生きる伝説を救え
弐
『テル』
優しく自分を呼ぶ声。そんな声じゃあ、起きれるものも起きてこないのに。だからと言って目を覚まさなかったら、今度は容赦なく暴力を振るってくるんだろう。
わかってる。今日は特別な日だし、仕方ないから、もう起きてやるよ。
『テル』
あと少しだけ待ってよ。ちゃんと起きるから。そもそも頭の中は覚醒してるから。ただもうちょっとだけ、目を瞑らせて。
『テル』
わかった、おれが悪かったよ。おまえって結構せっかちだよな。わかりました。起きますから。
『助けて』
突然だった。
彼は急に飛び起きて、立ち上がろうとした。しかし、体が覚醒しきらないまま床に足をつけると、脚に電流が走ったような痛みが襲いかかり、そのまま倒れてしまった。
冷たい床に打ち付けられ、起き上がろうとするが、鈍く痛む頭がまたぐらぐらした。胃がきつく絞られる感覚がする。喉の奥から何かがこみ上げてきて、気付いたら、テルは知らない床に吐いていた。
胃にあったものを吐き出しながら、彼は生理的な涙を流した。そして、吐き終えた後も泣き続けた。嘔吐の名残で涎を垂らしながら、嗚咽を漏らしていた。
守れなかった。そばにいたのに。何も出来なかった。
胃がムカムカする。喉の奥に何がが突っかかってる気がする。身も焦げそうだ。いっそ焦げて塵になってしまえばいい、こんな役立たず。
不意に、誰かに背中をさすられた。すっかり気を抜いていたテルはすぐさま振り返った。
彼のそばには、中性的な顔立ちの少年がいた。いかにも優しげな目をしていて、薄紅色のぼさぼさな髪が特徴的である。
「気持ち悪くないですか?」彼は声も中性的だった。
「え?」
テルは頭が上手く回らず、彼の質問の意図がわからなかった。
「脳震盪を起こしていると思うんです。しかも重症の。僕は医者ではありませんが、こういうご時世なので、脳震盪の人を看病することはよくあるんです」
「頭がくらくらする。これ、のうしんとうのせいなのか?」
少年は頷くと、テルを支えながら水場まで案内した。テルが知る水の供給場所は井戸だ。
しかし、彼が提供した水場は、少年曰く水道と呼ばれるもので、水栓を捻るだけで水が出てくる便利な場所だった。
テルが口を濯ぎ水を飲んでいる間、少年は彼の吐瀉物の処理に取り組んだ。普通なら他人の吐瀉物処理なんて嫌がるものだが、彼はこういったことも慣れている様子だ。実に手際も良く、テルが戻ってくる頃には床は綺麗になっていた。
「ありがとう」
「汚れちゃった服は捨てた方がいいですよ。その服をあげますから。よく似合っています」
テルは、水をもらったついでに服も着替えさせてもらっていた。
テルが今身にしているのは、首の根元に帽子がついた──世間一般ではフードという──厚めの素材の上着に、伸縮性に富む不思議とつるつるしたズボンだ。今まで一度も着たことのない種類の衣服だった。
「何から何まで、ごめん」テルは落ち込んでいた。
「いえ、慣れてますから」少年は優しく微笑み、テルを寝かせようとベッドに案内した。「バットで強く殴られたんですから、なるべく安静にしていた方がいいです。医者も呼んでありますから、ゆっくりしてください」
テルはベッドに横になりながら、顔を盛大にしかめて見せた。 「見ていたのか?」
「すみません。僕には彼らに太刀打ちできる力がなくて」
少年は落ち着いた様子で頭を下げた。
「相手は『スワロウテイルズ』ですから。この事は僕の知り合いの『幹部』の方に報告しました。そうしたら、彼が直々にあなたに詳しい話を聞きに来てくださるそうですので、きっとあなたの大切な方も取り戻せるでしょう」
彼の発言を、テルはよく理解できなかった。何がどうしてジャスミンを取り戻せるのか、どこに連れて行かれたのかわかるのか、そもそも『スワロウテイルズ』とは何なのか。
しかし、頭がぼんやりすることを理由に、彼は考えることを放棄してしまった。
「あなたも災難でしたね。まさか『スワロウテイルズ』が中央街の方に手を出すとは。ああそうだ、僕ったら名乗らないままでした。僕はニコル。鍛冶屋をしています」
「おれはテルだ」
「お仕事は何を?」
「ああ、農家だよ」
これはサミュエルに用意された嘘だ。あながち間違いでもないが、家庭で必要な分だけ野菜や家畜を育て、糧にしている。農家とは違うだろう。
