自傷の話

自傷と聞いて皆さんはどんな事を思い浮かべるだろうか。リストカットやODといった行為を想像する人もいれば、「自傷なんて死ぬ勇気が無い人間のすることだ」「かまってちゃんが人の気を引く為にすることでしょ?」と思う人もいるかもしれない。自傷する気持ちはする人にしかわからないし、そう思われるのもしょうがないのかなあと半ば理解してもらうことを諦めているところもあるのだが、理解はしてもらえずとも知識として知っておいてもらうだけでも世のメンヘラは生きやすくなるのでは、と一縷の望みを込めて書いてみようと思う。


まずは私がこれまで行った自傷行為について。

初めて自分の意思で自傷を行ったのは高校3年生の時だった。当時は進路で悩んでいて、周りの期待と自分の興味のどちらをとるべきか毎日頭を抱えながら受験勉強をしていた。進路相談で親と担任、塾の先生に大学を薦められていて、自分のやりたいことの主張が出来なかった。周りのみんなの期待を裏切りたくないという気持ちと、自己主張も出来ない自分の情けなさでいっぱいになって、家に帰って部屋で泣きながら自分の頭を殴り、壁に何度も打ち付けた。当時は確かにつらかったのだが、今となってはこの時失われた脳細胞が生きていれば大学に行けたのでは?とすら思っている。この出来事以降しばらくはこの頭を殴ったり打ち付けたり、自分の手を噛んだりする方法が多かった。


リストカットをするようになったのは会社に入ってからだった。

仕事でのストレスから逃れる為にタバコを吸うようになり、酒の量も増えた。酒に酔ってそのまま寝てしまえば余計なことを考えなくて済むという理由からだったが、次第にそれだけではなくなり酔った状態での自傷行為もするようになった。最初は同じく頭を打ち付けていたりしたのだが、酔って痛みに鈍くなっていたせいもあるのか物足りなかった。私は仕事用の工具バックの中から業務用のカッターを取りだして、初めて自分を切った。この時確かに酔っていたし衝動的な行為であるはずなのだが、私は半袖を着ても他人に見られないように二の腕を切っていた。頭の中は苦しさでぐちゃぐちゃのはずなのに、人間とは不思議なものだ。

リストカットといえば血も出るし痛々しい痕も残るのだが、切っている間はまったく痛みを感じなかった。それどころか、傷口から流れる血と同時に心の中に溜まっていた黒い感情も流れていくようで、すーっと頭がすっきりするというか、高ぶっていた気持ちが落ち着いていくのを感じられた。タバコを一口吸って、ふーっと煙を吐いたときの感覚にも近いかもしれない。もちろん後日は痛む。風呂に入って身体を洗うときタオルで擦るのが痛かった。かさぶたが剥がれかけてシャツに引っかかった時も少し痛かった。それでも、何度やってもすっきりしない頭を殴る方法よりも、一度か二度切れば不思議と落ち着くリストカットの方にだんだんシフトしていき、今では自傷と言えば切ることになった。


その他、一度OD(オーバードーズ、薬の過剰摂取)も試したことがある。

睡眠薬を大量に飲んで死んだ人間はいるが、風邪薬を大量に飲んで死んだなんて話は聞いたことが無い、と私は市販の風邪薬を40錠飲んだ。これはツイッターで知った方法だったが、その人が言っていた通りなんとなく意識がふわふわとして気持ち良くなって上手く思考がまとまらなくなった。ただこのODというのは、下手すれば嘔吐が止まらずそのまま意識を失い病院搬送、死ぬほど苦しい胃洗浄をされた挙句医者にこっぴどく叱られるというリスクがあった。私は自傷行為で他人に迷惑をかけたくなかったし、このODによって得られる気持ちよさは感情を冷静にするものではなく、思考停止というか、気持ちを別のもので誤魔化しているような気がしてあまり好きにはなれず、この1回でやめた。


他にも、あまり自傷行為として認知されていないが、子どもの頃の爪噛みや唇の皮を剥く等も自傷行為らしい。経験のある人も少なくないのではないだろうか。自傷とは意外にも身近なものなのかもしれない。


