドガを知らないって、これまでよく生きてこられたね」
その言葉に小熊は一瞬だけ片眉を吊り上げた。
馬鹿にされているのはわかっているが田中との会話を聞いている限りでは、その人物が凄い人で、飾られている絵も素晴らしいとのこと。この場に居る三人中二人が知っていることを声高に問い掛けるのはいくらなんでも憚られたのだ。
「はい。じゃあ、絵の話はそれくらいにして――田中さん、案内の続きをお願いできますか?」
「畏まりました。それでは」
と、二人は正面扉を入ってすぐのところに戻され、田中が掌を差し出した。
「まず正面にございますは、当ホテルの受付でございます。私共従業員はここにいるよりも右手側、廊下の突当りにある従業員スペースで待機していることが多々ございますので、急用がございましたら、そちらまでお願いいたします」
説明を聞きながら小熊は受付よりも少し視線を上げたところに注目していた。
「田中さん、あれは監視カメラですか?」
「左様でございます。しかし、録画機能はございません。あくまでも、ここの映像が従業員スペースで流れているだけでございます」
訊かれるよりも先んじて答えたのは相手が刑事であることと、おそらくはこのホテルを訪れる者には毎回同様の説明を行っているからだろう。
「続けまして従業員スペースの手前にあるのは食堂でございます。朝昼晩、こちらでお召し上がりになれますが、各自お部屋までお運びすることも可能ですので、そのような場合はお申し付けください。それでは、左手側に参ります。見てお分かりの通り、扉が二つ。手前にある扉の先には各種DVDを取り揃えてありますので、ご自由にお部屋までお持ちになってください。奥にあります扉の先は図書館になっておりますので、こちらも同様にお部屋までお持ちになってくださって構いません。もしも、その中でご自宅へ持ち帰りたいものがありましたら、私共にお申し付けください。新品をご用意いたしますので」
小熊は唖然として表情を隠せない。明石に至っては知っていたにも関わらず実際に見聞きしたことで衝撃を受け、口角を上げたまま目を見開いた。
まさに至れり尽くせりとはこのことだ。仮に一週間骨休めに訪れたとしても決して飽きさせないように考えられている。これも〝最高峰のホテル〟と呼ばれる所以なのだろう。
「まぁ、なんだかやり過ぎな感も否めないではないわね」
素直な感情の吐露をした小熊に、田中は嫌な顔一つせず前屈みになりながら口を開いた。
「いえ、我々にとってはやり過ぎなことなど何一つとして存在しないのです。私共のモットーは『お客様には最上のサービスを受けて頂き、しかし、それ以外のことには一切の干渉をしない』なのです。小熊様も明石様も何か御所望がございましたら何なりとお申し付けください。可能な限りではございますが、全てに対し全力で臨ませて頂きますので」
「あぁ……なるほど」
矢継ぎ早ではあるが、非常に聞き取りやすい田中の言葉に小熊は圧倒されて、吐いて出た言葉が納得であった。
「ね、凄いホテルでしょ?」
茫然とする小熊の横で、何故だかしたり顔の明石はそう呟いた。一行は二階へと移動し 端にある二○七号室に足を踏み入れた。
部屋の中は――それは最早、豪華だとしか言い様が無かった。入ってすぐのところにはコートなどを掛けられ靴を履き替えられるウォークインクローゼットがあり、数歩進んだ反対側にはトイレと、その倍以上の広さがあるバスルーム。その横には水道と、いつでもお湯が沸かせるように電気ポッドが設置されており、コーヒーや紅茶、ティーカップなども取り揃えられていた。肌触りのいいカーペットの上を進んでいくと、ホテルの敷地と山が見下ろせるほど大きな窓があるリビングに出て、そこにはアンティ―ク調のソファーやテーブルが置かれていた。窓に背を向けて座ると、白い壁を前にしてプロジェクターで映像が映せるようになっている。仕切られていない隣の部屋にはセミダブルのベッドが二つあり、その間に置かれたサイドテーブルの上には受話器のみの固定電話と間接照明が設置されていた。
「ホテルってより、マンションのモデルハウスだね、これ」
おそらくは、これ以上に的確な表現は無いだろう。それほどまでに魅力のある部屋なのだ。
小熊と明石がソファーに腰を下ろしたところで、田中が再び説明を始めた。
「当ホテルの定員は全部で二十名でございます。割り振りとしては現在居るこの部屋を含めた二階の全七部屋が二人部屋で、三階の全六部屋が一人部屋となっております。入ってきた時にお気づきになったでしょうが、鍵は全てカードキーとなっており各部屋に二枚ずつございます」
「マスターキーは?」
「一枚だけございます。そちらは私が保管しておりますので」
そう言って田中は懐から金色のカードを取り出した。一枚だけ特別な鍵だとわかりやすくていい。
「他に、何かご質問は御有りでしょうか?」
「捜査として、あとで宿泊者名簿を見せてもらえますか? それと埋まっているのは何部屋ですか?」
