壱
「テル」
体が揺れる。だが、瞼が重い。少し浮上した意識が、また奥へと沈みかける。それがまた気持ちいいの何の……。
すると、再び体が大きく揺れた。二、三度、肩に重い衝撃を受ける。終いには髪の毛が強く引っ張られ、頭が持ち上がったところで目も覚めた。
「いてえよ! もう起きたって」自分の髪を掴む手をはらい、テルはベッドに座り直した。「この暴力女、他にやり方があるだろ」
ベッド脇に立っているのは、黄金の瞳が特徴的な妙齢の乙女。彼女は華奢な腰に手を当てて、鼻を鳴らした。
「おはようテル。呼んでも起きないのが悪いの。今日の朝の当番はテルでしょ」
「そうだった!」彼はベッドから降り、急いで着替え始める。「もう時間過ぎてるし。なんでもっと早く起こしてくれなかったんだよ!」
「もっと早く起こしに来ていましたあ。呼んでも起きないから、とっくにトムが羊小屋に行っちゃったんだよ」
「嘘」
「本当」彼女は扉を開け、振り返った。「朝食が出来たから、せめてサミュエルのお手伝いくらいはしようね」
そう言い残し、部屋を後にするジャスミン。
「今日のジャスミン、なんだか冷たい……」
脱ぎかけのズボンを足にかけた状態で、テルは項垂れた。
ふと投げた視線の先に、姿鏡がある。鏡の中には、引き締まった筋肉質な体の少年が映っている。真っ黒な髪に黒い目。この家の中では最も平凡な顔立ちだ。
テルはそんなことは気にしない。そこよりも、成長が止まってしまった身長の方を気にしてしまう。
ジャスミンよりは高いからチビとは言われないが、サミュエルより高くなりたかった。
それに本当は、ジャスミンより頭一つ分高くなってから、今日を迎えたかった。
スイッチを切り替えてすっくと立ち上がる。扉を開けたところで、自分の姿を思い出した。
慌てて閉めようとしたその刹那、青髪の美しい人が目の前にやって来た。
「げ、サミュエル」
「おはよう……テル、せめて下くらいは着なさい」
「おれも今気付いたの!」
羞恥心で真っ赤になりながら、やっと扉を閉め、急いで着替えた。彼が着たのは、質素な白いシャツにくすんだ緑色のズボン、そして履きなれたややぼろぼろのスニーカーだ。
今日はなんとなく流れが悪い。
一階についた頃には、既に準備は終わって、他三人もテーブルについていた。
今日の朝食は少し豪華だ。牛乳に浸したポリッジや目玉焼きやトマトはいつもあるが、そこにベーコンがついている。採れたてのキャベツを切って調味料をざっくりかけたものも添えられていた。
「おはよう、テル」金髪の青年トムが振り返った。「今日はお寝坊さんだったね」
「たまたまだよ」テルも席に座り、ばつが悪そうに顔をそらした。「みんな、おはよう」
他三人は顔を見合わせてくすくす笑った。
食べる時は、四人とも静かだ。何せサミュエルがそうしつけてきたから、静かに食事に集中するのは至極当然のことであり、これが日常。
そして、サミュエルに関しては食べる時にいつも手を合わせる。他のみんなに強制することは無いが、テルが物心ついた頃には既に彼にはその行為が習慣づいていた。だから、今更疑問に思うこともない。
喋り始まるのは、皿を洗い始めた頃だ。
「じゃああたし、この後に畑を見てくるね」
その発言に、男三人が固まった。不審な彼らに、ジャスミンは怪訝な表情になる。
「どうしたの?」
「あのさ、ジャズ」
サミュエルが皿を洗いながら話しかけた。ジャズはジャスミンの愛称だ。
「悪いけど、今日は中央街へ行ってくれるかい? テルと一緒に」
「中央街に? もう調味料も切らしてたっけ」
それに答えたのはトムだ。
「ジャスミン、もしかしなくても忘れてるみたいだから教えるけど、今日はきみの誕生日だよ。だから、今日の仕事は俺らに任せて、中央街へ遊びに行っておいで」
「そんな、悪いよ。昨日の大雨で大変なことになってるときに。また今度お祝いして」
「昨年も同じことを言って、結局流れちゃっただろう?」
サミュエルが優しくジャスミンの頭を撫でた。
「心配しないで、ゆっくり楽しんでおいで。この間完成した絹を持って行くといいよ。あれはきっと高く売れるからね」
「でも……」
