第3話 ディープ・グリーン
山を登り始めて三十分。すでにカーナビはその役目を終えていた。道が無いわけではないのだが、同じような道の繰り返しなのと、何も示していないナビのせいでどこをどう進んでいけばいいのかわからないのだ。唯一の頼りは先人たちの残していった轍のみ。しかし、均されているといっても山道には変わりない。おそらく小熊自身も初めてだろう。ハマーに乗っていて実用的に感謝する日が来ることになるとは。
もしかしたら道に迷ってしまっているのではないかという不安を抱いている小熊を余所に、助手席を倒し中折れ帽で顔を覆い眠りに着いていた明石は車が木の根に乗り上げたことにより目を覚ました。
「ん、ミーシャ。もう着いた?」
のん気な声を出す明石に小熊の苛立ちは高まっていく。
「まだ車が動いているのわからない? 着いてないわよ」
その言葉に漸く体を起こした明石は辺りを見回した。
「山に入ってどれくらい?」
「三十分くらい」
「じゃあ、多分そろそろだね。詳しいことは知らないけど、初めて行く人は山道四十分って話を聞いたことがあるから」
それが事実なのか、ただ気を紛らせるためだけに言ったのかは定かではないが、蛇行していた道が徐々に直線に変わり、その直線の道が徐々に登り始めた時――視線の先に、微かに緑色の建物が見えた。
事前に外観などの情報を知っていたわけではないが、ホテルの名前からしてまず間違いないだろう。それがわかった小熊は踏み込んでいたアクセルを緩めた。安堵する小熊とは裏腹に、横では今か今かと到着を待ちわびる明石の姿が。さながら修学旅行前日の学生だ。
「何がそんなに楽しみなんだか」
ふと口を割って出た言葉が明石の耳に入った。
「何言ってんの? ここまでの道程でわかったでしょ? このホテルは一種の飛び地で、また一種の陸の孤島だよ? そんなところにある人気ホテル。だけど、満員にはならないホテル。そんなの――もう、何かが起こりそうで堪らないよ!」
満面の笑みだった。
「ああ、そう……」
そう。こういう奴だった、と今更ながらに納得した。
車が近付いていくにつれて建物の全貌が見えてきた。正面から見据えた形はそのまま長方形で、高さのある三階建て、正面には大きな両開きの扉がある。窓の位置から考えるに一部屋ずつがそれなりの大きさを有しているのがわかる。
「ああ、なるほど。ディープ・グリーン。その緑はこういうことね」
小熊が呟いたのは建物の外観が見えた時だった。全面を覆う蔦に、そこから生える深緑の葉が建物そのものを緑色に染めていた。
正面扉の前で車を一度停車させ、敷地内に並べて停められているほうに車を進ませた。そこで小熊よりも先に車を降りた明石はホテルよりも事件よりも違うところに意識を持っていかれていた。
「わぉ。これは驚いた。ベンツ、ベンツ、ポルシェ、一つ飛ばしてまたベンツ。オセロならベンツの勝ちだね。この、間にあるのはなんて車だ?」
綺麗に並べられた高級車だが、明石には見慣れぬ車が一台あった。
「アストンよ。アストン・マーチン。恐ろしいのはここにある車が全て同じ道を通ってきたってことよね」
ハマーもそれなりの値段だが、他の車は桁が違う。
「このアストン? は、いくら?」
「ベンツの倍」
「あ~、三千万クラスってことか」
車を眺める明石を置いて、サングラスを掛けたままの小熊は正面扉へと足を進めた。
明石が小熊の後を追って横に並んだ時、正面扉から男が出てきた。細見で襟付きのジレに蝶ネクタイを付け、灰色の髪をオールバックにしており、見るからに浮世離れした雰囲気を漂わせている。
「ようこそ、お越しくださいました。私は当ホテルの支配人、田中と申します。警察の方々ですね?」
小熊は懐から警察手帳を取り出し、胸の前で開いて見せた。
「はい。刑事の小熊です。こっちは」
「明石です。いや~、お会いできて光栄です。まさか、こんな仕事をしていて、このような一流ホテルに来ることが出来るなんて思ってもみませんでした」
