間もなく図書館が閉まる十八時なのに、時計の針があと数歩を立ち往生しているように思えるそんな時刻で、隆文はなんとなく顔を上げて入り口へ視線を向けた。

 しかし、とっくに来館者はいなくなっており、自動ドアが動く訳もなかった。

 今日で三日目だと、隆文は思った。

 妙乃が、一日図書館に来ず、隆文の家で待ってもいなかった日は何度かあった。もちろん、次の日にはなんでもない顔を隆文に見せてくれた。

 二日空くというのも、ありえない話ではないのだろう。そんな用事があれば事前に教えてくれそうだが、急用や、もしかしたら体調を崩して寝込んでいるのかもしれない。

 しかし、あの元気溌剌という言葉がよく似合う女性が、三日も音沙汰もないとなると、隆文は確かな虚無感を抱くに至る。

 そんなにも彼女がかけがえのない存在になっていたことに、我ながら驚くと共に、心配が胸に渦巻く。

 だから、隆文は就業のチャイムが鳴るか鳴らないかという早さで手荷物をまとめ、防寒着のロングコートに袖を通し、同僚への挨拶も流して済ませ、退勤した。

 そのあしは、妙乃の自宅への道をなぞる。

 そのつもりであったのだが。

「こんばんは。君が、三栗隆文君、かな?」

 春の兆しに桜の花芽が膨らむこの頃、午後六時はまだ空が茜色を残してゆうしのんでいて、この辺りの古馴染みは、おばんです、という挨拶を交わす。

 聞き覚えのない声に、都会に慣れた挨拶を向けられ、隆文は刹那、無視しようかと悩む。

 目の前に突如として、スリーピースのグレースーツにハットを被った紳士然とした男が現れなければ、足はそのまま先へと進んでいただろう。

「え?」

 しっかりと前を見て歩いていたことを自負し、確かに進路方向には誰もいなかったと認識している隆文の脳は、一歩分だけ空けた前にその人物が立っているという事実に、大いに混乱した。

「失礼。本来なら、娘から紹介を預かるべきとは思うんだがね、緊急なんだ。丹藤妙乃の父、永時だ。よろしく」

 妙乃の父だというエイジと名乗った紳士は、右手を隆文に差し出した。

 訳もわからなかったが、隆文はなぜかすんなりとそれを信じて、握手に応じる。

「あ、えと、三栗隆文です。その、娘さんと……」

「うむ、付き合っているそうだね」

 永時は隆文の台詞を先取りし、不機嫌な猫のように目を細めた。

 それに隆文が肩をびくりと跳ねさせるのを待たず、気にするなというように穏やかなにその肩を叩いた。

「なるほど。逃がす手はない、か。その通りかもしれないな」

「はあ……?」

 隆文は、勝手に納得する永時についていけず、生返事しかできなかった。

 永時はその様子に微笑を浮かべ、その話のそらし方が、確かに妙乃に似ていた。

「なに、気にしないでくれ。どうせなら、殴る理由がある奴なら心が晴れたというだけだ」

「はいっ!?」

 いきなり物騒な話に持っていかれて、隆文は飛び跳ねそうになってしまった。

「非のない青年を殴りはしないさ。それに、殴る蹴るは、私ではなく、妻と娘の本分だ」

 笑うに笑えないジョークで話を流されて、隆文は呆然とするしかできない。

 そんな戸惑う隆文への配慮など全くなく、変わらないマイペースさで永時は本題を告げた。

「ところで、妙乃が行方不明になった」

「行方不明!? 妙乃さんが、どうして!?」

「落ち着いてほしい。真相の検討はついているからね」

 落ち着けと言われても、最愛の人がいなくなったと知って、隆文が落ち着いていられるわけでもない。ただ、詳しい話を聞けるのが目の前の言動不審な紳士しかいない現状では、慌てふためいて話を遮る訳にもいかず、隆文はもどかしそうに左足で道路を踏み叩く。

