第37話 人形劇の終演2
その夜、ゆかはなかなか寝付けなかった。
斎図書館にも隣接する斎邸にも冷房機がない。けれど、森の中にあるために夜はかなり涼しい。窓を開ければ、深緑で冷やされた風が部屋の中に流れ込んでくる。
ゆかは何度もベッドの上で寝返りを打ったものの、目が冴えて全然眠れなかった。
マヤが貸してくれたゲストルームは、ヨーロッパの王侯貴族のベッドルームのようだった。部屋は四十畳はある。ゆかの小さな部屋がいくつ入るだろう。ベッドには天蓋が付いているし、高級そうなアンティークの調度品がずらりと並んでいる。
そのわりに、部屋にはテレビやラジオなど退屈しのぎになりそうなものはなにひとつない。明治時代に建てられた洋館のような内装は、時代からあきらかに逆行している。十四歳の女の子の趣味で建てられたとはとても思えない。
「……眠れない」
羊の数を一万匹数えたところで、がばっとはね起きた。
ゆかは寝付きが悪いほうじゃない。旅行先のホテルでも修学旅行でも一番最初に眠り、一番最初に目が覚めるほどに寝付きがいい。けれど、ここ一週間ほどはほとんどまともに眠れていない。
原因はわかっている。たぶん母と夏子の事件の後遺症だろう。
母と夏子は自分が眠らなければ、あるいは事件を食いとめることができたかもしれない。特に夏子のときは眠らなければ、絶対事件を食いとめることができたはずだ。
だから、眠ればまた悪いことが起きるんじゃないかとどうしても思ってしまう。
「マヤちゃんの部屋に行ってみよ」
ゆかはベッドからはね起きると、マクラを抱いて廊下に出た。
あかりが消された斎邸は、不気味なほど静まりかえっている。あいかわらず暗闇に慣れることはない。まして、あんな事件の直後だから、体が自然と震えてくる。
(マヤちゃんに一緒に寝るように頼めばよかったよ)
入院中から夏子の告別式が終わるまでは、ずっとマヤが側にいてくれた。食事をするときも眠るときも一緒にいてくれた。けれど、マヤの寝顔がかわいいことをからかったら、今日は一緒に寝てくれなかった。
いまからあやまって、マヤと一緒に寝ることにしよう。
「……あれ? ここ図書館?」
どこをどうまちがえたのか、図書館の玄関ホールに出ていた。
マヤの部屋に向かって歩いていたのに、曲がり角をまちがえたらしい。いつもは図書館の閲覧室にばかりに入りびたっていたから、屋敷のほうは勝手がよくわからない。暗闇に包まれた図書館は冷え冷えとした空気が漂い、夜の学校の雰囲気とよく似ていた。
瀬戸遙誘拐監禁事件を思い出し、背筋がぶるっと震えた。
はやく戻ってもう一度マヤの部屋をさがそう。
「えっ?」
ふと大きく伸びた人影がホールを横切っていった。よく見れば、それは図書館の開架書庫から出てきた影だった。
(……誰?)
こんな時間に誰だろう。待機中の警官が見回りでもしているんだろうか。けれど、懐中電灯も持たずに見回りをするなんておかしい。
(まさか……)
ミスティック・ドールズ事件の真犯人がここまで来たんだろうか。図書館から屋敷の入口をさがしているのかもしれない。このまま放っておけば、屋敷の中に入られ、眠っているマヤや誰かが襲われるかもしれない。
だけど、もしかしたらこれはチャンスかもしれない。
相手が油断しているいまなら犯人を取り押さえることができるかもしれない。待機している警官に連絡したほうがいいだろうか。だけど、その間に犯人を見失うかもしれない。
「よしっ」
ゆかは意を決すると、マクラをホールの棚に置いて開架書庫へと向かった。
いつの間にか、暗闇の恐怖なんか忘れていた。夏子を殺しただけではあきたらず、いままたマヤを苦しめようとする犯人を絶対に許すわけにはいかなかった。
慎重に書棚の間からあたりをうかがうものの、残念なことに誰の姿も見あたらない。
結局、誰も見つからないまま開架書庫の突き当たりまでたどり着いた。
目の前には閉架書庫の扉があるが、そこも鍵によって厳重に閉ざされている。
「誰だっ?」
突然、白い光がゆかを照らした。びくっと振り返ると、ひとつの人影があった。
(――ばれた?)