求められていない握手を交わしていたが、小熊に脇腹を小突かれてその手を離した。
「お褒めに預かり恐縮です」
謙虚にお礼を言っている割には、その表情は能面でも張り付いているかのように変わらない。
「それでは早速、現場まで案内してもらってもいいですか?」
「畏まりました。こちらです」
すると、建物の壁に沿うように移動を始めた。小熊は正面扉の前で中に入りたそうにする明石のジャケットの襟を掴むと「行くわよ」と引き摺りながら田中の後を付いていった。
ホテルの敷地に入ったときには気が付かなかったが、等間隔に頑強な木製の塀が立てられていた。建物の裏側に回ると、塀の間からけもの道を通り山を下っていった。
前を行く田中に小熊が問い掛けた。
「田中さん。死体が出たと聞いたのですが、外なんですか?」
「ホテル内ではありません。外と言えば外ですが、私共が所有している小屋の中です」
「小屋? 離れの個人部屋とか? そんなの聞いたことないけど」
「ええ、当ホテルに離れはございません。小屋というのは鶏と豚、二つの動物小屋のことでございます」
小さな渓流を飛び越えて、すでに視線の先には二つの小屋が見えていた。
「飼育ですか。当然、食用ですよね?」
「豚は月に一度食肉用として、鶏の方も稀に肉を使うことがありますが。主に卵を。調達する手間と環境を考えれば、近くで育てた方が良いかと思いまして」
「死体が出たのは豚小屋? 鶏小屋? それにこの場所を知っている人は何人くらいいる?」
「死体が見つかったのは豚小屋です。それと、この場所を知っているのはホテルにお泊りになられる方全員でございます。直接ご案内したことはありませんが、この場に豚と鶏を飼育していることはお伝えするようにしてあるのです。そういったことを嫌悪される方もおられますから」
経営者としては当然の配慮だ。それは明石と小熊にしても予想通りだったが、捜査をする上では厄介だと言わざるを得ない。
小屋の前で立ち止まった田中は二人が来るのを待ってからドアを開けた。
「どうぞ。遺体は中にございます。触れてはいませんので」
先に小熊が足を踏み入れて、続いて明石が中に入った。
小屋の中は屋根のすぐ下が吹き抜けになっており電球がなくとも太陽の光で充分な明かりが保たれている。死体と豚との間には簡易的な敷居が立てられており、換気が良いせいもあって、然程嫌な臭いはしない。
明石は片側の口角を上げるように笑って、すでに乾いている血溜りに足を踏み入れると死体のすぐ傍でしゃがみ込んだ。一通り全身を眺めると中折れ帽のツバを摘まんで引き下げた。
「遺体? 人じゃなくて豚の死体? こんなのあり?」
落胆した口調で確認するように問い掛けてきた明石に、小熊は外したサングラスをワイシャツの間に挿しながら口を開いた。
「いえ、状況から考えれば何一つ不自然じゃないわよ」
豚小屋の中に、豚の死体。確かに、何もおかしなところは無い。
「強いて言うのなら、首が無いってことかしら。田中さん、飼育している動物の殺害は法律上器物損壊になりますが――どうしますか? 犯人を訴えるつもりがあるのなら不法侵入や、他にもいくつかの罪には問えると思いますが」
「いえ、お客様を訴えるだなんてとんでもない。私はただ、このようなことをした人物が誰で、その方がお客様に危害を加える可能性があるのかどうかを知りたいだけなのです。もしも、現在このホテルにご宿泊中のお客様に危険が及ぶようでしたら、それなりの対処をしなければいけませんので」
そんな会話を聞いているのかいないのか、明石は「殺人じゃなくて殺トンか」などと呟いていた。
「わかりました。犯人を特定できるかわかりませんが、私たちが捜査をしますので田中さんは何か仕事があるのならホテルに戻っていただいて構いませんので」
「え、捜査するの?」
「する。器物損壊だろうとなんだろうと、犯罪には変わりないし私は刑事。捜査をしない理由はないでしょ」