「歩きながら話そう。人に聞かれたくない」

 人がいなくなったという不穏な話である。人の耳が気になるのもその通りだと考え、隆文は先に踵を返した永時の後に着いていった。

 永時はそのまま、役所の施設が固まる区域を抜けて、城のある方角へと歩いていく。四月に近づいたとはいえ、日の当たらない影には錆雪さびゆきが残り、風は冷たい。

 永時は寒そうに、ジャケットの襟を合わせて、冷気が入ってこないように細やかな抵抗をしている。

「さて、妙乃がやらかした事態を説明するのに、幾つか前提の共有が必要になるんだけどね。隆文君、君は、超常現象を信じるかい?」

「はい?」

 突飛もないことを尋ねられて、隆文は語尾が上がってしまった。失礼だったかと永時の顔をうかがうが、相手は差して気にせず、悠然と歩を進めている。

 そして、補足まで加えてくる。

「超常現象、もしくは幻想、神秘、魔術、まぁ、色んな言い方はできる。要は科学ではまだ説明不可能であり、一般には起こりえないものだ」

「それは、神隠しみたいなものですか?」

 妙乃が行方不明という情報も相まって、隆文はそんな例を出して認識のすり合わせをはかった。

 果たして、それは的を射ていたようで、永時は鷹揚に頷く。

「そうだね。そういうことがありうると思うかい?」

 ありうるか、ありえないか。その二択であれば、隆文は否定のしようがなかった。

 彼は長らく、未言という不可思議な存在に憑き纏われて人生を過ごしてきたのだから。

「まぁ、頭ごなしに否定はしません」

「そうか。うむ、そうか。君も原理は違えど神秘に触れているのだ、そうであろうな。未言と言ったか」

「未言を、ご存じで?」

「妻から聞いた。妙乃は隠しているつもりだったらしいが、妻は娘のプライバシーは家族に対しては無効だと判断していてね。手紙をこっそりと見たと宣った。あ、いや、私も注意はしたよ」

 妙乃の母の明け透けな行動に開いた口が塞がらなかった隆文を見て、永時は咄嗟に対応をしたと付け加えた。

 しかし、隆文は数回会っただけでも十分に理解していた、あの人はそんな注意を百回されても、娘可愛さと自分の楽しみのために、覗き見を続けるタイプの性格をしている。

 その絶望に至り、隆文は空を仰ぐ。

 永時はそれに苦笑いを浮かべつつ、両手をこすり、息をかけて温めた。

「ふむ……、済まない、本来ならこれは娘から君に伝えるべき事だったのだが」

 永時は心底申し訳なさそうな表情を作り、城の堀に架かった橋を渡り、石垣の下で、一本の万年筆を取り出した。それは黒塗りの美しい、見るからに高価で年季の入った逸品だった。