「名簿は後ほどお持ちします。現在使用されている部屋は三階の六室は有り難いことに全て埋まっております。二階は一号室と二号室の二部屋が埋まっております。ですので、もしも小熊様と明石様が別々にお泊りになられるというのであれば、お部屋はご用意できます」
「お願いします」
間髪入れず、だった。
「それでは、こちらの七号室とお隣の六号室にお泊りください。内装は変わりません。それと、お食事は何時からでも可能ですが、他のお客様は十九時を過ぎたあたりから食堂に集まり始めますので、お話をさせるようでしたらそのお時間に。それと――」
田中が入口のほうを気にした瞬間に、インターホンの音が鳴り響いた。
「少々お待ちください」
音も無く歩き、入口のほうに向かった田中は、扉を開けたところに居た鈴木からファイルを渡されると中身を確認して頷き、ドアを閉めた。
リビングに戻るとソファーに座る二人の間にファイルを広げて置いた。
「こちらが現在、当ホテルにご宿泊して頂いている十名のお客様のリストです」
ファイルを手に取り自分の方に寄せた小熊に、明石は覗き込むようにファイルの中身を見ると、顔を上げて口を開いた。
「宿泊客は十人。僕らを合わせて十二人。それに田中さんたちを含めると十五人。それで全部じゃないよね?」
「他にはシェフとスーシェフの二人が居ります」
「従業員が五人に、客の上限が二十人。これは……どっちだ? 妥当なのかな?」
「そんなことどっちだっていいでしょ。田中さん、ありがとうございます。私が六号室を使わせてもらいますので、お仕事があるのならそちらに」
「それでは 失礼させて頂きます」
懐から出した四枚のカードをテーブルに置き、深々と頭を下げた田中は部屋を出て行った。
名簿に目を通す小熊を余所に、明石は部屋の中を見回して壁際に置かれた腰高のデスクに近寄っていった。
自由に使えるノートパソコンと、引き出しの中にはパソコンの使い方とホテルの説明書が入っていた。そこに書かれていたのは即時に行えるサービスの内容と、ホテル周辺の地理について。近場の渓流で川釣りができるらしい。他にも部屋に居ながら料理を注文できるようにメニュー表も置かれていた。
「ほら、見てミーシャ。ここ創作料理が中心だから、注文したら大抵のもの作ってくれるって。なんでも、噂によるとフランス料理が絶品らしいよ。あと酒も豊富だってっさ!」
真剣な顔で名簿に視線を落としている小熊の意識を自分に向けさせるため声を張ってみたが、一瞥することも無かった。メニュー表を置いた明石は、小熊の背後から再びファイルの中を覗き込んだ。
「どうかした?」
「何人かだけど……私も名前くらいなら聞いたことのある人がいた」
「ふ~ん、どれ?」
「この人。前島六郎、職業・弁護士」
「ああ、知っているよ。でも、なんでミーシャが知ってるの? 別に特別優秀な弁護士じゃないでしょ。勝率は五分五分ってところ」
「いえ、勝率とかはどうでもいいのよ。ただ、捜査二課がマークしているって話を聞いていたから。所謂、裏取引に手を出しているとかって」
「悪徳弁護士ってことね。他には?」
「笹川洋介。あんたも知っているだろうけど、国会議員よ」
「まぁ、今は国会が開かれているわけじゃないし別に居てもおかしくはないけど……たしか、何か月か前に週刊誌ですっぱ抜かれてたよね。闇献金疑惑、だっけ?」
「そうよ。でも結局なんの確証も無く、警察が動くまでには至らなかったけれど」
「疑惑の二人が同じホテルに居る。だから何かが起きるかもって?」
「そこまでは思っていないわ。ただ、妙な偶然ではあるわよね」
疑問符こそ付いていないものの共感を求めるような言い方で小熊が振り返ると明石は真 直ぐにファイルを見下ろしていた。知っている人物がいるのかいないのか表情からでは読み取れないが、わざわざそれを知っておく必要性も無いことはわかっていた。
「でも、ミーシャ。その人のことを知っていても、知っているって顔をしたら駄目だよ? 自己紹介を待つか、それが無かったら知らないふりをする。とにかく僕らは何も知らない。このホテルに来るのが初めてって顔をしないと。……あ、違うね。初心者はミーシャだけだ。僕らが知り合いってことは、どっちかがどっちかを紹介したってことしないといけないからね」
「そうね。そうしてくれた方が、私も他の客を観察できるからよろしく頼むわよ」
小熊は捜査を続ける気でいるが、その生真面目さに明石は静かに溜息を吐いた。
せっかくホテルに泊まれるのだから楽しめばいいのに、と。けれども、それが刑事としての性ならば何も言うことは無い。
「じゃあ、七時まではゆっくりしようかな」
明石はジャケットを脱いでソファーの肘掛部分に掛けると、その隣にある一人掛け用のソファーに腰を下ろしてテーブルに脚を掛け、中折れ帽で顔を覆い隠した。
長時間の車移動に、山小屋での捜査。漸く腰を伸ばして落ち着ける。
そして、ある意味ではこれが最後の――ようやく訪れたほんのわずかな休息だったのかもしれない。
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