もしかして真犯人に見つかったんだろうか。全身を緊張で強ばらせていると、白い光が他の方向へと向けられた。
「なんだ。遠鳴捜査一課長のお嬢さんじゃないですか」
「――さ、真田さん?」
目の前にいたのは、斎邸を警護している警官のひとり、八王子警察署の真田巡査部長だった。
ゆかも相手が真田とわかってほっと息を吐いた。
「こんな時間にこんなところでなにをしてるんですか」
「実はここで変な人影を見たんです」
「なんだって? それはほんとうですか?」
「はい。まちがいありません。この開架書庫に入っていくところを見たんです」
「じゃあ、調べてみましょう。お嬢さんはわたしの側から離れないで」
真田はゆかと共に、念入りにあたりを調べたものの、やはり誰の姿もない。窓硝子や書棚にもなんの異変はなく、誰かが忍び込んだ形跡すら見られなかった。
「ほんとうに誰かいたんですか? わたしも三十分前にここの見回りをしましたけど、おかしなところはありませんでしたよ? 木の枝かなにかの影を見まちがいでは?」
「そんなはずありません。ちゃんと人の形をしていました」
「どうかなさいましたか」
ふいに声をかけられて振り返ると、篠崎がゆかのマクラを手に立っていた。
「これが玄関ホールに落ちていましたけど、なにかあったんですか?」
「ゆかお嬢さんが人影を見たというものですから、見て回っていたんです」
「それでなにか見つかりましたか?」
「いえ、誰の気配もありませんでした。きっと見まちがいでしょう」
篠崎の心配の声に、真田は手を振る。
「そんなことありません。わたしちゃんと見たんですから!」
ゆかが振り返った先には、閉架書庫の入口があった。
「もしかしたらここに忍び込んでるかもしれないじゃないですか」
「しかし、そこはいつも鍵がかかって誰も入れないようになってます。鍵は屋敷の書斎に管理していますし、誰かが屋敷に入らないかぎりは、そこに入るのはむずかしいのでは?」
確かに屋敷に入ってから、わざわざ閉架書庫に入るなんておかしい。屋敷に入るくらいなら、犯人は直接ゆかやマヤを狙ってくるはずだ。
ううっ、とゆかがマクラを抱いていると、篠崎は穏やかに微笑んで、
「まあ、念のため見ておきましょう。真田様、ご一緒に中を確認していただけませんか」
「わかりました」
篠崎は寝間着から閉架書庫の鍵を取り出すと、閉架書庫の中を確認していった。
しばらくしてふたりは戻ってきたものの、なにも見つからなかったことを教えられた。納得がいかなかったけれど、これ以上ふたりに迷惑をかけるわけにもいかない。
「ごめんなさい。わたしの見まちがいでした」
「いえ、ゆかお嬢さんが心配なさる気持ちもわかりますよ。あんな事件に遭われたあとなんですから神経が過敏になっても仕方ありません」
真田も篠崎も屈託のない笑顔で手を振った。
確かに夏子の事件以来ほとんど夜は眠れていないから、疲れているのかもしれない。だから、木の枝の影を人影だと勘違いしたのかもしれない。
「ゆか様はマヤお嬢様を本当に大切にされてるのですね。ありがとうございます」
「い、いえ。わたしこそ、こんな夜中に迷惑をかけちゃって」
ゆかがマクラに顔をうずめていると、篠崎は苦笑した。
「篠崎さんはこんな夜中にどうして図書館のほうに来たんですか? 篠崎さんも見回りを?」
真田の質問に、篠崎は苦笑して、
「いえ。実は毎晩晩酌をしながら、本を読むのがわたしの日課でしてね。そうだ。よろしければ、ゆか様も真田様もお夜食でもいかがですか。ゆか様にはまたハーブティーを入れましょう。すこしは気分が和らいで眠れると思いますよ」
「そんな。そこまでしてもらわなくても……」
「わたしも一応職務中ですから」
ゆかと真田は遠慮したが、篠崎はにっこりと微笑む。
「いえ、料理のほうはあたためるだけですから、どうぞ遠慮なさらずに」
篠崎に腕を引っぱられるようにして、ふたりは食堂のほうへと向かった。
食堂に入ると、篠崎はキッチンのほうに向かい、すぐさま三人分の料理が差し出された。料理は洋風な建物とはイメージとはちがって中華粥だった。
「もうおひとりの刑事さんの分もご用意いたしましょうか」
「お気づかいは無用です。川瀬はいま仮眠を取っていますから」
真田には珈琲が差し出され、ゆかにはハーブティーが差し出された。
「これでしたらお仕事の邪魔にはなりませんよね?」
「毎回すみません。わざわざわたしたちの食事まで用意していただいて」
「いえいえ。わたくしたちの命を守っていただいてるのですから、これくらいは」