 しかし、隆文は屋外で筆記具を出す意味が分からず、怪訝な表情を浮かべる。

 そして、その思いは、永時が万年筆を使っても、いや使ったからこそ一層深まった。

 永時は万年筆の蓋を取り、空中に文字を書く仕草をした。

 しかしそれは仕草で終わらず、空中に金色の文字を浮かび上がらせた。

『Appearance』

 堂に入った筆記体で書かれたその文字は、瞬く間に崩れて辺りの空間に溶けていった。

 そしてその溶けた金色を吸い込んで、それらは姿を現す。

 石の隙間から除く白毛の狐、未丹いまにの芽を閉じた枝に連なる小さくデフォルメされたような人影、黄金の瞳で永時と隆文を睨んでくる黒猫。

 錆雪に埋もれている継ぎ接ぎだらけで、ところどころ破れて薄汚れた半纏を着た少女は、隆文も以前に見たことがあった、まさしく錆雪の未言巫女だ。

「私は魔術師であり、つまり妙乃は魔術師の娘である」

 永時から密やかに告げられた言葉に、隆文は目を見開いた。

 魔術師というのは、幾つもの書籍に出てくる。

 超常現象を起こすもの、常識の外にいる存在、そして多くの物語で彼ら彼女らは、一般の人とは距離を取る運命に縛られている。

「そんな、彼女は!? もう逢えへんの!? なんも言わずにいのうなるとか、ずるいやんか!?」

 たまらず、隆文はがむしゃらに叫んだ。しかし、大声でかき消したら事実がなくなるという訳ではない。

 それに、隆文のそれは早とちりだ。

「いや、落ち着いてくれ。君が彼女を見つけたら普通に帰ってくる」

「え?」

 至って冷静な永時と自分との温度差に、隆文は途端に恥ずかしくなった。

 顔を赤くしながら、隆文は自分の思考を伝える。

「あの、一般人とは一緒にいられないとかそういうのではなく?」

「私の妻も、一般人だよ。まぁ、古武術を伝承する血脈が一般かどうかは議論の余地があるが、神秘の側ではないな」

「えっと、僕は記憶を消されたりとかは?」

「君が周りに吹聴しても、精神病棟に入れられるのが関の山だが、そんなことをしたいのかい?」

「いえ、全然」

「だろう?」

 ここでやっと、隆文は自分の早とちりに思い至り、穴に入りたいほどの恥ずかしさに襲われた。体が熱く、燃え上がりそうで、いつの間にか足元にいた日焼けした肌の眩しいむの未言巫女が、その琥珀の目に労りを込めて、隆文を見上げている。

「いやはや、温かそうで羨ましいな。若い若い。家の娘もこんなにも真剣に愛されて、幸せだよ。ありがとう」

 嫌味も屈託もなく永時が隆文の発言を称賛するのだから、尚更隆文は居たたまれなかった。

「でだ。話を戻してもいいかい?」

「どうぞ。すみませんでした」

 消え入りそうな小さい声で謝罪する隆文に、永時は空に声を上げて笑ってくれたのだった。

「結論から言おう。妙乃はどうやら、自分から姿を消したらしい。魔術かなにかを使ってね」

「自分から?」

 あのどんな問題でも勢いと実力を駆逐して打開するような直情思考な妙乃が、逃げ隠れを選択する事態が想像できず、隆文は怪訝な声を漏らした。

「それがね、妙乃は今まで魔術をきちんと使えなかったんだ。魔術というのは論理から現象を書き換える神秘なのだけど、妙乃は興味のないことを思考する気が全くない子だから」

「そうですね」

 それはそうだろうと、隆文は即座に納得した。なにせ、妙乃は以前にミステリー小説を勧めたら、面倒くさいと一言で断ったような人だ。

 岩があれば迂回せずに押し退けて道を作り、不穏な未言巫女がいれば封印してみせたらしい。

 妙乃は、隆文が出会ったきた中で一番、論理的な思考という言葉が似合わない人物だ。

「洞察力と直感はあるから、魔力を使うことはできたけど、術式は一切覚える気がなくて、魔術というよりは魔道に近い使い方しかしない……ああ、いや、細かい分類は今は関係ないな。ともかく、妙乃は自分の身体能力を底上げすることはできても、複雑な現象を引き起こすなんてできなかったんだ」

 永時は過去形で語った。

 つまり、何かしらの要因で、妙乃がその方法を身に着けたらしい。隆文は心当たりがありすぎた。

「あの、もしかしなくても、未言が?」

「そうだね」

 永時にはっきりと頷かれて、隆文は頭を抱えた。

「勘違いしないでほしいんだが、君はなにも悪くない。私も妻も、君を責める気は全くないよ。物を教えるというのは、どんな物事であれ、それが真実であれば善なることだ。これは、教わったことを間違った使い方をしている妙乃が悪い」

 永時はにこやかに隆文の罪悪感を払拭しようとするが、隆文の生真面目さはそれをすんなりと納得させなかった。

「未言というのは、妙乃の素質と相性が良かったようだね。未言の言霊、命と交信して働きかける力は、魔法に分類されるべきだが、つまり妙乃は未言を通じてその意義を発現する神秘を身に着けたらしい」

 隆文にはすぐに理解できる話ではなかったが、似たような話は未言屋店主の記述にもあった。

 曰く、未言に命を注ぎ、未言を表現してその真価を引き出す者を指して、未言屋と呼んでいたのだ。あくまで未言屋店主の創作の中での話と思っていたが、今にして思えば、エッセイなどにもそういった内容が書かれていた。

