マン・テリブリ氏のアレなる日常

@con

第1話

 この正月でマン・テリブリ氏は数えの四十歳になった。会社の若い連中にいわせれば、「いまはもう数えなんて使わないんですよ。テリブリさんは今年の誕生日で満三十九歳ですね」とのことである。こういうことからしてテリブリにはおもしろくない。いつから我が国では個人の誕生日に執着するようになったのだと説教しようとするのだが、当世の若い連中はテリブリがそうであったように年嵩の人間に食ってかかるなんてことはなく、「そうですねぇ。いや、勉強になります」などといって軽く受け流す。テリブリは振り上げた拳の下ろしどころを見失った形で、立つ瀬なく独り馴染みのバーで吐くまで飲むことになる。日付が変わって帰宅し、熟睡している幼い我が子の寝顔を見ると果てしない自己嫌悪に陥る。

 その日、テリブリは朝食をのろのろと食べ、朝刊をぐずぐずと読みながら、いつものように「いまから用を足し、ひげを剃り、着替え、社宅を出ると八時三十八分の電車に乗ることになり、これは会社の最寄りの駅に九時十分に着くわけだからもはや九時の始業には間に合わんな」などと考えていた。テリブリはほぼ毎日きちんと目覚まし時計が鳴るよりも早くしゃんと起きるのだが、常習的に十五分ぐらい遅刻していた。彼は課長であったからそのことをだれかにとがめられるということは滅多にないのだが、しかし月締めの勤怠簿を見るとわずかとはいえ減俸されていることに気づく。妻にはしごくもっともな小言をいわれる。それでもテリブリは自分でもよくわからないのだがわずかな遅刻を繰り返してしまうのであった。

 テリブリは用を足し、ひげを剃り、背広に着替えた。途中で袖のほころびに気づいたが放っておいた。妻はアイロンをかけたシャツを用意しながら「どうしてもっと早くできないのですか」とお決まりのセリフでなじってきた。だが、テリブリ自身にさえ理由がわからないのだから他人になど説明のしようもなく、彼はちょっと不機嫌そうな横顔を見せるだけで黙っていた。廊下の掛け時計(これは二分遅れている)を見るとやはりいまから出ると八時三十八分の電車に乗ることになると思った――。

 突然、テリブリはひどいめまいを感じた。平衡感覚がまるで頼りにならず、テリブリは自分がまだなんとか立っているのか転倒してしまったのか、体重をかけているのが壁なのか廊下なのか判然としなかった。一瞬、脳の重篤な疾患を覚悟して、妻と子に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。しかし、しばらくするとめまいは自然にやんだ。テリブリは玄関の下駄箱にしがみついていた。ともあれ、さしあたってはなんの自覚症状もない。見送りに立っていた妻が心配そうな顔をしていたので、「問題ない。ただの立ちくらみだよ。おれも歳を取ったのかな。ハハハ」とごまかしておいた。

 いつものように妻から鞄を受け取り、いつものように子のチョウスケに「おとーさん、バイバイ(まだ、いってらっしゃいという言葉をおぼえていないのだ)」と見送られ、いつものように玄関を出ると、そこにはいつものようではない光景が広がっていた。玄関を出た正面には分譲住宅があるはずで、そこは八つの区画があったがまだ二軒しか家が建っておらず、真っ直ぐ見晴らして県道の大きな交差点が見えるものであった。

 しかしいまはそんな景色はどこにもない。舗装されていない道と畑か何かの土地が広がっており、ところどころに粗末な木造の小屋が建っているのが見えた。その遠く視界の行き止まりには城壁に囲まれた城がそびえていた。

 テリブリはやはり自分は脳の疾患を発症してしまっており、これは幻覚のたぐいに違いないと考えた。そこで、家に戻って妻を呼んだ。妻が「忘れ物ですか」と尋ねてきたが、「どうも、調子が良くないらしい。ちょっと外の様子を見てくれんか」と伝えた。妻は「はあ」と気のない返事であったが、テリブリと入れ替わるように外に出た。テリブリが玄関の上がり口に腰掛けて一息つく間もなく、妻が「あっ、あっ、あなたっ、こっ、これはどういう……」と周章狼狽して戻ってきた。してみるとおれが狂ったわけではなく、世の中の方が狂いやがったんだな、とテリブリは少しだけ安心した。

 慌てふためく妻に対して、テリブリは憮然とした表情で「おれにもわからん」とつぶやくようにいった。どういう原理かは知らないが、土地ごとどこか遠くへ飛ばされたようだった。どこか遠い異国か、遠い過去か未来か、はたまた、はるかかなたのどこか別の世界か……。テリブリは上がり口に腰掛けたまま一服した。吸い終わるころに何か名案がひらめくとか、世の中が正気に戻ってくれることなどを期待した。一本ゆっくり灰にしてから、どっこいせ、と外に出たがやはり知らない場所にいた。テリブリは首をかしげながらため息をつきながら家の中に戻った。

「あなた、これからいったい私たちどうなるのかしら」

「わからん」

「わからんわからんて、そんな無責任なことじゃ困ります。チョウスケだってまだ小さいんだし、お仕事だってどうなるのか……」

「それはおれだってわかってるさ。けどなぁ……」

 テリブリは腕時計を見た。時刻は九時を過ぎていた。完全に遅刻だが、そもそも二度と会社に行けなくなったのかもしれなかった。今日は午後から取引先にプラグのサンプルを持って行く予定になっていたが、あれはスズキが代わりに行ってくれるだろうか……。

「とりあえずだな、そうだ、会社に電話せにゃならんな。今日は休むって」

「そうよ、そうだわ。電話しましょう、電話」

 具体的な行動が決まって束の間二人は安堵した。テリブリの家には電話が引いてあった。一応は管理職という身分のため、会社が引いてくれたのだ。初めて家に電話が来た日は「おれもとうとうここまで来たのだ」と誇らしかったのだが、実際、これは甚だ面倒なものであった。六軒の社宅にはテリブリの家にしか電話が引いておらず、しばしばテリブリは社宅の人間への取次ぎをやるはめになった。妻には「あなたは人が好すぎるのよ」と愚痴をいわれるのだが、電話設置代も電話代も会社持ちとあってはいかんともしがたいところがある。

 テリブリは受話器を取ってダイヤルを回そうとした。しかし実のところは予想していたとおり、受話器から発信音は聞こえなかった。当然といえば当然の話で、この状況で電話も電気も通っているとは思えなかった。ガスはプロパンだからしばらくはもつかもしれないが、それも在庫を使い切ればおしまいである。

「ダメだ、つながらん」

 試しに部屋の照明をつけてみようと、妻と二人で家中のスイッチをいらだたしげにパチパチ切り替えてみたのだなんの反応もなかった。この時間になっても家に残り、しかも母親と二人でうろたえている父親をチョウスケは不思議そうな顔で見ていた。

 時刻は十時になろうとしていた。

「ああ、どうしましょう……。いつもならもうすぐチョウスケを幼稚園に連れて行く時間なのに……」

「おれだって会社は休んだんだ。今日ぐらい休めばいいだろう。とりあえずお茶でも飲んで今後のことをゆっくり考えよう」

 テリブリは妻にそう命じた。先月のマエダさんの葬式でもらったお茶、あれは幾分上等なやつだったはずだがそれを使いなさい、といった。しかしすぐにこの社宅には上水道が整備されていたことを思い出して歯噛みした。無論、水は出なかった。

「しかたねぇ……おい、『あいつ』を持って来い!」

 テリブリは威勢がいいともやけくそともいえる口調で言い放った。長年の夫婦生活で、妻には夫が何を欲しているのか即座に理解できていた。妻は床の間から瓶入りの洋酒を持ってきた。彼が課長に昇進したときに、上司からお祝いの品としてもらったものだった。テリブリはこれを大事に大事に使っていた。元日と、自分と妻の誕生日のときにだけ、グラスに三ミリぐらい注いで、飲んでいた。