サミュエルの織る布は確かに高く売れる。糸から手間暇かけて制作しているのだ。凶作の際は溜め込んだ織り物などを中央街で売ってやりくりする。
そのため、一枚一枚が非常に貴重なものとなる。
「ジャスミンは相当な心配性だな。サム──サミュエルの愛称──が大丈夫だと言ってるんだから、素直に受け取ればいいのに」
「テルはもう少し家のことを考えれば?」
ジャスミンはむっとして言い返した。
最近、この二人の口喧嘩が目立つ。元凶は殆どテルではあるが、ジャスミンは前はいつも彼に寛大だった。今、彼女が厳しい役目を担ってくれるから、他二人は優しくしていられるのだが。
「わかったよ、ごめん」
テルが肩を落とした。どうにも口を開きずらい空気が流れる。
「じゃあ、そうと決まれば早速行ってこようかな」彼女はエプロンを外した。「テルは荷物持ちね」
テルはあからさまに嫌そうな顔をした。そんな彼を見て得意げな顔をしたジャスミンは、準備をしてくるから、と自室へ戻る。暫くしてから戻ってきて、二人は家を出ようとした。
そんな彼らに、美しき青髪の男は最後の注意をした。
「『鍵』、なくさないように」
「俺が持ってる!」テルは自信満々に答えた。
テルが鍵を掲げるのを確認して、ジャスミンは二人へ手を振った。「行ってきます」
何だかんだで仲のいい二人の背を、トムは微笑ましげに見送った。近頃は喧嘩が目立つが、本来の二人は見てる方が恥ずかしくなるほど仲が良い。前までは、最もテルに甘い子だった。
しかし、サミュエルは顔に憂いを帯びた苦笑を浮かべている。人の機微に敏感なトムはすぐに気付いた。
トムにどうしたのかと尋ねられると、彼は寂しげに微笑み、先日聞いたというテルの夢の話をした。
「幼い頃に朱雀帝の話をし過ぎたんだよ、サム。これでハリーに続いて二人目? 年を重ねるにつれて寂しくなるなあ」
サミュエルは首を横に振った。「テルはジャスミンを連れていく気だよ。今日、その告白をするつもりだと聞いてる」
「でも、ジャスミンはサミュエルのもとを離れようとはしないだろう」
「あの子は責任感が強いからね。しかし、きっと心の底ではテルのそばにいたい筈だ」
彼は義理の息子に体を向ける。「お前も行きたいんじゃないのか?」
「まさか」トムはかぶりを振った。「俺は争いごとが嫌いだよ。それに、サムのそばを離れたくない」
「遺跡を周りたいと話していたのは誰かな? ここにある古書は全部読み切ってしまったんだろう。もっと歴史を知りたければ、島を出るしかない。それでもお前は行かないのかい?」
彼は言葉を詰まらせる。ようやく出てきたものも、説得力のない弱い台詞だった。
「畑や、家畜のことだってあるし……」
「お前たちは優しいから」
俯いてしまった金色の頭に手を置いた。
「何も気にしなくていい。急かしているつもりもないが、今言わなければきっとお前は死ぬまでここにいるだろう、トミー坊や。それはいけないよ。自分の興味、好奇心を殺すことは、根性無しのすることだ。お前をそんな男に育てたつもりはないよ」
「……まだ覚悟が決まらない。今日は、せめて今日は、ジャスミンの誕生日に集中させてくれ。畑の修復作業もしなきゃいけない」
年長者は、トムの頭に置いた手で彼の髪をかき乱した。
「ゆっくり考えなさい」
島は中央街から船で二十日以上はかかる距離にある。そんな場所へひとっ飛びで着くには、『鍵』が必要だ。
鍵には摩訶不思議な力がある。とは言えそれでやれることは一つだけだ。
特定の扉に対の鍵を差し込み開けると、別の対の扉に行ける。よって、不思議な鍵と合う扉は二つだけだ。大抵、その二つの扉は互いに遠い場所に設置される。
しかも、その扉が必ずしも人々の知る扉の形をしている訳では無い。鍵穴があれば何でもいいのだ。
テルが使う鍵は、孤島から中央街のある一角へ飛べるものだった。孤島にある扉は家の中にある簡素なもの──そして扉の形をしている──だが、中央街の扉は、地面だった。
この鍵を作った人は、地面に鍵穴を作ったのだ。普段はそこに砂を被せ、使う時になったら邪魔は全て払い除ける。
隠れた鍵穴にたどり着くヒントは、言葉だ。鍵にある言葉をかけると、なんと鍵が案内してくれるようになっている。
実際、鍵に案内しようとするつもりはない。勝手に鍵穴へ向かって勝手に『扉』を開けようとするだけだ。