だが、中央街やファミリー
「それでは尚更、今回の件は辛いでしょうね……。守られるべき立場にある方に、どうして彼らはあんな酷いことが出来るのでしょう」ニコルは心の奥底から同情した。
暫く二人は互いのことを話し合っていた。その会話の節々で、ニコルが生真面目で思いやりのある少年であることを感じ取った。見たところ彼は武人でもなさそうだし、これ以上厄介になる訳にはいかない。
頭は痛くなくなったからもう医者は必要ない。それよりさっさとジャスミンを追いかけたいんだ。そう伝えたが、家の主は猛反対し、結局医者と『幹部』が来るまで寝ているよう丸め込まれてしまった。
やって来たのは七人。ニコルの紹介によれば、『幹部』が一人『戦闘員』が四人、医者が一人、そして、『頭領』が一人らしい。医者以外は、商店街でジャスミンを口説いていた男と同じ形の上着を着ていた。
ちなみに、テルは彼らの役職がどんなものか全くわかっていない。
彼らが着いてすぐに診察してもらった。ニコルはずっと脳の内出血を危惧していたようだが、その心配は無いとのことだ。ただし、数日間は安静にしておくように、と医者とニコルに釘を刺される。
『戦闘員』以外の客人は皆、ニコルに促されて椅子に座り、お茶を貰った。
「それにしても、まさかレオさんまでいらっしゃるとは思ってもいませんでした」と、ニコルが言う。
レオは『頭領』の名前らしい。彼は燃え盛るような赤い髪を持つ壮年の男だ。
「それがなあ。たまたま、ニコルからの手紙がダグに渡るとき、別件で俺も一緒にいてさ。『スワロウテイルズ』が一般人を攫うなんてにわかには信じられなくてな。直接話を聞きに来たという訳だ」
「騙されるな、ニコル」ダグと呼ばれた『幹部』はレオを薄目で見た。「書類仕事をサボりに来たんだよ、この人は。そこの坊主から話を聞いて、副頭領が戻られるまでにさっさと兄貴を連れ戻されねえと」
「ダグ、そう神経質になるなよ。なんだって、俺に親の仇でも見てるような視線を送るんだ」
レオは肩をすくめた後、テルに体を向けた。
「俺は『ライオンズファミリー』の『頭領』、レオだ。君のことは何と呼べばいい?」
「テルだ」
「テル?」レオは眉をひそめた。
「テル」黒髪の彼は頷く。
「テル……」『頭領』は思案に耽った。
「壊れましたか兄貴」ダグの視線が更に冷めた。
しかし、赤髪の彼はすぐに顔をあげて弁明した。
「なんでもないさ。俺がおかしいのはいつもの事だろう?」
そして再びテルと向き合う。
「中央街で何があったのかはニコルの手紙で教わった。『スワロウテイルズファミリー』が商店街にいた少年少女に暴行を加え、少女を連れ去った、とな。実はな、あのファミリーがまさかそんな事件を起こすなんて、よほどじゃなけりゃ考えられないんだよ。テル、どうしてそんなことになったかわかるか?」
テルに心当たりはあった。ジャスミンを連れ去った男達の中に、彼女を口説こうとしていた男もいたのだ。もし彼がその『スワロウテイルズファミリー』なのだとしたら、邪魔した逆恨みに奇襲し、愛する彼女を誘拐したのだろう。
しかし、そのようなことを実に簡潔に語っても、レオは納得しなかった。彼は少々考えた後、柔らかい表情でテルを見た。そこに探るような色があったことに、テルだけは気付けなかった。
「君の捜している、誘拐された少女の特徴を教えてくれないか」
レオからの質問に、少年は簡単に答えた。「背はおれより少し小さくて、とても細い。その時着ていた服は白いワンピース。肩に安い鞄をかけていたな。髪の色は青紫。暗闇に入るとほぼ青色になるんだ。そして、超可愛い」
ニコルはふっと微笑んだ。「大好きなんですね」
「ああ、おれの大切な宝物だ」
「目の色は?」きょとんとしたテルに、レオはもう一度尋ねた。「目の色さ。青紫色に髪を染めた女性はたくさんいそうだから、せめてな」
「目の色は──黄金色」
すると、聞いた人は皆息を呑んだ。否、レオだけは違った。彼は目を薄めて、何か確信を得たような表情になる。
「君、まだ十六から十八歳ぐらいだよな」レオの目が前より鋭く光り、無意識かテルを睨みつけるようになった。「親は?」
「いるよ。一人」
「一人?」ダグが反応した。「父と母の二人じゃなくて?」
