第23話 人形の家の惨劇3
「……なにこの量?」
開架書庫から戻ってきたマヤが開口一番発したのが、この台詞だった。
マヤの前にはいま山のようなお弁当が並んでいる。洋食から和食まで何段にも重ねられた重箱を広げられている。しかも、ご丁寧に魔法瓶にはいれたての珈琲まで入っている。
「宴会でも始めるつもり? 花見の時期はとうに過ぎた気がするんだけど」
「知り合いの夏子お姉ちゃんがお弁当をみんなに用意してくれたの」
「あなた毎回勝手にうちで昼食食べていくじゃない。なんでいまさらお弁当なんか」
「いや、これにはいろいろと深いわけがあってね」
ほんとうは夏子が霧生のために用意したお弁当、だなんて本人の前で言えない。
「ゆか。わかってる? ここ図書館だから飲食禁止なんだけど?」
「でも、お客さん誰もいないんだからいいじゃない」
「規則は規則よ」
「なにそれ。マヤちゃんだって、いつも篠崎さんが入れた紅茶を飲んでるじゃない」
「あたしは館長だからいいのよ」
「そんなの不公平だよ」
ゆかが文句を言っても、マヤはつんと澄ました顔を見せるだけ。
「まあまあ。館長がそう言うなら持って帰ろう。ぼくが捜査本部の連中と食べるよ」
「だめです。こんな真夏の陽気なら時間が経ったら悪くなっちゃうじゃないですか。せっかくの料理を無駄にするつもりですか」
ゆかが身を乗り出して迫ると、さすがの霧生もすこしたじろいだ。
「い、いや、そんなつもりじゃないんだけどね」
「これはいまここで食べるべきものなんです」
断固として言うと、マヤはやれやれと首を振った。
「わかったわ。今回だけは許すわ。その夏子さんって人に免じてね」
「ありがとう!」
ゆかは満面の笑みを浮かべると、篠崎が用意してくれたティーカップに珈琲を注ぐ。
マヤは苦笑しつつも食事を取り始めた。
(この料理を食べたら、きっと霧生さんに夏子お姉ちゃんの想いが伝わるよね)
霧生はそんなゆかの視線を気づかずに黙々と食べていた。
たわいもない雑談をしながら食事をしていたが、その食事を食べ終えると、
「さて、そろそろ本題に入ろうか」
霧生が急に真剣な面持ちで切り出した。
「えっ? 本題って? なにか用事があるんですか」
「当たり前じゃないか。いくらぼくが新米刑事でも、そんなに暇じゃないんでね」
そう言うと、霧生は厳重に縛られた封筒から書類を取り出した。
「君たちはミスティック・ドールズをふたり捕まえたね。今回警視庁のほうでも五年前のミスティック・ドールズ事件と今回の一連の事件の因果関係について捜査をはじめたんだ」
けれど、と霧生はつけ加える。
「ミスティック・ドールズ事件は警視庁や警察庁でも重要機密扱いになっているから、大々的に捜査することができなくてね、かなり捜査は難航してる。でも、すでに逮捕された未成年の容疑者の中にも、ミスティック・ドールズの特徴である〝目が青白く光る〟人間がいたという報告をいくつも受けたんだ」
「やっぱりあの二件だけじゃなかったのね?」
「そうだね。もしかしたら五年前の〝ミスティック〟の効能を鎮静化させる薬が不十分だったんじゃない?」
「それはわからない。でも、五年前に助け出された子供たちは一年間警察の保護観察を受けていたけれど、犯罪を起こさなかったはずよ。しかも、いまミスティック・ドールズになっているのは五年前の子供たちとは無関係の子供たちでしょ?」
ゆかは目の前でくり広げられる会話に全然ついていけない。
「あの、ミスティックって、五年前に子供たちが人体実験におこなわれた事件となにか関係があるんですか」
「――慎一郎、あなたまさか」
マヤの顔が気色ばむ。霧生はなだめるように、