正鵠を射ている。明石に反論の余地はないし、小熊が刑事を名乗ったときは自ら退路を断った証拠であり、犯罪者を許せない性質だと知っていた。だから、懐から手袋を取り出す以外の道は無かった。
「それでは仕事がありますので。何かございましたら私を含む三人の従業員にお声掛けください。その者達にはお二方のことを伝えてありますので」
そう言うと田中は小屋を出て行った。
見送ることなく、明石は覗き込むように身を屈めて首の切断面を確認した。
一言で表現するのなら、その断面はただただ綺麗だった。滑らかでいて躊躇ったような痕も無い。例えるのならマグロの解体のような――そもそも、この切断が人の手で行われたかどうかすらも疑わしいほどに鮮やかなものだった。
小熊は小屋の中を明石に任せて外に出た。なんだかんだ言っていても捜査の腕に関しては明石を信用しているのだ。
外に出てサングラスを掛けた小熊はドアの前で立ち止まると、自分達がやってきた方向に視線を向けた。 腰に手を当てて、そこからぐるりと周辺を見回し、隣の小屋で視線を止めた。手袋を嵌めてからドアを開けると そこには小屋の中を自由に動き回る十羽近い鶏が居た。鶏小屋なのだから、それは当然の光景だ。
静かにドアを閉めると、次は小屋の裏側に回って立ち止まった。空を見上げてから、徐々に視線を落としていき何かを捜すよう地面に視線を這わせると、今度はしゃがみ込んでから同じように地面を観察した。
誰一人として通っていないだろう木々の間。風が吹いて落ちた葉が地面に落ちた。
それを見た小熊は、真下に視線を落として地面に落ちていた葉を拾い上げた。手の中でそれを弄りながら立ち上がると、近くを流れる小さな渓流へと足を進めた。
穏やかに上から下へと流れる水を眺めながら、手に持っていた葉をその渓流へと落とし入れた。しかし、水の勢いは弱く数メ トル進んだところでその葉は地面の上に戻ってしまった。
「……どこに行ったのかしら」
そう呟いた小熊は踵を返し、豚小屋へと戻っていった。
小屋の中では敷き詰められた藁に腕を埋めて、わさわさと動かす明石が居た。
「何してんの?」
「ん? ああ、探しもの」
「あったの?」
「無い。そっちは?」
「こっちもよ。今朝方死体を見つけたとして、約半日――外には足跡もないし、この場にあるはずの豚の首を付近に捨てたような痕跡も無いわ」
葉を触った感じで昨夜雨は降っていないことがわかったが、それでも湿り気のある地面には人が通 た跡が残る。豚の首に関しても、小屋の中だけでこれほどの血溜りが出来るのだ。外に持ち出して捨てたとなれば、その跡も残る。
「じゃあ、次はこっちの番。この切り口を見る限り鋭い刃物で一刀両断ってところかな。正確に何で切ったのかはわからないけどね」
「日本刀とか?」
「うん。有り得なくはないね。でも日本刀って思いの外に扱いが難しいんだよ? それこそ、達人じゃないと、ここまで綺麗に骨までバッサリとはいかない」
しゃがんでいた明石が立ち上がると、小熊の視線に釣られてそちらに目をやった。敷居の向こう側にいる豚の群れを。
「……たしか豚って雑食よね?」
「そうだよ。何でも食べる。聞いた話では人の骨なんかも食べちゃうって。ああ、ドッグフードを食べる豚っていうのも聞いたことあるね。まぁ、元は猪を家畜用に品種改良したのが今の豚だから当たり前だけど」
「斬り落とした頭を他の豚が食べたって可能性は?」
「可能性としてはゼロじゃない。でも、それだと胴体が手付かずのまま――口を付けていないのは違和感がある」
手袋を外し、帽子のツバを摘まんで下げた時、明石は気が付いた。
「なんかさ、これ馬鹿みたいじゃない? だって、豚だよ?」
「そうね。間違いなく豚よ。でも、馬鹿じゃないわ。仕事をしているだけ」
「じゃあ、どうする? ホテルの宿泊客一人一人の荷物と部屋を調べさせてもらう? 斬り落とした豚の頭を持っていませんかって」
「それは――……無理ね」
今回の捜査には大前提がある。
一つは非公式な捜査だということ。小熊の言った通り飼育動物の殺害は法律上は器物損壊になるが それでも罪は罪。警察に通報すればそれなりに対処してくれるはずだ。にも関わらず、そうしなかったのは宿泊客が人目を気にせず居られる場所としてこのホテルを選んでいる。そこに他人の目が入り込むことを激しく嫌悪するからだ。言わば、ホテル側の配慮。だが、今回は安全の問題として別班の二人が送り込まれた。つまり、宿泊客には極秘ということだ。
もう一つは、その宿泊客たちにある。各界の大物が警察の介入を嫌うのは当然ながら、仮にそこで問題でも起こそうものならどうなるのかは想像に難くない。それこそ、二人が道中の車で話していたように、首が飛ぶ。しかも、下手をすれば二人だけでは済まないから慎重に進めなければならない。
小熊と明石はお互いにそれを理解していて、上司も二人ならばそのことを察せられるからこそ、この場に寄こしたと考えるのが正当だろう。
明石は顎に手を当てて考える素振りを見せながら口を開いた。
「問題は二つ。犯行現場と動機」
「現場はホテルから離れたこの豚小屋。犯行時刻は、おそらく深夜。従業員がすべての客の行動を把握しているわけじゃないから誰がこの場所を訪れたことがあるのかはわからない。それに多分、監視カメラも無いんだろうから深夜にホテルを抜け出した人がいるのかどうかもわからない。従業員が出入りを確認しているのなら、犯人の目星が付いているのだから、そもそも私たちを呼ぶ必要はない。それに証拠になりそうな物も落ちていない。そんなところかしら」
「全部言われたけど、そんなところだね。じゃあ、動機は?」
「現場に何も残していないってことは計画的って考えるのが妥当よね? でも、豚を一頭だけ殺して その頭を持ち帰るってどういう計画よ」
「豚そのものを嫌悪していて殺したのなら一頭だけってのは可笑しい。第一、計画することでもない。近付かなければいいだけだからね」
「臭いが嫌だった、とか?」
「そのど真ん中にいる僕たちが平気なんだよ? それに換気が良いし、人が頻繁に掃除していればそんなに臭うことも無いんだよ。そもそも豚って綺麗好きだし」
小熊は視線を天井から地面へ。そこから敷居の向こうに居る豚の群れを見てから、胴体だけの豚へ。
「……豚の殺害を目的じゃなくて手段だと考えてみたら?」
「つまり 何かを行うために豚を殺す必要があったってこと? そうなると宗教絡みかな。黒魔術とか」
「有り得る?」
「黒魔術は人が供物だから違うけど、ブードゥーとかなら有り得るね。でも――自分で言っておいてなんだけど、どうだろう? わざわざこんな山奥のホテルに来てまでそんなことするかな?」
「良識のある人間ならしないわね」
それは黒魔術だのブードゥーだのだけではなく、良識があれば人が飼っている――いや、飼っていなくとも豚を殺すことなどしないだろう。
「そういえば沖縄とかだと豚の顔が売っていたりするわよね? 目的が食べることだとしたらどう? 最終的には証拠も残らないんじゃない?」
所謂、チラガという豚の頭の骨を抜き燻製にした物のこと。味はハムのようだとか。
「ん~……ここで豚を殺して、頭だけをビニールかなんかに入れて持ち帰って、部屋で食べるの? 部屋にキッチンが無かったら生でだよ? なにそれ、もはや化け物じゃん」
困った表情を隠すように帽子で顔を覆った明石は静かな溜息の中に「つまらない」と言葉を混ぜて吐き出した。
「……足りない?」
「圧倒的にね。そっちだって同じでしょ? これを解決するには容疑者に会うしか無い」
「そうね」
垂れた前髪を耳に掛けた小熊が豚小屋を出ると、帽子を被った明石もその後を追った。並んで立ち止まると小熊は腕時計で、明石は携帯で時間を確認した。
「もうすぐで十七時」
「じゃあ、田中さんと話してみようかしら」
二人は傾きかけた太陽を背に、けもの道を戻っていった。
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