テルは首を横に振る。「いいや、母さんはいない。父さんだけだ」すると彼は眉間に皺を寄せ、首を傾げる。「父さんとも少し違うなあ。父さんもいないって聞いてるし」
「どういうことです?」ニコルが聞いた。
「育ててくれた人なんだ。おれにとってはあの人だけがおれの親さ」
レオの雰囲気が更に重くなった。その様子を見て初めてテルは警戒心を持つようになる。もし彼がジャスミンを連れ去った奴らの仲間だったら──なんてことは考えていない。ただ相手がまるで戦う前のように緊張気味なので、釣られるように警戒しただけだ。
しかしニコルはレオを見て、何故そこまで緊張しているのか、まさか、と不安になっていったらしい。体が強ばっている。
『戦闘員』や医者に関しては会話に入ってこようとしない。聞いている様子ではあるが、話してはいけないかのようにただ立って──医者は座って──いるだけだ。
「名前を聞いても?」重々しい雰囲気の中、レオが口を開いた。
「サミュエルだ」
警戒心は彼の所作に向いていた。そうでなくては、こうやすやすと答えるはずもない。
するとレオは、脱力し背もたれに寄りかかった。やや上を見た状態で額に片手をあてて大きく深呼吸をし、自分の前髪をかきあげた。目尻に涙が浮かぶと、髪をかきあげた手で両目を隠し、震える息でまた深呼吸する。
感動しているとも言える様子のレオを、テルを含めた他の人は疑問に満ちた目で眺めている。
取り敢えず自身の心配が杞憂になった、とニコルは胸を撫で下ろした。
「ニコル」そんな状態のまま、『頭領』はニコルに語りかけた。「地図を用意してくれるか」
ぼさぼさ頭の少年は言われるがままに地図を探しに行った。普段使わないからか、見つけ出すのに時間がかかっている。立派な棚の引き出しをいくつも開けてはその中を乱雑に探り、一番下の引き出しの中からようやく目当てのものを探し出した。
地図を受け取ったレオは、それをベッド横のナイトテーブルに広げた。
「テル、お前の住処はどこだ?
「わからねえ。おれ、勉強嫌いなんだよ。ジャスミンならわかったと思うんだけど」
あっけらかんと言った後、地図をちらりと見てから彼は閃いた。
「けど、住んでる島くらいは指でさせるよ。これだけは覚えとけって一番上の兄さんにいわれたんだけどさ。毎日忘れるもんだから、ハリーのやつ──一番上の兄さんのことなんだが──怒って覚えるまで夕飯抜きにしたんだ。流石に死に物狂いで覚えたよ」
他の人は呆れてものも言えなかった。
レオも少しの間だけ呆気に取られたが、すぐに立て直した。
「じゃあ、この地図に指をさしてくれないか?」
「そうしようと思ったんだけど、やっぱり出来ねえや」
「なぜ?」レオは眉をひそめた。
「ないんだ。その地図には。あえて指すのなら、ここ」
そう言って、テルは海の上に指を置いた。
「その隣の島では?」地図を覗き込んだニコルが言った。「あなたの指の先のすぐ右隣に島があります。そこは赤大陸の西端の島なんですよ」
しかし、彼は
「ですが、もし本当にそこに島があったとしたら、地図の作成者が気付かない筈がないです。島と島の間に大した距離もありませんし」と、ニコルは納得していないようだ。
「行ってみればわかるだろう」レオはテルを見つめた。「お前、鍵は持っているか? まさか、そこから中央街まで船で来たとは言わないよな?」
「持ってる」
テルは畳んでおいた自分のズボンを広げると、ポケットに手を突っ込んだ。しかし、それらしい感触がない。眉をひそめ、もう片方のポケットも確認したが、やはりない。
自分の周囲を見渡すが、目当ての鍵は見つからない。
「着替えた時に落とした可能性はありませんか?」
「落としたら音がするだろ」焦った様子で、テルは頭をかいた。「嘘だろ、これじゃあ帰れない」
鍵は絶対に無くすなよ、とサミュエルからきつく言われていた。それは、孤島行きの船はまずないので、鍵を無くせば帰る手段が消えるからだ。
船を借りるには相当なお金が必要で、運良く借りれたとしても、そこへ辿り着くまでの航路は、近付くにつれて荒れっぱなしだと言う。渦潮もいくつかあるから、船で近付くのは危ない。
何としてでも見付けなければ、この先中央街へ行くことすら出来なくなる。それは、死を意味していた。彼らの生活は全てが自給自足というわけではないのだ。
「わかった。なら、まずはお前らの住処の隣の島へ行こう」