「しかたねぇよ……なんだおい……君の分のグラスがないじゃないか。いいよ、飲みなさい、飲みなさい……。バカバカしくってさぁ……」

 洋酒はまだたっぷりと残っていた。テリブリは二つのグラスを並べると、琥珀色の液体を惜しげもなくなみなみと注いだ。妻が「つまみはどうしますか」と聞いたが「おれはいらん」といった。

 一気にグラスの中身をあおった。頬の内側、舌、喉、胃の粘膜を順番に熱い液体が吶喊していった。それはすぐさま高熱の蒸気に変わって脳内に充満した。テリブリはちゃぶ台に両手を置いて腕を突っ立て、胸を反らして口から鼻から勢い良く熱気を排出した。天井が見えた。それからすぐに気を失って後ろにぶっ倒れた。


 目が覚めたのは十二時前だった。

 こめかみのあたりがズキズキと痛んだが、大きなあくびとともに伸びをしたらだいぶましになった。台所で水をがぶ飲みしようとしたところで、現実を思い知って舌打ちした。やはりこれは夢ではないのだなと暗澹たる気持ちになった。妻のグラスも空になっていたが、彼女のことだからほとんど飲まずに瓶に戻したのかもしれないと思った。

「あなた、大丈夫ですか」

「ああ……うむ。何、あんな強くて上等な酒は久しぶりだったからねぇ、体がびっくりしちまったんだろう。おれは二日酔いで仕事を休まないことだけが取り得なんだ、フフッ。ぜいたくいえば、何か飲み物があればいいんだがな」

 テリブリは厨房を探したがアルコールの入っていない液体は調味料のたぐいしか見当たらない。戦中派で飲み物食べ物に文句の少ないテリブリとはいえ、さすがに酢だの醤油だのを飲む気にはなれない。所在なげに厨房を物色しているとチョウスケが脚にまとわりついてきた。この時間帯にテリブリが家にいることが単純にうれしいようであった。チョウスケはテリブリの顔を見上げていた。我が子と目が合ったテリブリは、そうだ、おれはこれからの人生こいつにだけは決して不自由させないと誓ったではないか、とチョウスケが生まれてきた日のことを思い出し、不意にいとおしさに堪らず涙が出そうになった。

 まだわずかに酔いの残っていたテリブリが感傷で衝動的に息子を抱きしめていると、ガシャガシャと立て付けの悪くなった玄関の引き戸を叩く音が聞こえた。長年、おなじ家に住んでいると、戸の叩き方一つ、叩く強さだとかテンポだとかで、おおよそだれが来たのかを当てられるようになっていた。その経験に鑑みれば、いまの叩き方は少なくとも社宅の住民でも近所の住民でもないことがすぐにわかった。何か、遠慮している叩き方に聞こえた。

 テリブリと妻は無言で顔を見合わせた。妻は不安そうな顔をしていた。しかし、もし物取りのたぐいなのだとすれば、玄関の鍵は開いているのだからとっくに侵入されているはずである。してみると音の主はそれなりには礼儀をわきまえたやつなのかもしれない……。

「なーに、そんなに心配するな。ちょっと見てくるよ」

 大見得を切ってはみたものの、テリブリも怖かった。彼は武道の心得もなければ無軌道でもない、心身ともに平均的な成人男性であった。さほど体躯は頑健でもなく、兵隊にとられたのも遅い方だった。おそるおそる、玄関をそーっと開けると、戸の外で慌しく乱れる足音が聞こえた。

 玄関先には二人の男が立っていた。更に離れたところには十人は下らない人々が遠巻きにこちらを眺めていた。テリブリの姿を確認したらしき男二人からは、あからさまに緊張が解けてホッとした様子がうかがえた。

「これはどうも。して、どちらさまで?」

 テリブリとしても、ここにも自分たちとおなじ人間とおぼしき対象が存在していることに安心したところであった。最悪、どうにでもなる、という具体性も根拠もない自信に力がわいてきた。

 しかしながらそれはそれとして、むべなるかなテリブリの言葉は先方には届いていないようであった。また逆に男二人も未知の言語で何事かを相談し合って、何事かをテリブリに話しかけてくるのだがさっぱり理解できなかった。

 二人組みの男は、この世界のこの国の警邏と学者であった。この付近に土地を持つ農家から、「昨日まではなかった変な外見の建物がある」との通報を受けて、王都からやって来たのだった。

 二人はこういうことを話していた。

「すると先生、この人はずっと昔にうちにいたっていうそのニキー・トンペイさんとおなじところから来たってわけですか」

「私はそうだと思うよ。残っていた資料の中にあるトンペイさんが住んでいたって家と似た特徴をしている。ほら、屋根が特徴的だ」

「へえ、さすが。それじゃあ、先生の読みどおりならトンペイさんが作っていった辞書で意思疎通ができるんですね」

「とはいえ私は語学はぜんぜん専門じゃないからなぁ。ま、やれるだけはやってみるか」

 さっきからテリブリには彼らが話している言葉はひとっつもわからなかったのだが、なにがしかの文法に則った自然言語ではあるのだろうと期待した。なんとか彼らと会話をしなければ、とりわけ、敵意のないこと、当面の衣食住を確保しなければならないのだが……。

 テリブリが無言で思案にふけっていると、二人組みの男のうちの年上に見える方が何やらおびただしい枚数を綴ってある紙の束をペラペラとめくってきた。そちらの男が学者で、テリブリには自分よりも一回りぐらい年上に見えていた。紙面には手書きらしき筆跡でテリブリがもっとも慣れ親しんでいる文字と言葉が箇条書きしてあり、その横に未知の文字で何かが記してあった。だれがどうやってこしらえたのかは知らないが、テリブリが使ってきた言葉と、この国の言葉とを訳する辞書らしいことに彼は気づいた。

「あなた、来る、どこ」

 テリブリはどうにかこうにか、学者の男が発した言葉をそのように聞き取った。なんということか、彼らは自分とコミュニケーションを取ろうと悪戦苦闘してくれているのだ! 見ず知らずの場所で見ず知らずの相手から与えられた厚意が身に沁みた。テリブリはまたしても感極まり、思わず涙が出てしまった。

「先生、この人、泣いちゃったじゃないですか。どんなひどいことをいったんですか」

「おかしいな。私はただこの人がどこからやって来たのか尋ねてみたつもりだったんだが……。何か間違ってしまったのかもしれん」

 学者の男は首をかしげながら再び辞書をペラペラとめくった。なんとなく状況を察して、テリブリは慌てて言葉をつないだ。

「いや、失礼。私はテリブリ・マンと申します。一家三人で暮らしておりまして、いまも家の中には家内とせがれがおります。どうやらここは私が住んでいた国か世界とは違う場所なのかもしれません。いまは西暦○○年ですか? ここは地球ですか? 違うのなら違う世界なのでしょう。どうしてこうなったのかは私にも全くわかりません。しかし決して私どもは怪しいものではなく……」

 そういうことを早口で一気にまくし立てた。学者と警邏の男二人組みは苦笑しながら「まあ落ち着きなさい」といった風情で手をかざした。

 テリブリとこのあたりに生活している人間との長閑なやりとりに気づいたのか、すでにして彼の妻も玄関先に出てきた。そうして四人で力を合わせて、非常に時間はかかったが最終的にはお互いの立場を伝え合えたような感じにはなった。果たしてここは地球上ではなくどこかの世界であり(そういえばおれたちの世界の名前はなんというのだろうか?)、ここはトガナという国であり、男二人は警邏と学者であり、テリブリと妻は全く無害な一市民であり、平凡(テリブリは「しがない」という単語を探したが辞書にはなかったのだ)な労働者である、などなど。

 あまりにも時間がかかったため、途中からテリブリは男二人を家の中へ上がらせて対話をしていた。男二人の格好はテリブリがいた文化とは異なるものではあったが、さほどかけ離れたものではなく、チョウスケも物怖じせずにペコリとあいさつをやってのけた。ひねくれた心根のおれに似合わず屈託のない子なんだとテリブリは心の中で鼻高々であった。

