第九段

むかし、男がいた。

その男、我が身などもはやどうでもいいものだと思いなして、都を離れ、東国の方に住もうということで、出かけた。友とするひと、ひとり、ふたりを随行として。道を知るひともいないので、前後不覚の感ある道中であった。

三河の国、八橋というところに至った。そこを八橋と呼ぶのは、川の水が蜘蛛手に分岐しており、橋が八つかけてあったからである。下馬ののち、沢のほとりの木陰に腰を下ろし、乾飯といって、米を乾燥させた携帯食料を食っていた。あやめの花がうつくしく咲いている。それを見てある者が「このあやめということばを織り込んで、われらの旅の心を歌うのはどうでしょう」など言うので、歌う。


あずま

やにひ

められ

たあの

さやけ

きめく

ばせあ

まきや

まいめ

あかし

もやす

らふめ

いろあ

なやう

めきて

(四阿に秘められたあの清けき目配せ、甘き病。目明しもやすらふ迷路。「あなや」呻きて)


自然、これまでのことが思い出され、一行は涙した。涙が乾飯の上にかかり、ふやけてしまった。マジかよ

道中、駿河の国に至った。宇津の山にて、一行が入っていこうとする道はとても暗く、細く、蔦や楓は茂って心細い。これほどの目にあうものかと悲嘆したそのとき、ひとりの修験者に出くわした。

「このような道をどうして行かれるのか」と言いやるのを見れば、都の知り合いであった。あの人のもとへと、たよりを託す。


うつうつとした道行き

駿河の国の

宇津の山

揺れ動く木々が

映り込む

ああ

うつくしきあなたには

もう夢にも

うつつにも

会えないのです


富士の山を見ると、五月のつごもりだというのに、とても白く積雪している。


富士の山には

季節外れに

雪が降り積もる

鹿の毛並みのように

いったい、いつ降ったのか

鹿の毛並みのように

追えば消え去る

鹿の毛並みのように


その山は都で言うなら、比叡山を二十ほど積み重ねて、塩尻のような姿にしたようなものであった。

さらに道を行き、武蔵の国と下総の国の中間に、たいへん大きな川があった。これを隅田川と言う。例によって川のほとりに皆で腰を落ち着け、来し方を思いやれば、もう限りなく遠いところに来てしまったと、悲しみに浸っているところに、渡し守が水を差す。「はやく舟に乗ってくれないと、日が暮れちゃいます」と言うから、出発するのだが、皆々つらさがまさる。それぞれ都に想い人を残してきた。

そんなとき、白くて、くちばしの赤い、鴫くらいの大きさの鳥が、水の上をのどかに浮かび、魚を取って食っている。都には見ない鳥なので、一行は名を知らなかった。渡し守に聞けば「都鳥っすよ」と言うので、歌う。


都鳥よ!

教えてくれ

都という名を持つならば

都鳥よ!

我知らずと水面に浮かんではくれるな

さあ皆も、問うてくれ

都鳥よ!

わたしのあの人は

ありやなしや


乗船の一同は感涙した。

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