あっという間に、目の前に並べられた料理を見て、ゆかは感心の声をあげた。
「ほへえ。ほんとうに篠崎さんってなんでもできるんですね」
「いえ、下ごしらえしてましたから、すぐにできるんですよ」
そういうわりには、ずいぶんと手がこんだ料理だ。
「これは意外と簡単なんですよ。今度ゆか様にもお教えしましょうか」
「はい! ぜひお願いします。練習してマヤちゃんに食べてもらいたいです」
篠崎のように料理がうまくなって、マヤをもっとよろこばせてあげたい。
(……夏子お姉ちゃんも料理が上手だったな)
ほんとうなら夏子に料理をもっと習いたかった。篠崎のようなシェフ顔負けの料理じゃなくていい。もっとあたたかくて食べたひとの心を満たしてくれるような料理をつくりたかった。
「このハーブティーもすごくおいしいです」
「ありがとうございます。カモミールとレモングラスなどを調合したものです」
「篠崎さんっていつもこの家にいますけど、ご家族とかいらっしゃらないんですか?」
「ええ、いまはひとり身です。妻と子供がいたのですが、どちらも生まれつき体が弱くて亡くなりました。それからはマヤお嬢様がわたしの娘のようなものです」
「ごめんなさい。変なことを聞いちゃって」
「いえ、こんなふうに食卓がにぎやかなことはとても楽しいですよ」
ゆかはハーブティーをもう一口飲んでから、大きく息を吐いた。
「……それにしても、いつまでこんな日が続くんでしょうか」
ゆかがぽつりとつぶやくと、真田は料理を食べる手をとめて、
「しばらくは窮屈でしょうが、がまんしてください。いま捜査本部の人間は寝ずに捜査をしています。近いうちに必ず犯人を捕まえますので、それまでの辛抱です」
「でも、また犯人がわたしたちを襲ってきたら……」
「だからこそ、自分たちがいるんです。ゆかお嬢さんも今日のような勝手な行動は慎んでください。あなたは犯人から命を一番狙われる立場にいることを自覚したほうがいい」
「……すみませんでした」
確かに真犯人への怒りで我を忘れていたかもしれない。切り裂きピエロ事件のときも勝手に犯人を追いかけるなとマヤに注意されたばかりだ。
もうすこし頭を冷やして、マヤのように冷静に対処できるようにならないと。
「まあまあ。ゆか様は気が立っておられるんですよ。眠ればすこしは気持ちが楽になります」
「そうだ。篠崎さんに教えてもらおうと思ったんです。マヤちゃんの部屋って……」
ゆかがマヤの部屋をたずねようとしたときだった。
突然地響きのような物音が屋敷を駆け抜けた。
「なんの物音だ?」
真田はとっさに立ち上がってあたりを見渡す。
「いまの物音は二階のようです」
ゆかは篠崎や真田と一緒に二階へと駆け上がった。途中、仮眠を取っていたもうひとりの警官・川瀬も部屋から飛び出して三人に合流した。
物音がしたのはどうやらゆかの部屋のようだった。
急いで部屋に飛び込むと、ゆかは自分の部屋の光景に目を剥いた。
「これは……」
天蓋が崩れ落ちてベッドにめり込んでいた。ベッドマットが破けてスプリングがむき出しとなり、ベッドに置かれていたMP3プレイヤーや携帯電話なども粉々に壊れている。
もしあのまま眠っていたら、自分が下敷きになっていたかもしれない。
「ゆかっ!」
悲鳴のような声に振り返ると、マヤが廊下にはいつくばっていた。
「マヤちゃん」
「ゆか、無事だったのね」
ゆかの無事な姿を見て、マヤはほっと息を吐いた。
ゆかは急いでマヤの駆け寄ると、彼女の肩を抱いた。マヤの肩が小刻みに震えていた。車椅子に乗ることを忘れるほど心配してくれたのだろう。
「やはり誰か侵入してたんだ。すぐ屋敷とあたりを調べるぞ」
「あなたたちは三人一緒にいて絶対動かないでください」
真田と川瀬は付近を調べるために部屋から出て行った。
「ゆか、もう離して。あたしもすこし調べる」
マヤは床の上を張ってベッドに近づく。その顔はもう友達を心配する女の子の顔ではなく、ミスティック・ドールズ事件に立ち向かう探偵としての顔に戻っていた。
「マ、マヤちゃんあぶないよ」
ゆかはあわててマヤの元に駆け寄るが、マヤは天蓋のがれきを調べていた。ゆかがあたりを見回していると、夜風でカーテンがなびいていた。
「やっぱり犯人は窓から入ってきたのかな……」
ゆかの質問には答えず、マヤはじっとがれきの破片を見つめていた。
その瞳は刃物のように鋭く、怒りの感情がほとばしっていた。
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