「おかあさん、お茶を出してあげて……ああ、そうか。まあ、もう日も暮れてきているようだしいいだろう」

 テリブリは安い日本酒を自分で用意した。辞書の「酒」という単語を指差すと警邏と学者の男たちは「ほう」という顔をした。どうやらまんざらでもないらしい。

 そうして三人で酒盛りが始まった。肴は煮干しだった。途中からお互い何をしゃべっているのかさっぱりわからないのだがヘラヘラと笑い合った。テリブリが知っている数少ない歌謡曲を披露すると、警邏の若い男もこの国でいまはやっている歌を返した。それで最後は三人で肩を組みながら外に出て、大声で変な歌詞と節で歌った。


「あの警邏の男はずいぶんと馴れ馴れしかったんじゃないか」

 警邏と学者が帰り、机の上を片付けているうちに酔いが覚めてきたテリブリは愚痴とも名残惜しさともとれるような感じでつぶやいた。妻は夫のそういう酔い方にはもう慣れっこだったので「あなたも楽しそうだったじゃないですか」と合わせておいた。この夫はそれでだいたい納得するのだ。

 妻は水の入った瓶、桶、甕といった液体の入る多種多様な容器を台所に並べていた。先ほどの会話の中で妻はいつのまにか水場のたぐいを警邏に尋ねていたそうである。これだから酒飲みは頼りにならないのだとテリブリは自分のことを堂々と棚にあげて妻を褒めた。

「普段はもっぱら畑に使ってるお水だそうですけど、沸かせば飲んでも大丈夫みたいですよ」

 昼から真水を欲していたテリブリは適当な一輪挿しを取って一気に中の生水を飲み干した。

「あら、いまお鍋で沸かしているところでしたのに」

「ハハハ。こういうのは早めに慣れた方があとあと楽なものなのだよ。二三度も腹を壊せば済む話でね。戦争が終わったころなんかもっと汚い水だって平気で飲んだものさ」

などとうそぶいた。実際このあとテリブリは少し腹を下したが、酒を飲んだ次の日はだいたいゆるくなっていたので水のせいかどうかは不明である。

 夕食には朝炊いていたご飯で作った握り飯と味噌汁、それから干物が出てきた。味噌汁には豆腐が入っていなかったのだが、それをいったところでどうにもならない。ということは今朝食べたのが今生最後の豆腐だったのではないか、それどころか米や味噌だっていまあるやつを使い切ったらおしまいであるし、おれはこういう食事をあと何回食べられるのだろうかと思うと胸が詰まり思わず箸が止まった。

「あら、どうしましたか。水が違いますけど、私はそんなに変なことないと思いますけど……」

「いや、そうじゃない、そうじゃないんだ。うまいよ、君が作ってくれるご飯はいつもうまい。少し、気分がな、ほら」

 気恥ずかしさのようなものもあり、テリブリは適当にごまかした。味噌汁から立つ湯気に様々な情景が重なりそうだった。そのむかし、国の斡旋で外国へ移住したやつらがいたが、そいつらもこんな気分だったのだろうかと考えた。おれたちはもっと遠いところに来てしまったのだなぁ、と途方にくれた。

 夕食後は寝るまでのあいだラジオを聴くのが常なのだが当然動かなかった。押しつぶされそうに静かな夜だった。囲碁か将棋でも並べるかと思ったが、ろうそくの乏しい灯りの中でやることを想像すると億劫であった。チョウスケはこの異変に泣き喚くこともなく早々と寝たようだった。妻は「気が紛れますから」といって裁縫道具を取り出して何かをちくちくと修繕し始めたが、「どうなるんでしょうねぇ、あたしたち……」とぽつり弱音を吐いた。家長としての責任を感じるテリブリとしては安易な希望を口にすることもできず、「死にはせん」と投げやりとも取られかねない言葉をかけるのが精一杯だった。

 テリブリは手持ち無沙汰に今日の朝刊を広げたが、そこに書かれている政治経済その他の話題がもはや自分にとってなんの関係もないことを理解してうんざりした。腹いせに破りたくもなったが、貴重なふるさとの痕跡になることに気づいてなんとか理性がはたらいた。新聞に掲載されていたテレビの広告を見かけて、マイホームなぞにこだわらずに買うべきだったかと後悔した。更にいまやそうしてつましく貯めた資金が全く無意味であることに後悔して、もっといえば家を買って引っ越していればこんなことに巻き込まれることもなかったのではないかと果てしなく後悔した。妻と子にもっとぜいたくさせてやればよかったとどこまでも後悔した。