「だいじょうぶ。五年前に誘拐事件があったことと、それが人体実験を目的にしていたことしかしゃべってないから。君が怖がっていることはなにひとつしゃべってないよ」
マヤは親指を口惜しそうに噛む。どうしてマヤは秘密にしたがるのだろう。
「マヤくん。ゆかくんはもう二回もミスティック・ドールズ事件に巻き込まれたんだ。彼女もミスティック・ドールズに関してはある程度知っておくべきじゃないかな」
「だけど……」
マヤの肩が小刻みに震えている。こんな弱気なマヤを見るのははじめてだった。
「だいじょうぶ。君が怖がっていることは決して言わないから。だから、話してもいいね?」
「勝手にすれば」
マヤは弱々しく告げた。霧生はふうと大きく息を吐くと、
「それで、あの、ミスティックって?」
「ミスティックというのは人体実験のときに子供たちに投与された薬なんだよ」
「薬? その薬と今回の事件となんの関係が?」
「このミスティックは簡単に言えば、〝成長を促進させる薬〟なんだよ」
「成長を促進させる薬?」
「ああ。人間にはまだまだ可能性がある。頭脳も体力も。けれど、多くの人間は人間本来が持つ可能性を引き出すことができずに一生を終えている。ミスティックはまだ成長段階にある子供の脳細胞や体の細胞に刺激を与えて体力や頭脳の可能性を引き出そうとしたんだ」
「つまり、天才を生み出す薬ってことですか?」
いや、と霧生は首を振る。
「人工的に人間を進化させる薬ってところかな。だけど、ミスティックの力はそれだけじゃない。人間の免疫機能を高めることや老化を防ぐ可能性もあったらしい。だから、人間がいま抱えているどんな難病も治療することができるかもしれないと期待されてたんだ」
「ほへえ」
まさに〝神秘〟だ。人工的に人間の身体能力や頭脳の力を引き出すなんて。
思い返せば、第一の事件の犯人・水瀬華乃は学年トップの成績だし、第二の事件の犯人・吉岡貴は国体に幅跳びで出場している選手だ。
「じゃあ、水瀬さんや吉岡ってひとが優れてたのは、ミスティックのおかげなんですか」
「いや、ミスティックの効力はもっととんでもなくおそろしいものだったらしい。成績が学年トップだったり国体出場したりするレベルなんかミスティックのおかげじゃないよ」
「あくまで机上の空論よ。実際にミスティックにどれだけの力があるかなんてわからないわ」
マヤは吐き捨てるように言う。
「でも、そんなにすごい薬がなんで今回の事件と関係あるんですか?」
「ミスティックは人間の成長を飛躍的に進歩させる効力があったけれど、同時におそろしい副作用もあったんだよ。人間の理性を破壊するという副作用がね」
「人間の理性を破壊する?」
ああ、霧生はうなずく。
「理性が破壊された人間は自分の欲望に忠実になってしまったんだよ。ほしいものは力ずくでも奪いたい。憎い相手はどんな手段を使っても殺したい。楽しいことは人殺しでもする」
ゆかはぞっと背筋が寒くなった。
幼なじみの独占欲から瀬戸遙を監禁した水瀬華乃。倖せな家族に対する嫉妬から通り魔となった吉岡貴。どちらも誰もが抱えている醜い感情が表に出たものだ。人間が理性で隠しているものとは、あんなにもおそろしいものなんだろうか。
「それとマヤちゃんはどんな関係にあるんですか」
「五年前もミスティックを投与された未成年者の事件が多発してね。殺人や強盗などの凶悪な事件があいついだ。その事件にミスティックが関係していることと、ミスティックを利用して人体実験をおこなっている研究施設があることをマヤくんが警察に通報したんだよ」
「それは推理で見抜いたってことですか」
「違うよ。それは……」
「慎一郎。もういいわ。それ以上話さなくていい」
一番知りたかったことなのに、マヤによって話をとめられた。
