第一章 ブラック・シープ
第1話 別班
金曜の早朝、今日が終われば二日間の休息日とその前に居酒屋で飲む酒が楽しみで浮足立つ人混みの中に一際目立つ男が居た。彼は特注のベージュのスリーピーススーツに身を包み、黒いワイシャツと黒いネクタイをして、極めつけはスーツと同系色の中折れ帽を被っているという個性的な格好で行き交う人々の視線を集めていた。両手に一つずつタンブラーを持つ男の名は明石七、服装もさることながら百八十を超える身長も目立つ要因の一つだろう。
そんな明石が向かったのは、とても似つかわしくない警視庁のビルだった。
自動ドアを通ると、広いエントランスの受付嬢に笑顔で一瞥し、目の前を通り過ぎてエレベーターに乗り込んだ。階数を押してドアを閉めようとした時、男が慌てて乗り込んできた。
「おっと、明石か。悪いな」
「いいや、構わないよ。同じ階だしね」
エレベーターが上へと動き出した瞬間に明石は扉の裏のステンレスに淡く映った男を見ながら口を開いた。
「玉ちゃんさぁ、昨日合コンしたでしょ? しかも失敗した」
薄ら笑いを浮かべる明石に、玉ちゃんこと玉木はあからさまな動揺を見せた。
「お前、どうしてそれを知っているんだ? まだ誰にも……ってか、お前だけには絶対話すつもり無かったのに!」
エレベーター内には二人しかいないのに声量を落とす必要性は感じないが、刑事が平日の夜に合コンをして、しかも失敗したとあれば体裁も悪ければ自ら話すことではない。
「わぉ、驚き。本当に合コンしたの? 適当に言ってみただけなんだけど」
「お前が適当なことを言うわけないだろ。情報源は誰だ? 男側? 女側?」
額の冷や汗を拭いながら問い掛ける玉木に対して、明石は『聞きたい?』と言わんばかりに笑顔で首を傾げて見せた。当然、玉木は頷く。
エレベーターの動きが止まり、扉が開くのと同時に明石は口を開いた。
「店の店員」
「お ~いおい。本当かよ? 誰も信用できねぇな!」
手を広げて叫んだ玉木を横目にエレベーターを降りた明石は笑みを浮かべたまま、捜査課の横を通り、奥にあるドアの取っ手に肘を掛けて部屋に這入っていった。
そこは元々倉庫だったところを掃除して、テーブルと椅子を運び込んだだけのためお世辞にも広くて綺麗な部屋だとは言い難いが、それでも二人だけなら充分な場所であることには違いない。
「あら、おはよう。早いわね」
棚の間からダンボールを抱えてきたのは小熊八重、シンプルな黒のパンツスーツに白のワイシャツを着た長身の女性刑事だ。ネクタイのしていないシャツの胸元にサングラスを掛け、長い黒髪を一本のクリップで束ねている。その美貌とは似つかわしくないほど冷めた視線を明石に向け、テーブルの上にダンボールを置いた。
「やぁ、ミーシャ。コーヒー買ってきたよ。濃い目のドリップコーヒー、砂糖もミルクも無し、ね」
「……ありがとう」
訝しげに眉を寄せ、タンブラーを受け取った小熊はコーヒーを一口飲んだ。
「それで、何かお願いでもあるの?」
「ん、何が?」
「恍けなくてもいいわよ。いつもコーヒーは買ってきてくれるけれど、大抵コンビニか自販機のコーヒーじゃない。でも、これはスタバの。わざわざ買ってきたってことは何かあるんでしょ?」
椅子を引いて腰を下ろした明石は、小熊を見上げながら自分のタンブラーに口を付け笑みを浮かべた。
「ん、これ、僕のやつね。ダークモカチップクリームフラペチーノ、チョコレートソース掛け。これが好きなんだ。なんなら毎日買って来ようかな?」
視線を合わせながら、小熊は垂れた前髪を耳に掛けた。
「……言いなさい」
「だって、ほら見てよ。僕らの仕事と言ったら過去の事件資料を見て、書かれた内容だけで未解決事件を捜査しろって無理があるでしょ? そりゃあ僕は天才かもしれないけど、やっぱり生の事件に越したことはない。そう思わない?」
一冊のファイルを手に取り、それをテーブルに軽く叩き付けた明石を見て、小熊も椅子座り脚を組んだ。明らかに呆れたような溜息を吐くと、テーブルに肘を置いて拳で頬杖を着いた。
「言いたいことはわかった。でも、あんた自分の立場わかってる?」
「……警察のアドバイザー」
「それは名目上の肩書きでしょ。あんたは犯罪者。そんな男に現場を歩かせるわけにはいかないの。警察のメンツもあるしね」
「だが不起訴だった。それに考えてもみてよ。これじゃあ宝の持ち腐れだよ? こんな倉庫で腐らせておくのと、外に出して犯罪者を捕まえるのとどっちが警察にとって特になる?」
「そりゃあ――……」
小熊は言葉を詰まらせた。
明石の言っていることは圧倒的なまでに正論だ。名目上の肩書きだろうが元犯罪者だろうが、一つでも多くの事件を解決するに越したことはない。しかし、それでも容認できない理由が小熊にはあった。
「とにかく、駄目よ。私一人で決められることではないし、せめて部長の許可でもないと――あ」
言ってしまった直後にすぐ後悔した。
「ってことは部長の許可があればオッケーってことだね? じゃあ今すぐに許可を貰いに行こう」
「ちょっと」
待ちなさい、と明石の腕を掴もうとした瞬間に携帯の着信音が響いた。二人は同時に携帯を取り出したが、電話に出たのは小熊の方だった。
「はい、もしもし?」
この部屋には備え付けの電話が無い。元は倉庫だった部屋なのだから当然だが、新たに固定電話を引かない理由は二つ。一つは大して電話が掛かってくることも、呼び出されることもないから。あと一つはたった二人のためにわざわざ金を使わないということだ。
電話を切って溜息を吐いた小熊に向かって明石が口を開いた。
「なに?」
問い掛けられた小熊はジャケットの上のボタンを留めた。
「部長から呼び出されたわ」
「わぉ、何かやっちゃったの? 怒られるかな?」
「あんたも呼ばれたのよ」
「そっか。じゃあ、丁度いい。一緒に行こう」
明石はドアを開けて、エスコートするように手を差し伸べたが、小熊は脇をすり抜け外に出た。そこでタイミングよく給湯室からコーヒーを持って出てきた玉木と鉢合わせた。
「よう、小熊。なんだ、呼び出しか?」
脚を止めると、明石ほどではない高身長から玉木を見下ろす形になった。その顔にはあからさまな嫌悪感が窺える。
「玉木……敬語を使いなさい。私のほうが階級は上なんだから」
「でも、同期だろ?」
「そうね。同期の恥」
「おい!」
無視して進んで行く小熊の代わりに、明石が立ち止まって胸の前で両手の拳を握って見せた。
「玉ちゃん、ガンバッ」
「お前は黙ってろ!」
ははは、と笑いながら小熊の後を追っていった明石を横目に玉木が椅子に腰を下ろすと髪をオールバックに固め、安い新品のスーツに身を包んだ若い男が傍まで寄ってきた。
「先輩、あのお二方と仲良いですよね? いったいどういう人達なんですか?」
二人の背中を見つめる男の瞳には疑心暗鬼が浮かんでいる。捜査一課に居ながら一課として行動していない二人は、知らない者から見れば不自然極まりない存在なのである。
「ああ、そうか。お前は新人だから知らないのか。奴らは捜査一課〝別班〟。通称〝レッドリスト〟。そう呼ぶのが多い。まぁ、ある意味では警察の最終兵器だな」
「最終兵器……レッドリスト、とは? あまり聞こえは良くないですが、何が由来なんですか?」
男は倉庫のドアに視線を向けて問い掛けた。
「気が付いたらみんながそう呼んでいたって感じだから明確に何が由来ってことはないと思うが、まぁ一つは明石自身が危険人物ってことだろうな。あいつは俺らのような刑事じゃないし、そもそも警察学校すら出ていない。あとは、仕事内容だな」