 ろうそくが一本燃え尽きたところでテリブリも妻も床に就くことにした。窓の外に目をやると、警邏と学者に教えてもらった集落の方向に灯りが見えた。明日はあそこに行って今後の生活のためにがんばらにゃならんなと夫婦で語り合った。

「……おうち、買えなくなっちゃったね」

 いつもはチョウスケをはさんで川の字で寝るのだが、今夜の妻はテリブリのすぐ横に陣取ると、テリブリの手を不安げに握り締めてきた。

「人生、そういうこともあるもんだ。おれの実家なんて二回も燃やされたんだぞ。それにこっちの世界はマイホームがうんと安いかもしらん」

「そうですね、そう……。みんなどうしてるのかしら、いまごろ……」

 テリブリは妻の手を握り返した。

「夜逃げしたなんて思われたら心外だな……。まあ、家ごとなくなってるんだから尋常ではないと判断してくれるだろう。しかし惜しいことをした、貯金はパァだし退職金もらいそびれちまった」

「あ、ほら、明日はお義母さんの病院の日だったわ……」

「うん。タクシーで……でも来月からは……芝浜の叔父さんに来てもらうしか……」

「そうなりますかねぇ……」

 二人で元の場所に残してきた大小さまざまな懸念を考えては口にした。不安を共有すると少しだけ重圧が軽減するように感じられた。そのうち二人とも精神的に疲弊して深い眠りに落ちた。


 翌朝、テリブリはいつものように七時少し前に目が覚めた。やはりいつものように妻はもう起きていて朝食の用意をしていた。いつもならラジオをつけているところだがもうその光景を見聞きすることはなさそうだった。

「どうですか。お鍋で炊いたんですけど」

 奮発して購入した電気炊飯器は無用の長物となった。まだ二年も使ってなかったのだがなぁ、とテリブリは購入したときのことを思い出していた。商店街の電気屋としぶとく交渉して負けさせて、どうにかこうにか月賦で手に入れたのだ。妻のよろこぶ姿がうれしかった。こんなことなら月賦の回数をもっと増やしておけば踏み倒せていたのかなと考え、更にしかしそうして金をケチったところでそれも無意味だったのかと考え、それならあの電気屋に気持ちよく金を払ってやったからまだ有意義だったではないかと自分を慰めた。

「よく炊けてるよ」

「少し、硬くないですか。ひさしぶりだったから加減がどうしても」

「まあ、そういわれればそうかもしらんけど、おれはこれぐらい硬い飯も好きだな。なんだか若いころを思い出したよ。フフフ」

 おかずは焼き海苔が二枚だけだった。それと味噌汁。これらだっていつまで食べられるかわからない。しかしもっと切迫した問題として、食べ慣れたものへの郷愁よりも、この世界で食料を安定してまかなう手段を確立しなければならない。そのためには何か定職を見つけなければならないのだろうが……。

 朝食を終え、テリブリは背広に着替えた。会社の連中のことを思った。改めて見ると背広はずいぶんとくたびれていたが一張羅なのでしかたがない。妻は礼服を探しかけて「そういえばヨッちゃん(妻の歳の近い妹である)が結婚式に着たいって貸しっぱなしだったわ」といって、「どうしましょうかねぇ」とつぶやきながら押入れをあさっていた。チョウスケは幼稚園に行くときの格好になっていた。もう帽子までかぶって臨戦態勢さながら所在なげにそわそわしている。

 これはしばらくかかりそうだなと思い、テリブリは一言断って煙草を吸いに外へ出た。煙草はもう底をつきかけていた。いい禁煙の機会だったじゃないかと無理矢理納得することにした。

 玄関を出て十歩ほどのところに昨日の警邏の男が立っていた。自分たちを迎えにきてくれたのか、不審を完全に払拭したわけではなく監視にきているのか、あるいはその両方か。ともあれ、警邏はテリブリに気づくと、気さくにあいさつしてきた。剣呑な感じはしない。テリブリもあいさつの一単語ぐらいは一夜漬けでなんとかおぼえていたので、ぎこちない発音ながらもあいさつを返した。

