第2話 書護担当者との交渉
「……」
女性が顔を上げると、そこには一人の青年が無表情で立っていた。慌てて女性は立ち上がり腰を折って謝った。
「す、すみません! 扉が開いていたので、つい……っ!」
返事の代わりに、紙をめくる音。顔を上げ、青年の方を見る。彼は何を思ったのか、綺麗な深海色をベースに黄金色の糸で縁取られた装丁の本のページをめくっている。
「……ふむ、一般人と遭遇した場合に関しての頁は……、ここか。該当一般人の記憶を消去後、現実世界相談課へ報告のこと、と。……これはなかなか面倒な手続きが必要になってきそうだな」
青年は、端正な眉をしかめる。パリッとしたスーツは、きっと毎日手入れをしている証拠なのだろう。彼女もスーツで仕事場に出勤しているが、スカートにすぐたくさんのシワが生み出されるのを放置して、数日同じものを着る。スーツに見惚れる女性に青年は冷たい視線を送る。そして同じくらい冷ややかな態度で言った。
「この図書館での業務のことを、一般人が知ることは禁止されている。よって、ただちに禁止事項が含まれる記憶の消去を行う。言い残すことはないか」
まるで辞世の句でも読めというように青年が言う。女性は言った。
「どうせ記憶を消すつもりなら、その本を少し貸して欲しいの」
女性が指差したのは、青年が先ほど見ていた本だった。女性としては、こんな少し怖くて、興味深い出来事のことを忘れるなんて、考えられないことだった。記憶を消さずに済む方法をなんとか見つけ出したい。そう考えた彼女が目をつけたのが、あの本だった。青年が持つマニュアルのようなその本なら、記憶を消さずに済むヒントがあるかもしれない。女性の必死な頼み込みに、青年は少し躊躇うそぶりを見せたが、どうせ記憶は消すのだからと渋々本を渡してくれた。女性は礼を言い、素早く中身を読む。
本の表紙には、書護マニュアルという文字が添えられている。ページをめくっていくと、書護という役職は、図書館の司書が退勤してから翌日司書が出勤して来るまでの間、本を護る仕事らしかった。一般人と遭遇した場合や、本を落ち着かせる方法などが載っている。
何か役に立ちそうなページはないかと目次を眺める女性の目がとまる。
それは書護の仕事が一人では難しいと感じ始めたら、というページだった。そこには、書護の仕事が一人で厳しくなった場合は、自分で選んだ一般人を、助手として書護の仕事を手伝わせて良いと書かれていた。その手順のページにざっと目を通した女性は、ポンと手を打ち、不機嫌な表情の青年の目を覗き込むように見て言い放つ。
「言い残したいことが一つあるよ、書護さん。……私を、あなたの助手にして下さい」
「……よくもこの状況でズケズケと……」
青年はすっかり呆れ返った様子で女性を見る。しかし先ほどまでのような警戒した、刺すような視線ではなくなっていた。女性は畳み掛けるように言った。
「この本を読む限り、一般人を助手にしてもよいという記載があります」
「仮にマニュアル本に載っていたとして、一般人を雇って俺になんのメリットがある? 足を引っ張るだけだろう?」
青年の言葉に、女性は言う。
「第一に、実際図書館を利用している人間である為、改善点などが見つかりやすいと言うことが挙げられます。」
青年は無言で鼻を鳴らす。物足りないらしい。
「第二に、無駄な残業を減らせます」
その言葉に、青年が少し体を乗り出す様子が見受けられた。
「一般人に業務の様子を見られてしまった場合は、報告と対処に多大なる労力と時間がかかり、定時出社定時退社が当分できなくなります。その点、私を助手にして下さったら、用意すべきは契約書一枚のみ。また、今後の私の働きによっては、定時出社定時退社は当たり前、1時間休憩時間が取れるかもしれません。どうですか、魅力的でしょう」
青年はしばらく黙っていた。しかし、
「……ふむ、悪くはない条件だな。いいだろう、契約してやる」
軽い口調で言い、どこからか取り出した一枚の羊皮紙を手渡す。契約書、と子どもの落書きのような文字で書かれたその用紙の、用紙だけではない重みが、彼女に重くのしかかってきていた。
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