この鍵で、二人は中央街へ向かった。
『扉』から十分ほど歩いた先に、セウ商店街がある。
この商店街は夏になると、店がカラフルな色合いになって、そこら中で音楽が響く、とても楽しい祭りが行われる。
今は残念ながら秋だが、祭りは二人共何度か来たことがあるので、大して重要な問題でもない。
二人の格好はほかと比べれば、たいへん質素なものだった。テルに関しては鞄すら持っていない。お財布はズボンのポケットに入れているため、必要ないのだという。
ジャスミンは鞄の肩紐を斜めにかけていた。その鞄の中には、サミュエルが丹精込めて作った絹と財布が入っている。
活気づいた通りを歩いていると、テルはとある店に注目した。他と比べたらそこまで人気はないそうだが、彼はあの店に並ぶとあるものが欲しくなった。
ジャスミンには目立つ店の前で待っていてもらい、駆け足で目的の店へ向かった。
待っている間、ジャスミンは暇という訳でもなかった。何せ、普段はあの孤島で畑や家畜の世話ばかりしているのだ。こういった人の多い場所は慣れていないが、楽しそうな店にはあっちこっちに目が行く。
今すぐ見て回りに行きたい、と足がうずいた。
そわそわしていると、テルが向かった先とは別の方向からジャスミンと同じくらいの年の青年がやって来た。
彼は、ジャスミンが見たこともない、白く光沢のある上着を羽織っていた。よく見れば、その上着の袖口や襟、裾に黒いラインが入っている。
「きみの瞳、とても綺麗だね」
突然のことだったので、ジャスミンは自分のことだと気付かなかった。しかし、次の言葉で自分が話しかけられているのだと自覚する。
「アンバーではないね……、黄金色? 初めて見るよ。なんて美しいんだ」
彼女はどういった反応をしたらいいか困り──そして恥ずかしくなって、俯いてしまった。すると、青年は大げさに手を上げた。
「気を悪くしないでくれ! おれはただ、きみの虜になってしまっただけなんだ!」
ジャスミンは顔を上げ、肩をすくめた。
「ええと、それは悪くないんだ。でも、あなたってとても目立つの。そう、さっきから道行く人という人が、あなたを見て何故か驚いた顔をするんだよ」
「それはおれが、ある特別な『ファミリー』の一人だからだね。きみだってわかるだろう? おれのこの『スカジャン』を見ればさ」
そう言って彼は、ジャスミンに見せつけるように上着をしっかり着直した。
「それ、スカジャンって言うの?」
青年は目を丸くした。「きみってもしかしてこの服の意味を知らない? ああ、更にきみに興味が湧いたよ。よければ、名前を教えてくれるかな?」
ジャスミンは、反射的に、本当の名を告げてしまうところだった。見知らぬ人から名を聞かれたら嘘をつきなさい、とサミュエルからきつく言われているというのに。
「ジャック」
一文字目は本名と同じにすると間違えそうになった時に都合がいい、ともサミュエルからは教わっていた。
「ジャックだよ。でも、名前を聞いたってこれから何か始まる訳でもないし、あなたはどうする気なの?」
「素敵な名前だね。それは、まあ、記念だよ。きみと出会えた記念」
彼の言っていることは支離滅裂だ。ジャスミンの中の何かが、彼から離れろと警告してくる。
「それよりどうかな、これから一杯飲みにでも行かない? いい店を知っているんだ」
「ごめんなさい。あたし、人を待っているの。少し戻ってくるのが遅いから、そろそろ迎えに行こうと思っていたんだ。じゃあ、たぶんもう会うことは無いけど、お元気で」
そこから一刻も早く立ち去るべきだった。
しかし、彼がジャスミンの腕を強く掴んだ。その力は、とても女性に使ってはいけない強さだった。きっと不気味な痣が残ってしまうだろう。
ジャスミンは振りほどこうと本気で抵抗をし始めた。だが、華奢な彼女が男に太刀打ち出来るはずもない。
むしろ暴れようとするほど拘束が強まり、両手首を後ろで一つに掴まれてしまった。周りの人は視線を反らすだけで、声をかけてもくれない。
そして、彼と目があった瞬間、相手の目が白く光った気がした──気がしただけで、何も起こらない。
「効かない……やはり“あなた”は」
