第39話 人形劇の終演4

 それから三日間はなにも起きなかった。

 マヤはいつものように閲覧室で紅茶を飲みながら本を読んでいるだけだった。

 父が捜査記録を持ってくることはなく、警察からもなんの連絡もなかった。その日も斎邸は真田と川瀬のふたりの刑事が警備をしていた。

 ゆかは夏休みの宿題もマヤのおかげですべて片づけて、なにもすることがなくなった。

 最初の二日間は緊張が続いて常にまわりに気を配っていたけれど、さすがに三日目ともなると、椅子に座って本を読むだけの時間が退屈になってきた。

「ねえ、マヤちゃんって毎日本を読んでてあきないの?」

「別に。五年間そうやって過ごしてきたんだから、いまさらあきることなんてないわ」

「でも、五年間も本を読んでたら、読む本なくなるんじゃないの?」

「ここは図書館なのよ。本なら腐るほどあるわ。あなた本が好きだったんじゃないの?」

「好きだけど、大好きなものを毎日食べさせられたらあきるでしょ」

「あたしはあきないけど?」

 ぶすっとゆかはふてくされて、

「だいたい、わたしが読みたくなるような本はここにほとんどないんだもの」

「最初に出会ったとき、ゆかはあたしが好きな本を読んでみたいとか言ってなかった?」

 マヤがわざといじわるく言う。

「確かに言ったけど。でも、マヤちゃんが読んでる本むずかしすぎるんだもん」

「そんなに退屈なら、いまから父親に頼んでホテル暮らしをすればいいじゃない。すくなくともここよりかは快適かもよ?」

「それだけは絶対にいや。マヤちゃんの側から離れないって決めたんだから離れない。名探偵と助手はいつも一緒って決まってるの」

 マヤはうれしそうに微笑んだ。

「だったら、あたしの側から離れないで。退屈でもがまんなさい」

「でも、退屈で死にそう。ねえ、マヤちゃん。篠崎さんに頼んでどこかにお出かけしない?」

 足をばたつかせていると、マヤは大きく息を吐いた。

「あなた自分の立場忘れてない? なんのために刑事がいると思ってるの?」

「でも、娯楽が本とラジオだけなんて現代人だとは思えないよ。マヤちゃんもようやく携帯電話を持ってくれたと思ったのに、最近は部屋にほとんど置きっぱなしだし」

「ゆかが側にいるんだから、携帯電話を持ち歩く必要ないでしょ?」

「そうだ。お父さんに頼んでテレビとDVDを家から持ってこようかな。そうすれば、マヤちゃんと一緒に映画が観られるし」

「活字離れも深刻ね。ゆかみたいな子が増えたら、ここの本も腐るしかないんでしょうね」

「十四歳のくせに、そんな年寄り臭いこと言わないでよ」

 ゆかは大きくため息をこぼした。

「ああ、命が狙われてなければ、もっとマヤちゃんと外に出かけられるのに」

「だいぶ疲れてるみたいね」

「マヤちゃんはよく平気そうな顔してるよね」

 警察から捜査の進展があったかどうかの連絡もない。マヤも警察に連絡を取り合っていないから捜査状況はわからないらしい。けれど、このまま命が狙われる緊張と戦いながら、警察からの連絡を待つ日々はかなり疲れる。

「ねえ、マヤちゃん。やっぱり霧生さんが真犯人なのかな」

 ゆかがぽつりとつぶやくと、マヤは本を読む手をとめて、

「あなたはどうなの? 慎一郎が真犯人だと思うの?」

「わからないよ。霧生さんはやさしいひとだったよ。でも、ミスティック・ドールズになったら理性がなくなるんでしょ? だったら、わたしの知らない霧生さんになってるかもしれないんでしょ?」

 霧生がミスティック・ドールズ事件の真犯人だとは思いたくない。あんなに穏やかでやさしく接してくれた青年が、よりにもよって夏子を殺しただなんて。

 だけど、ゆかと夏子が親しい関係だと霧生は知っていたし、彼はかつて自分がミスティック・ドールズであることをマヤや警察にも隠していた。

「あのとき、わたしが夏子お姉ちゃんの家に泊まることを知ってたのは霧生さんだけだし。紅茶の缶に睡眠薬が入れることもできたんだよ」

 夏子と一晩語り明かすつもりだったのに、午後十時にはふたりとも強烈な睡魔に襲われて眠った。どうやらそれは紅茶や珈琲の缶に入れられていた睡眠薬が原因らしい。食事に招いた霧生なら、睡眠薬を紅茶や珈琲の缶に入れることもできたはずだ。