「だんだんと、僕にこの話がされている理由がわかってきました……」

「想像の通りだと思うけど、神秘は特定の条件を満たした者しか干渉できないものが多く、また解決にも術者が定めた手順が必要になることもある」

 ここまで来れば、隆文にもその後に続く台詞にも検討がつく。

「あの、妙乃さんはどうして身を隠されたのです?」

「うん、どうやら、私と妻との会話を聞いてしまっていたようでね。君が真実を知っても受け入れてくれるかという私の懸念に、不安を抱いたらしい」

 思った通りの展開だったと判明して、隆文は膝から崩れ落ちて地面に突っ伏した。

「本当なら、魔術師に関係ない君に頼らずに解決したかったんだが、どうにも娘も強情でね。私は未言のことを知らないから、残念ながらもう打つ手がないのだよ」

「まぁ、そうですね、未言に関する不思議の対処の仕方は、知識としては持っています」

 未言屋店主の作品には、似たような展開のものもあり、当然、作中で解決方法も示している。未言屋店主様々のようにも思えるが、そもそも未言屋店主が全ての原因であるのだ。

「未言の基本は、この事態を起こしている未言がなにかを当てるところからですね」

「なるほど。魔術にも通じるセオリーだね」

 永時はもう、全面的に隆文に委ねるつもりだ。娘を任せるに足る人物だと判断したのだろう。

 隆文は、永時から妙乃がいなくなった前後の状況を何点か質問して、未言の推理に入る。

 夜。恋人。春。親。眠り。

 隆文は懸命に頭の中の引き出しを引っ掻き回すが、どうにもキーワードが足りない。

 未言屋店主が似たような未言当てクイズをやった時は、即座に当てる人物がいたらしいが、どうすればそんなことができるのか教えてほしいくらいだった。

 その人物も女性だというから、やはり女の勘が必要なのかもしれない。妙乃も、最近は隆文以上に早く多くの未言を見つけていて、どうやっているのか聞いたら、勘、と答えられたのだ。