自分自身で納得するように頷いて背凭れに体重を掛けた玉木はコーヒーを一口飲んだ。
「仕事?」
「未解決事件の捜査」
「……たしか、未解決事件には専門の部署がありましたよね?」
警視庁特命捜査対策室という未解決事件を扱う部署が存在している。
「それは所謂、世間一般で言うところの未解決だな。奴らのは警察であろうと、どこのメディアだろうと公にできない事件の捜査だ。意味わかるか?」
「つまり――テロ、とかですか? 模倣されると困る犯罪だったり、周りが影響されやすい事件だったり」
「そういう公にはなっていない、解決したところで決して公にされることはない事件の捜査を任されているのが奴らだ」
玉木の説明に男は納得したように頷いたが、すぐに首を傾げた。
「えっ~と、それでレッドリストという名の由来は……?」
「捜査が中止になった事件のファイルには『未解決』って判子が押されるんだよ。その色が赤。だから〝レ ドリスト〟」
再びコーヒーを口に含んだ玉木は椅子の背凭れに体重を掛けたまま、椅子を回転させた視線の先には部長の前で後ろで手を組む小熊と、近くの無人のデスクに軽く腰掛ける明石の姿が。
部長は肘を着き口元の前で両手の指を交差させ、隠すように溜息を吐いた。
「君たちに事件を担当してもらいたい」
そう言った部長だけでなく、目の前に居る二人もぐったりと頭を垂れた。
「お断りします。私達には未だ封すら解かれていない事件が山のようにありますから」
即答だった。そして、それに同調するように明石も口を開いた。
「そうそう。どうせ古い事件なら犯人だって大抵は死んでいるんだからさ。わざわざどういう計画でどう犯行に及んだか、なんて調べても仕方ないでしょ」
部長はまるで二人の答えがわかっていたかのようにデスクの上に置かれていたファイルを小熊の方に向かって移動させた。
「事件が起きたの今朝だ」
すると、明石は突然目の色を変えて、顔を上げた。
「今日の朝? なに、殺人? 傷害? 強盗? それとも――」
「お断りします。部長、たとえいつ起きた事件であろうとこの男を外に出すのは得策だと思えません。考え直してください」
矢継ぎ早に疑問符を飛ばす明石を制するように小熊が口を挟んだ。
部長は苦笑いを浮かべながら頭を掻くと、体重を後ろに移動させ、椅子の軋む音が聞こえた。
「お前ならそう言うだろうと思ったよ、小熊。だが、明石がうちに来て約一年。上の人間はお前を置いておくことが有益かどうかを知りたがっている。そのための試験だと思え」
「ですが――」
反論してくる小熊に、部長の顔から笑顔が消えた。
「これは上司命令だ。小熊八重警部補、部下を連れて事件現場に急行しろ」
二人だけの班。それも一課の中でも浮いた存在の班を率いている警部補と、刑事部そのものを統括・指揮を執っている部長の命令だ。渋々だが応えは決まっていた。
「……わかりました。場所はどこですか?」
「埼玉県、奥秩父山塊だ」
「管轄が違いますね。普通なら埼玉県警の案件です。県警の許可は?」
なんとかして明石を外に出さないようにと考える小熊の思惑が見え隠れする。
「そこら辺は心配するな。話は通っている」
「そんなのどうでもいいからさ、どんな事件? 山ってことは山荘での人質事件とかかな?」
「詳しいことは知らされていないが、死体が出たらしい。場所はホテル。〝ホテル・ディープ・グリーン〟だ」
「……本当に!?」
興奮したのは明石だけだった。
そんな明石を見て部長は首を傾げ、小熊は目の前のファイルを手に取った。
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