「ゆかは慎一郎が缶をいじってるところを見たの?」

「ううん。見てないけど。じゃあ、霧生さんは犯人じゃないってこと?」

「さあね。いまの段階ではなんとも言えないわ」

 ううっ、とゆかはうなった。

霧生が犯人ではないと強く否定できないのは、彼には隠し事が多すぎたからだ。

 ミスティック・ドールズ事件のことにはくわしくないと言いながら、ミスティックに関することもマヤとゆかの関係も知っているようだった。しかも、第二の事件では霧生らしき人物が犯行現場にいた姿を目撃している。

 頭の中で霧生真犯人説とそうでない説がいつまでも回っている。

「もし霧生さんが犯人じゃないなら、どうしてミスティック・ドールズだと黙ってたんだろ」

「ゆか。答えの出ない疑問を、いつまでも考えるのは不毛よ」

 ふいにマヤは本を閉じた。

「さあ、そろそろ夕食の時間だし、閉館にするわ」

 外を見れば、いつの間にか空は茜色に染まっている。

 今日も一日が終わる。これからは篠崎の料理をふたりの刑事と食事をして、マヤと一緒に風呂に入って寝るだけだ。篠崎も刑事たちも退屈しないようにさまざまな話題を出してくれるものの、図書館に閉じ込められているという不自由な生活は変わらない。

 これではマヤはミスティック・ドールズ事件が起きる前と変わらないじゃないか。

 森の中の図書館という鳥籠に囚われている。はやく鳥籠の中から外に出して楽しいことをたくさんマヤにも知ってほしいのに。

「ゆか。あなたは退屈してるかもしれないけど、あたしはいますごく楽しい」

 廊下を歩いているとき、ぽつりとマヤがつぶやいた。

「えっ? こんなに不自由なのに?」

「あたしはずっとひとりだった。篠崎がいてくれたけど、こんなふうになんでも話し合える友達はいなかったわ。だから、あなたが一緒にいてわがままを言ったり甘えたりしてくれるのはすごくうれしい。友達と一緒に食事をすることがこんなに楽しいだとも思わなかった」

「……マヤちゃん」

 鼻の奥がつんとして、目許が涙でにじんだ。

 ゆかにとっては当たり前のこともマヤにはすべてがはじめての経験なんだろう。学校にもまともに通ったことのないマヤは友達とおしゃべりを楽しながらお弁当を囲ったり、いろいろな場所に出かけて楽しい思い出を分かち合ったりすることもなかった。

「わたしなんでもする。マヤちゃんが楽しんでもらえるようになんでもするよ」

「だったら、この事件が終わったら、映画に連れていってくれる?」

 えっ、とゆかは聞き返した。マヤはすこし顔を赤らめて、

「あたし映画館に一度も行ったことないし、映画もまともに見たことがないの。だから、この事件が終わったら、あなたの好きな映画に連れていって」

「もちろん。絶対一緒に行こ」

「楽しみにしてる」

 マヤははにかんだように微笑む。

 そうだ。なにを勘違いしていたんだろう。事件が解決すればマヤが救われると思っていたけれど、ゆかがするべきことは事件解決の手助けをすることじゃない。

 ゆかが警察のように事件解決のために力になることなんてなにひとつない。けれど、彼女にたくさんゆかの思い出を話したり、マヤが好きなもの嫌いなものを聞いたりしてマヤの心を楽にすることならできる。

「じゃあ、あたし書斎に本を置いてくるから、先に食堂に行ってて」

 わかった、と返事をすると、ゆかはひとり食堂に向かった。

 食堂では篠崎がひとりで夕食の準備をしていた。

今日はローストビーフとシチューのようだった。香ばしい匂いがオーブンから漂っている。煮込まれたホワイトソースからもいい匂いがあふれている。

 こんな不自由な生活の中、篠崎の料理が唯一の楽しみだった。

「わあ。おいしそう。篠崎さん、わたしも手伝います」

 にこにこしながら篠崎に近づいていくと、

「どうしました? なにかうれしいことでもありましたか?」

「やっぱわかります?」

「ええ。もちろん。とても倖せそうな顔をしていらっしゃいますよ」

 鏡に映る自分の顔は、初デートの申し込みがうまくいった女の子みたいな顔だった。

「実は事件が解決したら、マヤちゃんと外で映画を観る約束をしたんです」

「それはそれは。ようございましたね」

「でも、どんな映画ならいいかな。ハリウッド映画は好みじゃないだろうし、若者向けの恋愛映画も嫌いだろうし……あっ。CGがたくさん使われた映画なら、はじめてでも楽しめるかも」

