隆文はその日、早めに仕事を切り上げることが出来た。

 まだ太陽が空を赤く染めている時間帯に、図書館を出るのも、久しぶりだった。

 夕焼けが空だけでなく、図書館の壁にも朱色の影を伸ばしている。

 なんとなく、隆文は足を止めて、夕日を見た。しかし、太陽は、昨日まで雨を降らしていた雲の名残が白く透ける中に隠されていて、空は影絵芝居のように一つの色と影で塗り分けられていた。

 赤黒い、胎児が見ているような、血の透けた胎の中みたいな空だ。

「ああ」

 隆文は、一つの未言を思い浮かべて、声を漏らした。それは、彼にとって、いや、彼の血族にとって、特別な未言だ。

 世界が終わるような、世界が生れ落ちるような、世界が受精できずに爛れ流れるような、そんな命の醜いまでの美しさを、恐ろしいまでの安らぎを感じる、臙脂一色に染まった空だ。

 隆文は、ただただその色に魅入られて、眺めている時に、その中を走って来る人影を見つける。

 小さな体を懸命に疾駆させて、彼女は隆文の元へと駆けて来る。

「おばんです、丹堂さん」

 隆文に近づくにつれて、走る足を歩み足にして、肩で息する妙乃に、彼は和やかに挨拶をした。

 妙乃は、息を飲みながらさらっと頷いて挨拶を返し、そしてがばりと顔を上げて、隆文に輝く瞳を見せた。

 その表情に、何か嬉しいことが、そして彼に伝えたいことがあったのだろうと、隆文は察した。

 妙乃は、息を一度嚥下して、ピンと右腕を伸ばして、背後を指差した。

 彼女が未言を見つけた夕焼けを。

 隆文が未言に想いを馳せた夕間暮れを。

「ああ、綺麗な凶茜まがあかねですよね、今日の夕間暮れは」

 隆文は、同じ未言を想っていると疑いもせずに、何気なくその未言を告げた。

 その未言が、自分の見つけたのと違うことに、妙乃は驚愕して、目を見開いた。

 妙乃は、ふるふると、そうじゃないと首を振る。力なく、でも健気に、自分の想いを伝えようと無理やりに首を振る。

 今度は、隆文が何時になく必死で泣きそうな妙乃の姿に、戸惑い、狼狽える。

 何かを間違えたのには分かるのに、何を間違えたのかが分からない。

 それはきっと、彼女が喋れたなら、すぐに伝えられた齟齬であって。

 だから、彼女は、懸命に声を発せられない口を動かす。

 彼女は、三文字の未言を、繰り返し口にして、訴えていた。

 隆文の目が、その不自然な口の動きに気付き、凝視する。

 読唇術がない相手にも伝われと、妙乃ははっきりと、しっかりと、声を模る。

 細くすぼめられて。

 横に軽く広げられて。

 最後に綺麗な円を描く唇。

 その繰り返しを、何度も何度も見て、隆文の脳はやっと、その未言に思い至る。

、ですか?」

 或いは、凶茜よりも先に、この空を見て思い浮かべるであろう未言に、やっと隆文は辿り着いた。

 そして、想像の中で、その凶茜の空の時間を巻き戻し、あやめく移ろいを逆戻しにして、臙脂一色の空から、光があやめき五色に乱れる空にまで思い当たった。

 凶茜。それは、台風の前、豪雨の後などに偶に見られる不吉なほどに赤く美しい夕空、またはその色。

 暮れ炉。それは夕焼けが雲に映り、燃え盛る炉のように見える空の風景。

 同じ時刻を捉え、酷く似ていながら、全く違う二つの未言。

 妙乃は、隆文にやっと自分の未言が伝わったことで、喜色満面になる。

 犬が尻尾を振るみたいに、こくこくと忙しなく首を縦に振る。

「あぁ、彩めく夕焼けは、すぐに表情を変えますから」

 そんな言い訳じみた発言に、妙乃は頬を膨らませた。

 そして、メモ帳に薔薇模様の美しい細い万年筆を走らせ、山葡萄の文字で不満を表す。

『まがあかね、って、私知らない未言です』

 知らないものを出すなんてずるい、と口よりも雄弁な表情が語る。

 隆文は苦笑いするしかない。確かに、未言字引には、凶茜は出て来ないし、凶茜が出る書籍はまだ妙乃に貸してはいなかった。

 凶茜が、暮れ炉に比べて出現頻度が少ないのには、理由があるのだ。

「すみません。ええと、凶茜は未言屋店主が作った未言ではなく、別の人間が作った未言なので、未言字引に収録されていないんですよ」

 隆文が告げた事実に、妙乃はきょとんと目を丸くした。

 しかし、未言字引の前書きの収録範囲の項目には、きちんと書いてあるのだ。特定の期間の中で『奈月遥が作成した未言』と。

 妙乃には、未言屋店主である奈月遥以外の人物が、未言を生み出してした事実など想像も出来なくて、ひたすらに頭を混乱させていた。

「やから、凶茜は、なっきゅんやない人がつくうた未言やてこと」

 隆文がはっきりとそう告げる。

 一拍の間を置いて。

 大きく口を開けて、驚きを顔中に爆発させた妙乃の叫びが、音をまとわないのに、耳をつんざいたような気がした。

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