彼は呟いてすぐ、崩れた。醜く呻きながら地面に這いつくばっている。
ジャスミンを助けたのは、テルだった。
足首を回しているため、きっと一発きつい蹴りをお見舞いしたのだろう。さっきと変わったのは、手に小さな紙袋を持っているところだけ。それを除けばいつものテルだ。
光を背に、逞しく笑顔を見せる男。それがテル。その事実が、ジャスミンを心底ほっとさせた。
「遅くなって悪かったな。店主がなかなかやり手でさ。値引きをさせるのに時間がかかったよ」
「遅い!」ジャスミンは涙目で彼を責めた。
そして、起き上がれない男を無視して、二人で腕を組んで歩き始めた。
「怖い思いをさせたよな、ごめん」
このときはやけに素直にテルは謝った。酷く怯えた様子の彼女に同情したのかもしれない。
「もう帰ろうか」
ジャスミンは何度も頷いた。「なんだか肌もぴりぴりするの。ここって、あたしたちの島より乾燥してるでしょう」
「そうか? おれはよくわからないなあ」
「鈍感! とにかく、さっさと家に帰りたい」
さっきよりも強く自分にしがみついてくるジャスミンを見ると、テルの心の中で、愛おしさとあの男への苛立ちが複雑に絡み合った。
商店街を抜け、人気の少ないところまで歩いてくると、テルは立ち止まった。鍵のヒントを使わなくても二人は鍵穴まで辿り着けるが、そこはまだ鍵穴のある場所ではない。
「どうしたの、テル」
ジャスミンは、不安に濡れた瞳で隣の青少年を見上げた。
「実はおれ、明日か、明後日あたりに島を出ようと思ってるんだ」
息を呑む音を確認すると、テルは彼女と向き直った。
「おれ、夢があるんだ。叶えるためには、世界に出なきゃいけない」
「ハリーも同じことを言って出ていった……」
彼女の声にはどこかテルを責めるような響きがあった。
「あそこを出たら、もう連絡手段はないの。もしかしたら、二度と会えなくなるかもしれないんだよ。サムとも、トムとも……あたしとも」
「いや、その」
テルは暫く口ごもった後、自分の左頬を平手で叩き、はっきりとした目つきで口を動かした。
「ジャスミンにもついてきて欲しいんだ!」
ジャスミンは驚きのあまりたくさん息を吸い込み、止めてしまった。
頭の中が彼の言葉を咀嚼し始めると、みるみるうちに彼女の頬が染まっていき、その熱さを抑えるように頬に手を当て、俯いた。
「突然でごめん。でも、おれのなかで言える勇気が芽生えるのは、きっと今日しかなかったんだ。トムには話していないけど、サミュエルはもうこのこと知ってる。応援してくれた。たぶん、楽じゃない毎日になるとは思うけど、それでもおれ、ジャスミンにそばにいて欲しいんだ」
彼女はついに耐えきれなくなり、両手で顔を隠した。隠したかったものは、真っ赤な顔はもちろん、それだけではない。
テルはそっとジャスミンの頬へ伸ばした手を、彼女の手に重ねた。
「好きなんだ」
彼女の手が、ゆっくり顔から離れた。未だ元に戻らない──テルと全く同じ色で染まったままの顔を上げて、意志のこもった瞳でテルを見つめた。
が、その瞬間、彼女は目を大きく開き、悲鳴を上げた。
何か、とテルは振り返ろうとしたが、その途中で後頭部に強い衝撃を受け、ほぼ無意識に倒れた。頭の奥がぐらぐらして、立ち上がろうにも体が言うことを聞かない。
ジャスミンの声が聞こえる。家に蜂が入ってきた時よりも、熊が出てきた時よりも、遥かに悲痛に自分を呼ぶ声。応えたい。応えなきゃいけない。
必死に目を動かして、彼女の姿を捉える。白い光沢のある上着を着た何人かの男達が、ジャスミンを連れ去ろうとしていた。彼女が暴れれば暴れるほど、押さえつけようとする男の手が増える。
このときのテルはもう、人数を数えられないくらい朦朧としていた。
──駄目だ。触るな。連れていくな。動けよ体。あの子を守るんだ。守らせてくれ。誓ったんだ。震えるあの子に守られた時。今度はおれが守るって。おれがきっと守るって。約束したんだ。約束したのに、なんで──
どんどん遠くなっていく彼女の影を捕まえようと、手を伸ばす。
しかし、その手が届くこともないまま、彼の意識は深い闇に落ちていった。
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