さて、冒頭でも触れたが、「自傷なんて死ぬ勇気の無い人間がすることだ」「かまってちゃんが人の気を引く為にやってることでしょ?」という部分に触れていこうと思う。

自傷をする理由はひとそれぞれだと思うが、私の場合は死にたいからではない。もちろん死ぬ気で腕の肉を抉って動脈まで切ろうとする人もいるのだろうし、死ぬ気で薬を何十、何百錠と飲む人もいるのだろう。はたまた本当にみんなに心配してほしくて自傷をしている人もいるかもしれない。しかし私にとっての自傷行為とは、ただのストレス発散なのだ。どうしようもなくイライラした時にカラオケで大声出してすっきりする人もいれば、身体を動かしてストレス発散する人がいるように、私は自分を切ることでストレスと向き合っているのだ。とは言っても、じゃあ皆さんの趣味と同じような感覚で切るのか、と言われればそれは違う。これは完全に自己解釈だが、私はストレスに対して敏感、それでいて耐性が無いのだと思っている。人それぞれストレスを溜めておけるバケツの大きさは違って、私の場合それが極端に小さい。それにストレスを感じる対象が多いのですぐにバケツはいっぱいになってしまう。しかし、「バケツがもういっぱいだよ」と気付く能力が低いので、ぎりぎりになるまで気付かない。気付いた時には溢れる寸前、もしくは手遅れな事が多く、錯乱して泣き出してしまうのだ。ストレス耐性に関してはトレーニングすればバケツは大きくなるのかもしれないが、これはもう個性の問題だと思っている。「そんなこと気にしなくていいんだよ」とか言われたって気になるものは気になる。こういった、ストレス耐性やストレスの感知能力に関して人より劣っているのでみんなが耐えられるストレスに私は耐えられない、みんなと一緒じゃない=社会不適合者だ、と落ち込むことも少なくない。皆さんが週1でカラオケに行くように、もっとこまめで自分に合った上手いストレス発散が出来れば私ももう少し生きやすくなるのかもしれない。


では、どんな時にリストカットするの?という話だが、これはバケツが溢れた時だ。このバケツが溢れた時というのは、私の場合大抵自己嫌悪でいっぱいになった時だ。私は多くの場合、誰か人や物事に対してストレスを感じても、「でも、こんなことが気になる私の方がズレてるのだから私が我慢すればいいこと。こんな小さな事にむっとするなんて本当に器が小さいな。」と処理してしまう。これは家庭環境の問題で自己肯定感が育たなかった故の考え方だとカウンセラーに教えてもらった。この自己肯定感の無さから、全ては私の性格が悪いせいだという結論に至り、自己嫌悪感が溜まっていく。そして溢れ出したときに、自分に与える罰として、自分を冷静に落ち着かせる為の1つの手段として自分を切るのだ。先程「皆さんのストレス発散と同じ」と言ったが、衝動性という点で言えば、イライラしてつい机を蹴ってしまったとか舌打ちしてしまった、の方が近いかもしれない。この衝動性はどうも自分ではコントロールが効かず、我を忘れて、という言い方をしてもあながち間違いではない。この事を医師に相談した結果、私はパニック障害という診断を貰った。

リストカットはバケツが溢れて感情が高ぶった時に衝動的、感情的に行っている事なので大体切っている最中のことは靄がかかったような記憶でしか残っていない。切っている最中は「お前みたいな社会不適合者は死んじまえ!」という衝動的な殺意もある。しかし、これは自分に向けた殺意であり、希死念慮では無いことを誤解してほしくない。なんだよあいつうっぜー消えちまえばいいのに!という対象が私なだけであって、この世からいなくなりたいとは思っていないのだ。我ながらこういうところは図太いなあと思う。


私はこのような気持ちでリストカットを繰り返している。しかしこれは私の考え方に大きく依存する問題なので、障害のせいにしても薬では完璧に治らない。自分自身が変わらなければ、薬を辞めても同じ事を繰り返すだけだ。

と、頭ではわかっていても私はこれに苦しんでいる。私と一緒に育ってきたはずの性格が、個性が、社会からズレていると言われているようで、否定されているように感じるのだ。みんなと同じように20年生きてきたはずなのになんで私は一緒じゃないんだろう?なんで普通じゃないんだろう?その疑問にいつも悩まされながらそれでも治さねばと、時に転びながら少しずつ矯正を進めている。


普通でいることが一番難しいのだが、一番幸せなような気がする。無い物ねだりなのかもしれないが、世間とのズレを感じて苦しみながら生きるよりも、「みんな仲良く一緒だよ」としている輪の中に私も入りたい。

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