第22話 人形の家の惨劇2

その日も真夏の陽射しは容赦なく街をゆだらせていた。

「……はあ」

 ゆかは朝食のオムレツをかき混ぜながらため息をこぼしていた。オムレツはいつの間にかスクランブルエッグになり果てていた。

「今日のゆかちゃん、変。どうしたの?」

 顔をあげれば、人懐っこい笑顔が目の前にあった。

「夏子お姉ちゃんは今日も元気ですよね」

 ゆかは近所の喫茶店『秋桜亭』で朝食を取っていた。その喫茶店はゆかの合気道の先生の奥さんが経営していた。合気道の先生も父と同じく警察官ということもあり、母をはやくに亡くして、父もなにかと忙しいゆかをなにかと気にかけてくれている。

 地元警察署での練習の後は、ほとんど秋桜亭で夕食をごちそうしてくれる。料理を無料で食べさせてくれるのはありがたいけれど、そのおかげでゆかはすこしも料理の腕があがらない。

 その合気道の先生・木之本には大学三年生の娘・夏子がいた。ゆかにとって夏子は幼い頃から姉のようになんでも話せる関係だった。

「そんなにため息をつくだなんて、もしかして恋わずらい?」

「な、なに言ってるんですか。そんなんじゃないですよ」

「またまた。むきになって否定するってことは当たりなんだ」

 夏子はくすくすと笑う。夏というより、春のようにうららかな雰囲気の女性だった。エプロン姿もよく似合っている。体育会系のゆかにとって、夏子のような女性は憧れだった。

「もうほんとに違うんですってば」

「なんだ。残念」

 夏子は心底がっかりする。どうも夏子はゆかをからかうのが好きらしい。

「じゃあ、今日はどうしたの? あの噂のマヤちゃんって子とまたけんかしたの?」

「もうけんかはしてないんだけど、関係があるようなないような……」

「あいまいね。はっきり言ってごらんなさいよ」

 夏子に追及されると、つい黙っていられなくなる。

「最近マヤちゃんと知り合いになってから嫌な夢を見ることが多くなって……」

「嫌な夢?」

「お母さんがリビングで殺される夢。あんまりリアルだから気持ち悪くて……」

「でも、ゆかちゃんのお母さんは交通事故で亡くなってるんでしょ? どうしてまたそんな夢を見るようになったのかしらね」

「たぶん最近マヤちゃんと知り合ってから立て続けに事件に巻き込まれてるから、そんな夢を見るようになったのかも……」

 あの水瀬華乃や吉岡貴のような異常な犯罪者に立て続けに出会ったから、あんな悪夢を見るようになったのだろうか。だから、ミスティック・ドールズという謎の存在や異常な事件の現場に居合わせたことが心の傷になっているのかもしれない。

 だけど、マヤはもっと苦しい目に遭っている。ここでゆかが弱音を吐くわけにはいかない。マヤの側にいて助けることができるのはゆかだけなんだから。

「そのマヤちゃんって子は名探偵ばりに頭がいいんでしょ?」

「そうなんですよ。わたしよりも年下なのにイギリスの大学を卒業してて、いつもはすごくクールなんだけど、ときどき照れた顔をしたときは、もうぎゅっと抱きしめたくなるんです」

「いいなあ。わたしもその子と会ってみたい」

 夏子は心底うらやましそうに言う。ゆかは得意げになって、

「わたしも会わせたいですよ。でも、マヤちゃんあまり外に出たがらないから」

「どうして?」

「理由はよくわからないけど、ずっと本ばかり読んでるんですよ。あっ。そうだ。この間、やっと携帯のデジカメで写真を撮ったんです。見てください」

 ゆかが携帯電話のメモリから写真を出した。マヤに笑顔で抱きついているゆかと、どこか恥ずかしそうなマヤの姿が写っている。

「わあ。ほんとかわいい。まるでお人形さんみたい」

「ですよねですよね? でも、この写真撮るのに一時間も説得したんですよ。最近携帯電話の使い方も憶えてくれたんですけど、電話をかけてもメールをしてもあんまり返事してくれなくて……この間なんか〝大した用もないのに電話をするな〟って怒られちゃいました」

「きっとその子は照れてるんだと思うわ」

「そうですか? そんなふうには全然思えなくて」

「写真を見ればわかるもの。この子もゆかちゃんのことが好きって顔してる。ただ、不器用なんだと思うわ。あまり他人と接したことがないからどうすればいいのかわからないのよ」

 夏子にそう言われるものの、あまりゆかには実感がわかない。

 この間の『切り裂きピエロ事件』で、ようやく携帯電話を使ってもらえるようになったけれど、あいかわらずマヤの態度は冷たいままだ。しかも、携帯電話を持ち歩いていないことが多く、自宅にいるくせに電話がつながらないこともしょっちゅうある。