 件の人物は当時、未言未子鑑定士と呼ばれていたらしい。巫女ではなく、未子である。巫女になる前の言葉の未だらしいが、隆文には細かい違いはわからなかった。

 知っているのは、未子は未言巫女と違って、不可思議な現象を起こす能力がなく、言葉を喋れず鳴き声のように、自分の未言の音をたどたどしく発していたということくらいだ。

「そういえば、未言未子鑑定士は」

 隆文は、未言未子鑑定士が未言を当てる時に、未子の鳴き声から未言の音を推測していたことを思い出した。

「すみません。妙乃さんがいなくなった時、なにか声のようなものは聞こえませんでしたか?」

「声?」

 隆文に質問されて、永時は記憶を探るのにまぶたを閉じる。

 しかし、永時は弱々しく首を振った。

 それを見て、隆文は落胆の溜め息をつく。

 だが、永時は魔術師である。人の記憶には限界があっても、それを乗り越えるのが神秘の神秘たる所以だ。

 永時は、再び万年筆を手に取り、筆記体の英字を綴る。

『Archive』

 今回の金字は、するりと糸のように解けて、永時の耳へと入っていった。

 永時は耳を澄ませるように、またまぶたを静かに閉じる。

「こ、こ……こ、こ……ひ、こ」

 記憶を辿るように、微かな声で永時は声を発した。

「女の子の声で、こ、こ、それから、ひ、こ、と聞こえるよ、隆文君」

「あ、ありがとうございますっ」

 まだ未言以外の神秘に慣れておらず、少なからず目の前で起きたことに動揺している隆文であったが、もらったヒントは非常に有用だった。

 妙乃を隠した未言は『こ』『ひ』の音を持つものだ。

 隆文は、何度も何度もその二つの音を口の中で転がし、未言に探りを入れる。

 『こひ』と考えれば、『恋』だろうか。未言屋店主は、未言の音を古語表記で記していた。この文字を持つ未言も、数が多い。

 こいのこり、こいもる、恋告月こいつげつき、どれもありそうだが。

 恋残りは、人の記憶を刺激して、行動を止めるという記述はあった。

 恋積もるは、積もる想いで人を押し潰すという記述があった。

 恋告月は、約束の時間にだけ二人が言葉を交わすという記述を残している。

 どれも、人を隠すという意味も、そのような能力を示す記述もなかった。

 もしくは、『ひ』と『こ』。

「ひとこ……秘音言ひとこと

 それは、こっそりとした声で伝えられる内緒話。未言屋店主の作品では、姿を見せずに伝言を送ったり、耳元でささやいてその言葉を強く印象付けたりしていた。

 隆文は、この未言も首を振って否定する。元から姿を見せないのと、姿を消し去るのはまた別の現象に思えた。

 未言未子鑑定士は、未言屋店主が設立したサイトに網羅された未言から検索できたというが羨ましい限りだ。

 隆文には自分の頭脳しか、未言を探すあてはないのだから。

 答えが見つからない。見当も全て外れた。

 日は落ち切って、闇の中を外灯の光が点々と照らす。

 鶴ヶ城と称えられる天守閣の隙間から、上弦の月が覗いている。雲もないのにぼやけた幽月かくりつきだ。きっと日が沈む前には、つきけていたことだろう。

 これらの未言なら人の姿も朧に隠し、透けて見えなくするかもしれないが、『こ』も『ひ』も入っていない。

 諦めるな。隆文は自分を叱咤した。

 きっと見つける。隆文は自分に誓った。

 必ず取り戻せる。隆文は自分を激励した。

 こんなものでなくしてしまえるほど、隆文にとって妙乃は軽い存在ではなくなっていた。

 彼女の残したヒントを探ればいい。妙乃は、いつもおねだりする時は率直に伝えてきて、何も言わないのに気持ちをわかって、というようなわがままは言わなかった。

 だから、今回も、隆文が見逃しているだけで、何か手掛かりがあるはずなのだ。

「手がかり?」

 隆文は思考の中で出てきたその言葉に引っかかるものを感じた。

 恋人から隠れる。手がかりを残して。『ひ』と『こ』の音を持つ。そんな未言が、あったはずだ。

「ひ、こもる……ええと、ひめこもる、こもる、秘め籠る!」

 隆文が使いすぎで響く頭の痛みを吹き飛ばすように叫んだ瞬間、妙乃のにこりとした顔が目の前に浮かんだ。

 それと、彼女を後ろからローブで羽包み、呆れた顔をしている未言巫女の姿も。

 しかしそれらは、刹那も待たずに、隆文の思い込みであったかのように、儚く消えてしまった。

「ちょ、ま、名前当てただけじゃあかんって、鬼やん!?」

「あー、我が娘ながら……その、ごめん、隆文君」

「お父さんに謝られても困ります!」

「おやおや、お義父さんと呼ばれるには、まだ早いな、きちんと挨拶に来てもらわないと」

「ここで冗談なんや言わんでおくれやす!?」

 見えない妙乃が声もなく笑う気配が隆文にも感じられた。

 もう明らかに隠れる気もないし、それどころかこちらを見て楽しんでいる。

「これは、妙乃に満足して出てきてもらうしかないな」

 ぼそりと、永時が言った。

 隆文にだって、妙乃がどんな言葉をかければ出てくるか、もうわかってはいる。

 わかってはいるが、それを、妙乃の父親がいる前で告げろとは、鬼として思えなかった。

 隆文はもう、恥ずかしさで顔に火が付きそうであった。

「こ、このへんで堪忍してくれへん?」

 隆文の降参の声は、誰にも受け止められずに春の夜風に流されて消えた。

 隆文だって知っている。妙乃のお得意なのは、この、自分は喋れませんからと開き直って、要望が通されるのをにこにこと待つことなのだ。

 質が悪い、何が質が悪いと言って、それもまた可愛くて、困りながらも愛おしいと思ってしまう自分の気持ちが一番質が悪いと、隆文は絶望に震えた。

 隆文が諦めて、言葉を練っていたその時。

 ぞくりと、異様な気配に、背中に鳥肌が立った。

「教戒を犯すのもそこまでだ」

 低い声が、誰もいない城の石垣に浸み込んだ。

『Accelerate』

 隆文の視界を過ぎ去った金色は、そう綴られていたように見えた。

 永時の残像が隆文の前に割って入り、見えない何かを甲高い音を立てて弾き飛ばした。

「お前が妙乃を狙った魔術師か。監査員か」

「邪魔をするな。教戒侵犯には罰則を与える」

 それらの言葉を発した二人は、もう隆文の目には止まらなかった。

 取り残された音と、空気の振動が、彼らの衝突を伝えるだけだ。

「魔術教戒三五一零番、それに触れた者は、教戒及び神秘に関する記憶を全て抹消する」

 それは、警察が犯罪者を逮捕する時の宣告にも似ていて、隆文の耳元で聞こえた。

 振り向けば、骨ばった手が隆文の頭を掴もうと迫っていた。

 骨の砕ける音が、聞こえた。

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