それに反論したのはダグだ。
「待ってください、レオ兄貴。そこへ船は出せません。確実に海に飲まれます。随分前からその島周辺の海は何かに怒っているんですよ。島征服を狙った玄武部族の船がいくつ海の藻屑になったか、あなたもご存知でしょう」
「俺が鍵を持ってる。玄武に知られたくなくて隠し持っていた。そこは朱雀部族にとっては神聖な島なんだ」
まだ動揺しているテルに、レオは微笑みかけた。
「大丈夫だよ。着いたら、鍵が見つかるまでお前の家族を皆保護しよう。まずは、お前のジャスミンが拐われたことを保護者に報告しに行く。鍵は、その後俺の部下に探しに行かせるから」
「僕も、家の中をよく探してみます」
ニコルはベッドの横にしゃがんだ。
「なかったら、皆さんが行っている間、あの商店街に向かってみます」
情けない顔になっているだろう。テルは、深く頭を下げた。
「ありがとう」
孤島に行くにはまず対の扉に行かなくてはいけない。出来るだけ安静に、と言われていたテルだが、痛みがないことを理由にさっさとニコルの家を出てしまった。
外に一歩足を踏み出して、眼下に広がる風景に思わず息を飲んだ。
間近に烏が飛んで来るほどの高さのある場所から、街並みを見下ろしていた。その風景は、テルの中の常識と全く違ってる。
まず緑がない。砂埃ばかりが舞っている上、家が密集しすぎている。人々はそんな家と家の細い間を縫うように行き交っていた。
色彩で訴えられるものはなかったが、その広大さには胸の奥がすっとした。息を深く吸い込めば砂の味がしそうなのでやめておいたが、もう少し空気が澄んでいれば、さぞかし気持ちのいい眺めだったのだろう。
遠くに塀が見えた。それは街をぐるりと囲み、近付けばその高さに圧倒されるだろう。
「こういう街は初めて見るか?」
いつの間にかレオが隣に立っていた。
「味気ないな」テルは呟いた後、自分の周囲を見渡した。「ここ、何だ?」
「商人市場の裏側さ」
赤髪の彼は緩んだ表情で街を眺めている。
「商人が住み込みで働ける場所さ。普通はなかなか売られないようなものもここにあるから、遠くてもわざわざ足を運ぶ人も多い。商人の住む部屋の扉は裏──精密に言えば横だ──に続いてるんだ。商人市場は高台に建ってる上、ニコルの部屋は最上階にあるから、絶景だろう」
「絶景と言うより、とにかく暑いな」
これとは比べ物にならない絶景をテルは知っている。
あの孤島の一番高いところから見る朝日は、朝が苦手なテルでも必死に起きるほど美しい。新年の明け方は必ず早起きし、家族みんなで日が昇るのを見に行っていた。
「今度夕日を見に来るといい。きっと感動する」レオはにっこりした。「さあ、そこの階段を下りて、庭を出て、館に向かうぞ。鍵の対の扉は館にあるんだ」
商人市場という場所から館まではそこまで距離はなかった。
ニコルの部屋側からは見えない位置にあったが、館は市場以上に高い。存在感もさることながら、いかにも強固で、館と呼ぶにはあまりにも緊張感が重かった。
その原因は、図体の大きい警備の顔の恐ろしさだけではない筈だ。
扉はそんな館の広々とした庭の真ん中にあった。
「石碑?」テルが尋ねた。
「墓石だ」哀愁を帯びた声色で、頭領の後ろにいたダグは答えた。「朱雀帝のな」
レオの隣に立っていた彼は思わず振り返った。そしてもう一度石碑を見て、知らず知らずのうちに息を止めていた。
ダグと戦闘員はその場で
「骨は無いんだが、ここが朱雀帝の亡くなった場所だと言われてる」重苦しい口調で、レオが言った。
「庭で死んだのか?」
「逆だ、坊主。朱雀帝の死後に館が建てられた。拝石をごらん。あのお方のお言葉を刻んだんだ」
『頭領』の言葉を聞いて例の文へと視線をうつす。テルがその文字を読めたらどんなに良かったか。特別な文字は読めなくても構わない、とサミュエルに言われ、早々に勉強を諦めたテルには『
レオは首に下げていた鍵を出し、その拝石にある鍵穴に差し込んだ。そして拝石が赤く光るのを確認してから、鍵を抜いた。
「こいつがもつのは三十秒だ。行くぞ」
『頭領』の言葉を皮切りに、ダグ、『戦闘員』、テル、レオの順番で光りへ飛び込んで行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます