パレイドリアの深緑

化茶ぬき

プロローグ

 ウルフ・ウォルド・エマーソン曰く

〝真実は疑いなく美しい。しかし、嘘もまた同様である〟



 二千メートル級の山々が連なる奥秩父山塊は、広大な範囲に渡り多種多様な樹木が生い茂り、大きな保水力を持った森林と、その水が川となって流れ出る渓谷が魅力的な場所である。北・中央・南に続く第四の東アルプスと評されることもあるほど多くの登山者が訪れるが、その登山道から離れた場所に人知れずひっそりと運営を続ける一軒のホテルがあった。


 排他的と言ってしまえばあまり聞こえは良くないが、実態はその通りである。ホテルの経営主であり自身もコンシェルジュを勤めている田中は徹底した顧客管理と従業員の指導で完全会員制及び少人数による少数のための完全な接客サービスを実現し、その宿泊費用とは裏腹に知る人からは『最高峰のホテル』と呼ばれている。


 時刻はまだ日も登らない深夜三時のこと。一階にある従業員スペースで客からの電話を待つ鈴木は視界の端で動く影に気が付き、視線を落としていた小説から顔を上げた。


「あれ、田中さんこんな時間にどちらへ?」


 普段はお客様の思考と行動を二十歩先まで読んで行動し、自らの予定もトイレに行く時間まで想定しておくべきと言 ている田中にしては珍しく予定に無い動きだった。


「いえ、お気になさらず。お二人はいつも通り、この場で待機をしていてください」


 誰に対しても敬語で会話をする田中は、若い見た目とは裏腹に動きにまったくの無駄が無く、普段から生活音の全てを消して行動する術を身に着けているほどだ。まさしく一流のホテルマンと称するに相応しいだろう。しかし、その動きを察知できた鈴木もまた、田中に教育を施された有能なホテルマンなのである。


 布ずれの音さえ鳴らさずに廊下を歩く田中は、正面玄関の前を通り過ぎ端まで辿り着いた。レンガ造りの壁に手を触れると、触れた場所のレンガが沈み込んだ。すると、そのレンガを外枠の一部として人ひとりが通れるサイズの壁が回転し、田中はその中に吸い込まれていった。


 従業員のみが知っている効率的に動くための秘密の通路である。


 外に出た田中は若干山を下ったところにある小さな渓流を跨ぎ、その先の二つ並んだ小屋の一つに入っていった。そこには敷き詰められた藁の中で身を寄せ合って穏やかに眠る豚の群れが居た。だが、そこには穏やかでないものも見受けられる。


「……いったい、どうして」


 しゃがみ込んだ膝に肘を重ねながら呟いた。


 広がっていく血溜りに革靴が浸かり、生臭いにおいが鼻を劈くがそんなことを気にする様子も無い。田中の目の前にある〝それ〟は最早生き物ではない。ただの肉の塊でしかない。


 そう――首の無い、ただの死体に過ぎないのだ。


 考えようによっては見て見ぬ振りもできるのだが、それは出来なかった。一つは人としての道徳心や使命感。もう一つはホテルの責任者としてお客様が危険な目に遭うようことを避けなければならないという責任感から。


 眉一つ動かさなかった田中は、立ち上がると小屋を出て血で汚れた革靴を渓流に浸けた。充分に血が流れたことを確認すると足早に、しかし音は立てずに山を登って今度は正面玄関から足を踏み入れ、真っ先に従業員スペースへと駆け込んだ。


「佐藤君、すぐに名簿を出してください」


 玄関口が映っているモニターを見ていた佐藤は田中が戻ってきたことはわかっていたが、まさか指示が飛んでくるとは思っておらず、一瞬反応が遅れた。


「あ、はい。すぐに」


 南京錠の付いたロッカーを開け、そこから辞典二冊分ほどの厚さがあるファイルと取り出し、手渡した。


「どうも、ありがとう」


 丁寧に頭を下げたのも束の間、すでに開こうと思っていたページをわかっていたのかファイルを開くと、そこに書かれている番号に人差し指を落とし、片手で固定電話の受話器を手に取った。九桁まで番号を打ち込んだところで、顔を上げた。


「鈴木君、佐藤君、我々はあくまでも普段通りに対応するまでですよ」


 二人には田中の言っている意味は、この時点ではよくわからなかったが、すぐに知ることとなる。


 そして、最後の番号を打ち込んだ。


「――もしもし、私、田中と申します」

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