 本や新聞では知識を得たことがあるだろうけど、実際に大きな画面でCG映像を見せたら、マヤがどんな反応をするだろう。

 きっとマヤはリアルなCG映像に目を丸くするだろう。だけど、絶対に驚いた素振りなんか見せずに、あれこれとCG映像がおよぼす悪影響について講義するはずだ。

「篠崎さんはどんな映画だったら、マヤちゃんよろこんでくれると思います?」

「気を張らなくても、ゆか様と一緒ならどんな映画でも楽しんでくれると思いますよ」

「そんな。わたしと一緒にいるだけじゃおもしろくないですよ」

「いえ。ゆか様がいらっしゃってから、ほんとうにマヤ様はお変わりになられましたから」

 篠崎からそう言われると、なんか照れてしまう。

 ゆかにとってはなんでもないことだけど、マヤにとってははじめての貴重な一歩だ。だったら、やっぱり成功させて友達と出かけることを好きになってもらいたい。

 篠崎にマヤが好きな小説の種類などを聞きながら、ゆかは夕食の準備をすすめた。

 いつしかテーブルには五人分の皿や食事が並んだ。けれど、食事の準備が終わってもマヤもふたりの刑事たちもいっこうに姿をあらわさなかった。

「……遅いですね、マヤちゃんたち」

 ゆかは料理をじっと見ていたが、やはりマヤも刑事たちも食堂に来ない。

 急に自分が命を狙われている身だと思い出し、体がざわめいた。

「ま、まさかマヤちゃんたちになにかあったのかも」

「きっとなにか用事をしてるのでしょう。わたしが三人を呼んでまいります」

「わたしも一緒に行きます!」

 ゆかは篠崎と一緒にマヤの書斎へと向かった。

「マヤ様。マヤ様。食事のご用意ができましたよ」

 何度書斎の扉を叩いても中から返事はなかった。

「……まさか」

 一瞬悪い予感が頭の中を過ぎる。篠崎の顔を見ると、彼はうなずいた。

「マヤちゃん!」

 ふたりはいきおいよく書斎に入ったものの、中には誰もいなかった。

「どこ行ったの?」

 よく見れば、書斎から庭へとつながる出窓が開いている。出窓へと近づいていくと、車椅子のマヤが森の一角をじっと見つめていた。

「――マヤちゃん、なにしてるの? ごはんもうできたよ?」

 ゆかと篠崎がマヤの側に歩み寄ろうとすると、

「ゆかも篠崎もそれ以上来ないで!」

 マヤに怒鳴られ、ゆかはびくっと足をとめた。

「どうしたの? なにが起きた……ひっ!」

 ゆかはその場にへたり込んだ。マヤに怒鳴られた意味をようやく理解した。

 茂みからのぞいていたのは人間の足。

 人間の足だけではなく、腕も茂みから出ている。目をよく凝らせば、夕闇に包まれた森の奥で人間と思しき影が地面に横たわっている。その影には頭から上がなかった。けれど、その茂みから出ている茶色のスーツには見覚えがある。

「まさかこれって……」

「そうよ。真田と川瀬の死体よ」

「どうして……」

 数時間前まで元気な姿だったのに。昼食のときも釣りの話で盛り上がったのに。

 その刑事たちがいま目の前でバラバラ死体となっているなんて。

「お嬢様。これはいったいどういう……」

「篠崎も近づかないで。犯人の罠があるかもしれない」

 マヤは大声で制すると、ゆかたちの背後を指さした。

「あれを見て」

 振り返った瞬間、ゆかは地面にへたり込んだ。

〝おまえのすべてを知っている。必ず復讐してやる〟

 屋敷の壁一面に真っ赤な塗料で、そう書かれてあった。

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