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 司書さんに「ねむまり、と読むんです」と答えられて、妙乃はとくんと胸をときめかせます。

 なんて素敵な音の転がりなんだろうと。それが優しげで深みのある声で発せられたので、なおさら。

 妙乃は瞼を降ろして、その音を頭の中で繰り返し再生して、余韻に浸っていました。

 やはり、恥ずかしいのを我慢して、司書の方に聞いてよかったと、妙乃は心の中で自分を褒めました。

 妙乃みたいな学歴のない人間は、全く知らなかったこの不思議な言葉を、即座に答えてくださるのですから、その偉大さに平伏する心持ちです。

 妙乃はわくわくとして心情で、指が変に跳ねないように気を付けながら、三度、万年筆を滑らせました。

『それは、どういう意味なのですか』

 クエスチョンマークは、手書きしようとすると、なかなかに難しいので、省略しました。もともとあの記号は日本にはないものなのですから、まぁ、いいでしょう。

 しかし、眠毬の読みをするりと答えてくださった司書さんは、今度の質問にはしばし黙り、盆栽のような印象を与える指を顎に当てて悩んでいます。

 なにか、訊き方がまずかったのだろうかと、胸の内で慌てそうになる妙乃が、不安に挫ける前にはぎりぎり間に合ったタイミングで、司書さんの耳に心地よく響く声が紡がれました。

「それなら、実物を見ましょうか。着いてきてください」

 そう言って、司書さんはカウンターから出て来ました。

 自動ドアの方へ向かって足を進め、ほんの数歩で立ち止まり、妙乃を呼ぶように振り返ります。

 その斜に遮られた横顔は、なんとなく悪戯をしようとしている少年のようです。

 妙乃は、置いていかれないように、ぱたぱたと駆け出します。

「図書館では、走らないように」

 中学の学年主任みたいに、微笑を浮かべながら注意されて、妙乃は頬を赤らめながら足の運びを緩やかに変えました。

 自動ドアから外へ出て、司書さんは図書館に沿ってぐるりと回ります。そちらは、妙乃も好きな、いろんな樹木や草花が身を寄せ合って生える中庭に続いている道です。

 妙乃は、司書さんの影にくっ付いて歩きながら、こないだまで咲いてなかった花や擦れ違うアオスジアゲハやほんの少し緑を濃くした葉を見つける度に、そちらに気を取られては、思わず笑顔をこぼしていました。

 その様子を司書さんにちらりと見られて、こっそり笑われているのにも気付かずに。

「着きましたよ」

 足を止めた司書さんに声をかけられて、妙乃からすると視界をふさぐくらいに大きな背中から、ひょっこりと顔を覗かせました。

 司書さんが指指しているのは、芙蓉の柔らかそうな花の、蕾、ではなく、朝にしか開かない花が昼になって丸まった姿です。

 妙乃は、司書さんがなにを言いたいのかよく分からなくて、こてんと首を倒しました。

 その仕草の愛らしさに、司書さんはまたくすりと微笑みました。

「眠毬とは、花が眠るように丸まるのを、毬に例えた未言みことです。芙蓉、未草、合歓の葉。柔らかな羽衣にくるまるように、眠る草木の乙女たち」

 司書さんが詩をなぞるように、眠毬の意味を諳んじるのを聞いて、その綴られた単語の一つ一つを耳の奥に木霊させて、妙乃は見る見る目を丸くして見開きました。

 そして、その大きく膨らんだ瞳でじっくりとしっかりと芙蓉の眠毬の、穏やかに眠る柔らかな花弁の毬を焼き付けて。

 それから、その瞳の大きさのままで、司書さんの顔を見上げました。

 妙乃の薄い珊瑚色の唇から、ずっと忘れていた吐息が、細く細く胸の中の感情と一緒に空気に溶けていきます。

「素敵でしょう?」

 司書さんの自慢げな声に、妙乃は大きくはっきりと、頷きました。

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