 警邏は「案内」と書かれた板を見せてきた。どうやら集落まで連れていってくれるらしい。ということは集落の首長だか名主だかにもわたりがついているのかもしれない。テリブリはありがとうに相当するはずの言葉を伝えてみた。警邏はちょっとおどろきながらも何事かよくわからぬ言葉を発しているが、おそらく感心しているようである。テリブリも愛想笑いをしておいた。

 テリブリは背広のポケットに入れっぱなしだったハイライトの箱から一本取り出した。警邏は物珍しそうな顔で指差してきた。こちらの世界には煙草に相当するものはないのかと思うと消極的な覚悟をしたとはいえ、やはり改めて憂鬱な気分になった。

 一本を警邏にあげて、テリブリは新しい一本に火をつけずに嗅いで見せた。警邏もその仕草を真似したがすぐに顔をしかめて何かいった。たぶん、まずいとかそういう具合の言葉のようだった。

 引き続きテリブリは煙草にマッチで火をつけ、吸って、煙を吐き出した。警邏はむせた。似たような光景に昔どこかで遭遇したことがあるような気がして懐かしい感情がわいた。テリブリはマッチを指差し、警邏の煙草を指差し、火をつけてみるか尋ねてみたが、警邏は丁重にもらった一本を返してきた。警邏は頭を指差して何かいった。頭が痛くなるといいたいのか、頭がおかしいといいたいのか、頭の薬かと聞いているのか。いずれにせよ、返答のしようがないテリブリは黙って煙をふかすことしかできずにいた。

 一本吸ってテリブリは家に戻った。警邏は引き続き外で待っているようだ。丁度、妻の身支度もそろそろ終わるところだった。チョウスケは古いチラシを使って落書きをしていた。

 父親に気づいたチョウスケは幼稚園のことを尋ねてきた。テリブリは答えに迷った末に我が家は引っ越して、いままでとは別の幼稚園(この国にそういう施設があるのかは知らないが)に通うことになるかもしれないという意味のことを教えた。現状が一時的なものであるのか永続的なものであるのか、幼い子供がどのようにとらえているのか想像もつかなかったが、少なくとも見た限りでは恐怖や混乱の感情は表れていないようだった。おれたちが正気を保って平然を装ってさえいれば、子供は世間とはそういうものなのだと解釈してくれるはずだとテリブリは考えた。

「すみません、なかなかしっくりこなくて」

「いいさ、粗相があっちゃいかんからな」

 三人そろって家を出た。チョウスケを冠婚葬祭に連れて行ったことはまだなかったはずだから、こうした装いで家族で出かけるのは初めてであることにテリブリは気づいた。いつかはこれを象徴的な出来事として思い出す瞬間もあるのだろうかと思うと何かさびしさを感じた。

 すぐに警邏の兵士が「案内」と書かれた板を持って近づいてきた。テリブリの妻もおぼえたてのあいさつを交わした。チョウスケは大人の会話に興味がないのか、周囲の未知の光景が気になるのか、母親の手を握りながらもキョロキョロしていた。

 警邏は集落の方角を指差しながら「すぐそこですよ」といった(テリブリたちには通じていないが)。道は土がむき出しだったが固くて歩きやすかった。遠くの畑で農作業をしている人がちらほらと見えた。道すがら、路傍の雑草などに注意を向けたりもしたのだが、植物学者でもなんでもないテリブリにはさして関心を引かれるものも見当たらなかった。

「ここがどういうところかは知らんが、なんだかおれたちとそう変わらんのじゃないか」

「そうみたいですね。おだやかそうですし、なんとか暮らす分には。ね、がんばりましょうね」

 集落に近づくにつれ、何人かの住民たちとすれ違った。彼らはテリブリたちを見ると「ほお、この人たちが」というような顔つきで警邏と手短に話しては会釈をして通り過ぎていった。集落の住民たちには、よその世界からの闖入者の情報が既に周知されているように感じられた。

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