「マヤちゃんはきっとメールや電話だけじゃなくて、あなたにちゃんと会いにきてほしいんだと思うな。メールや電話だけだなんて寂しいもの」

「確かに〝コミュニケーションの道具として頼るものじゃない〟とか言ってましたけど」

「ほらね。なんでもかんでもメールや携帯電話に頼らないで、ちゃんと相手と会うことも必要なのよ。メールや携帯電話をするよりも一回顔を見れば充分なこともあるでしょ?」

「そういうものかなあ」

「まあ、ゆかちゃんも恋愛をすればわかるようになるわ」

 そう言って、夏子はくすくすと笑う。

 まだ子供のゆかには夏子の言葉はよくわからない。普段からメールや電話をしていれば、もっと相手のことがよくわかるようになると思うんだけれど。

「それよりも今日もそのマヤちゃんに会いに行くんでしょ?」

「はい。今日こそ絵文字を憶えてもらうんです」

 ゆかが決意をかためていると、夏子はすこし気恥ずかしそうに、

「ねえ、ゆかちゃん。ところで、今日もあの人が迎えに来るの?」

「あの人?」

「ほら、あの遠鳴さんの部下の霧生慎一郎さん」

「えっ? 霧生さん?」

 なんで急に霧生の話題が出たのかゆかにはよくわからない。

「あのね、ゆかちゃん。今度よかったら……」

 夏子がなにかを言おうとしたそのとき、喫茶店の扉が開いた。

「お待たせ、ゆかくん」

 喫茶店に入ってきたのは、霧生だった。

「霧生さん、もう来たんですか」

「また急いでいかないと、夏休みのラッシュに遭うから急いで行こう」

「ちょっ、ちょっと待ってください! まだ食べ終わってないんです」

 夏子との話に夢中になっていたために、食事をきちんと食べ終えていなかった。あわてて皿を抱えてスクランブルエッグをかきこみ、サラダとパンを口の中にほおばる。

「ゆかちゃん。そんなにあわてて食べたらお腹壊すわよ」

「そうだよ。そんなにあわてなくていいよ」

「だいじょうぶです。いま食べ終わりますから」

 リスみたいに頬をふくらませるゆかを見て、霧生と夏子は楽しそうに笑っていた。

「よかったら、霧生さんも朝食いかがですか。簡単なものならすぐつくれますけど」

「いや、あまり時間もないんで。珈琲だけください」

 霧生が屈託なく夏子に呼びかけると、夏子はすこし残念そうな顔をした。

 その表情の意味がわからずにゆかは首をかしげた。夏子は霧生が来ると、急に口数がへる。いつもはゆかをからかって遊ぶのに、霧生の前ではなんでこんなにおとなしいんだろう。

「ゆかくん。そろそろ行かないとマヤくん怒るよ?」

「あうっ」

 口の中に詰め込んだ朝食を牛乳で一気に流し込むと、

「さあ、行きましょう!」

 ゆかが立ち上がると、霧生も珈琲を飲み干して立ち上がった。

 ゆかが霧生の車に乗り込もうとすると、

「ま、待ってください!」

 秋桜亭から夏子が駆け下りてきた。手には大きな紙袋がさげてある。

「これお弁当です。よかったらお昼にでも食べてください」

「いや。でも、それはゆかちゃんの分じゃ……」

「いえ、作りすぎちゃったんです。みんなで食べてください。ゆかちゃんの分も霧生さんの分も……もちろん、マヤちゃんの分もありますから」

 夏子ははにかんだ笑顔を浮かべると、紙袋をゆかに手渡した。

「ありがとうございます。じゃあ、いま代金を……」

「いえ、余り物でつくったものですから気にしないでください」

「そういうわけには……」

「じゃあ、今度またお店に来ていただけますか」

 夏子がおずおずと霧生に言う。霧生は笑顔で、

「わかりました。今度まとめてお支払いしますね」

 と言うと、夏子の顔がぱっと輝いた。

「はい。ぜひいらしてください」

 その表情を見て、さすがのゆかもようやく気づいた。

(ああ。そっか。夏子お姉ちゃん、霧生さんのことが好きなんだ)

 霧生と夏子はゆかを通じて知り合った仲だ。霧生がこの秋桜に訪れるのは、ゆかを送り迎えするときにが多く、個人的にはあまり訪れていないようだ。それでも夏子は霧生に対して想いを寄せているんだろう。

「さあ、行こうか」

 そう言って、霧生は車を発進させた。ゆかがサイドミラーから後ろを見れば、夏子は霧生の車が見えなくなるまで、真夏の陽射しの中を立っていた。

 夏子のその表情を見たとき、たまらなく胸がきゅっとした。

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