(マヤちゃんはなにをそんなに怖がってるんだろう)
マヤが五年前の事件とどう関係しているのかはわからないが、今回の事件がミスティックと呼ばれる人間の身体能力や頭脳の成長を促進させる薬が関係していることはわかった。
だけど、あまりに現実離れしている。脳に影響を与えて人工的に人間を進化させようとした実験があり、その実験の結果おそろしい犯罪者たちが生まれただなんて。
ただ、格闘技に素人の水瀬華乃がゆかを押し返した力や、屋上から八メートルの幅を軽々飛び越えた吉岡貴の跳躍力を目の当たりにしたいま、その話があながち冗談とも思えない。
「この間も話したように、ミスティック・ドールズ事件は五年前に犯人が全員死亡で終わっている。人体実験を受けた子供たちも全員ミスティックを無効化する治療を受けたんだ」
「じゃあ、なんでいままたミスティック・ドールズが犯罪を起こしてるんですか」
「わからない。治療が不完全なものだったのか、あるいは……」
「第三者の意図によるものかね」
マヤが霧生の言葉を引き継ぐ。
「慎一郎。あたしになにか見せるものがあるんでしょ?」
「ああ。でも、ゆかちゃんは見ないほうがいい。この間のより刺激が強すぎる」
「だいじょうぶです。わたしだってマヤちゃんの力になりたいんです」
ゆかが断固とした決意で告げると、霧生は渋々書類から写真を一枚取り出した。
「うっ」
その写真を見た瞬間、思わず吐き気がこみ上げてゆかは口許を覆った。
写真にはどこかのマンションに壁に真っ赤な塗料で『For Maya』と書かれてあった。けれど、赤黒い液体からまちがいなくなにかの血液で描かれたものだとわかる。
「なんなんですか、これ」
「これは人間の血液であることが判明した。そこから三キロほど離れた川の河川敷で女性のバラバラ死体が発見された。DNA鑑定から死体の女性の血液だと断定されたよ」
マヤは写真を見ながらがたがたと震えていた。
「ど、どうしたの、マヤちゃん? 顔が真っ青だよ」
写真の刺激が強すぎたのだろうか。けれど、切り裂きピエロの事件でも血痕の写真を平然と見ていたマヤがこれほど脅えるなんておかしい。
「……暁人」
マヤは震えながらぽつりとつぶやいた。
「暁人? マヤちゃん、暁人って誰?」
ゆかの質問にも、マヤは写真に心を奪われて答えなかった。
霧生は写真を一カ所に集めながら、
「ゆかくん。暁人はミスティックを投与されて理性を壊された子供のひとりだよ。五年前にミスティックで狂った彼は研究所の職員を全員殺した挙げ句、研究所に火をつけたらしい」
「じゃあ、まさか今回の殺人事件も暁人ってひとが?」
「そんなはずない。あいつが生きてるはずない。あいつはまちがいなく死んだんだもの」
マヤはまるで自分に言い聞かせるように言い続ける。こんなに動揺しているマヤを見たのははじめてだ。だけど、どうして血文字から暁人という人物の名前が出たんだろうか。
「マヤちゃん、だいじょうぶ? すこし部屋で休んだほうがいいんじゃない?」
思わず肩を支えようとしたが、
「さわらないで!」
と腕を振り払われた。マヤははっと我に返ると、
「ごめんなさい。平気。すこし昔のことを思い出しただけだから」
「マヤくん。今日はこれくらいにしておこうか。あまり無理しないほうがいい」
「ひとの心配はいいから話を続けて。あたしはだいじょうぶよ」
マヤが毅然とした声で告げると、霧生はため息をひとつこぼして、
「他にも何件か同様の文字が描かれた事件が起きている。さすがに被害者の血で描かれたのは、この事件だけで、他の事件はスプレーインクやペンキによるものだったよ」
「他に描かれた写真はあるの?」
霧生は書類から何枚か写真を撮りだした。他の写真にも『For Maya』と書かれた文字がいくつも並んでいた。マンションの壁や高架線の柱や地面など至るところにマヤ宛と思われる文字が描かれていた。
「文字の筆跡が異なってる。全員違う犯人の仕業ね」
「そのとおりだよ。筆跡鑑定でも別々の人間が書いたと断定されてる」
霧生の感嘆の声にも、マヤは表情を変えない。
「全員違う犯人? つまり何人もの犯人がマヤちゃんを狙ってるってことですか」
「違うわ。ミスティック・ドールズをあやつってる真犯人がいるってことでしょ」
そう言うマヤはすでにいつもの冷静さを取り戻していた。
「そのとおりだ。警察でも今回のミスティック・ドールズ事件は偶発的なものではなく、何者かによって引き起こされた可能性が高いと見てるんだ」
「でも、そんなことが可能なんですか」
「わからない。ただ、今回のミスティック・ドールズ事件の犯人たちは逮捕されたときに全員事件の記憶が消えてるんだ。口をそろえて、なぜそんなことをしたのかわからない、とね」
「そんなことって……」
最初の瀬戸遙監禁事件を起こした水瀬華乃も事件の記憶がなくなっている。
「でも、なんでマヤちゃんが狙われなくちゃいけないんですか」
「たぶん五年前の事件と深く関わり合いのある人物が真犯人なんだろうけれど……」
「でも、犯人は全員死んだって……」
「確かにそうなんだけどね」
霧生は深々とため息をつく。
「でも、なんでマヤくんは真犯人がいることがわかったんだい?」
「そんなの吉岡貴があたしを生かしてたことを考えればすぐに見当がついたわ」
確かに吉岡貴は販売ショップの販売員は簡単に刺したのに、マヤだけは傷ひとつ負わせずに小屋に監禁した。しかも、いま考えれば、携帯電話を持たせたまま監禁するなんて変だ。
「とにかくゆか。事件が解決するまで、もうここには来ないで」
「えっ? どうして?」
「当たり前でしょ。いままでとは違うわ。ミスティック・ドールズをあやつっている真犯人は今度は直接あたしを狙ってきてる。このまま一緒にいればあなたの命まで狙われるのよ」
「だったら、ずっとここにいてマヤちゃんのことを守ってみせる」
「この間も言ったはずよ。たったひとりでなにができるっていうの? あやつられたミスティック・ドールズが大挙して押し寄せてきたら、あなたひとりじゃなにもできないのよ」
「そんなのマヤちゃんだって同じだよ。篠崎さんだって出かけるときがあるし、マヤちゃんがひとりぼっちのときに襲われたら、誰がマヤちゃんのことを守るっていうの?」
ゆかが頑として言うと、ふいにマヤがゆかの腕を強く掴んだ。
「ゆか、お願い。あたしの言うことを聞いて。あたしはあなたまで失うわけにはいかないの」
マヤの声が震えていた。必死に泣くのをがまんしているようだった。
「できないよ。いつ狙われるかわからないのに、マヤちゃんをひとりぼっちにさせておけない」
「真犯人はあたしを直接狙うのなら、とっくにこの図書館を襲ってる。いま真犯人がしたいのはあたしの心をずたずたにすること。あなたはいまのあたしにとって一番親しい存在。だからこそ、側におくわけにはいかないの。お願いだからわかって」
プライドの高い彼女がこんなに懇願するなんて。よほどゆかを失うことをおそれているのだろう。それに気づいたら、これ以上意地を張ることなんてできなかった。
「わかったよ。でも、必要なときは必ず連絡してね。どんなときでもすぐ駆けつけるから」
「わかった。必ず呼ぶわ」
マヤが微笑んでうなずいた。それが嘘だとゆかにもわかった。
マヤの本心が聞けてうれしいはずなのに、なぜか心はさびしくてたまらなかった。
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