3.嫌悪の記憶と青年の覚醒

 子どもの頃から、猫が嫌いだった。

 特に、黒猫は大嫌いだった。




 

「今、なんて言ったの?」


 目の前で、僕と同じ顔の弟が震えていた。違うのは髪の色だけ。僕と同じ紫水晶アメジストの目は揺れていて、まるで追い詰められた仔猫みたい。


 これは過去の出来事だ。もう終わったことだ。

 それなのに夢の中でも、なぜ僕はこんなにも鮮明に覚えているのだろう。


「聞こえなかったの?」


 あの時と同じように、僕は弟を睨みつける。

 そして、ひどい言葉を突きつけるんだ。


「出て行け、と言ったんだ」


 悪意のある言葉は弟の心に刺さったみたいだった。


 みるみるうちに涙がたまっていく目を潤ませて、僕を見る。


「そんな、どうして!? ノア兄さん、オレ何か悪いことした?」

「…………別に? おまえは何もしてないよ、ノイシュ」

「なら、なんでそんなこと言うの……?」


 いてもたってもいられなくなったのか、弟は僕に縋り付いてきた。

 触れられるだけで不快だった。乱暴にノイシュの手を振り払うと、僕は思いっきり突き飛ばした。


 反動で尻餅をついた弟は、目から涙をあふれさせる。


「おまえのことが大嫌いだからだよ」


 きっとこの時の僕の顔は、ひどく醜い顔をしていたに違いない。

 けれど、もう抑えきれなかった。僕の人生を狂わせたのは、他でもないこの末弟なのだから。


「おまえがいなければ、僕は父上に認められていた。おまえが生まれる前からそれだけの実績を残してきたんだよ。それをおまえにぶち壊され、挙げ句の果てに僕達はスラムに捨てられたんだ」


 そのせいで大切な妹は光を失って、今も闇の世界にいる。


 守りきれなかったのは、僕にも負い目がある。それでも。


「僕にとって身内は大事な存在だけど、おまえだけは別だ。おまえなんか嫌いだ。一緒に住んでいるだけで不快なんだよ」


 向けるのは、憎しみや怒りだけ。

 たとえ百歳以上離れた実の弟だとしても、僕はノイシュだけは好きになれない。心の底から憎くてたまらない。


 泣きじゃくる弟を見下ろし、僕は無慈悲にトドメの言葉を放った。


「この城から出て行け、ノイシュ。僕の目の届かないところへ行って、そのまま消えてしまえ」





 * * *

 



 

 外から鳥のさえずる声が聞こえる。


 寝起きは最悪だった。昨日よりも頭が重い。


「いつのまにか寝てたのか、僕は」


 ベッドに突っ伏すように寝ていたらしい。顔上げると、昨日拾った彼が寝ていた。目を開ける様子はなく、固く閉じられたままだ。


 立ち上がって、彼の口元に手を近づけて呼吸を確かめてみる。

 うん、呼吸に乱れはない。頰に赤みが戻ってきてるし、大丈夫だろう。


「あとは意識が戻れば安心なんだけどな」


 毛布をかけ直してあげながら、僕は青年の顔を観察してみた。


 青銀の髪はまっすぐでクセがない。肌の色は男にしては白い。屋外に出ず、屋敷にずっと引きこもっていたんだろうか。


 魔族ジェマに変えられたばかりみたいだけど、彼の年はいくつなんだろう。

 外見年齢からすれば十代後半くらいで、僕とあんまり変わらない。けれど、万が一彼が人間族フェルヴァー獣人族ナーウェアだったのなら、確実に年下だ。


「ま、年なんて関係ないよね」


 そうだ。僕は彼を見たとたん、助けたいと思って拾ったのだから。


「大丈夫。きみが何者でも、僕が守ってあげるからさ」


 眠っている彼の耳に届くはずがないのに、僕は笑いかけた。

 その時だった。青年の瞼が震えたのは。


「……あ」


 ゆっくりと開かれた瞳はアイスブルー。天井をしばらくさまよった後、僕のほうに向けた。

 ひとつ瞬いた後、彼は口を開く。


「誰だ……?」


 掠れた声だった。

 無理もない。丸一日眠っていたわけなんだし。


「僕はノア。きみはメインストリートで倒れていたんだよ」


 にっこりと笑えば、彼の瞳は揺れた。戸惑っているのか、もしくは困惑しているのかどちらだろう。


「ここは……?」

「僕の寝ぐら。こわい人は入ってこれないようにしてあるから大丈夫だよ。まだ起き上がるのは無理だろうし、ゆっくり休んでて」


 部屋を温めるためにあらかじめ焚いていた暖炉の火が、パチパチと音を立てる。


 青年は瞳を天井に向けると、目を閉じた。


「なぜ、助けた?」

「助けたいと思ったから、じゃダメ?」

「……駄目、ではないが」


 言葉を詰まったのか、眉間に皺を寄せて彼は納得していない顔をしていた。


 まあ、この反応はあらかじめ予測はしていた。ここは帝国のスラム街で、損得もなしで他人を助けようとするひとなんていないんだし。


「あのままにしておいたら、絶対に死んでしまうと思ったんだ。だから、助けなきゃって思った。それだけ」

「そうか……」


 ぽつりと言ってから、彼は黙ったままだった。そのまま寝てしまうのかと思ったけど、眠る気はなかったみたいでゆっくりとアイスブルーの目が開く。


 せっかくだから、起きているうちにたくさん話しておこう。


「ねえ」

「何だ」

「きみの名前は?」


 青年の目が僕の方へと向く。


「ノクトゥス。……皆は、ノクトと呼ぶ」

「そっか、分かった。よろしく、ノクト」






 その日の午後に、ルーエルが訪ねて来た。


「ノア兄ちゃん、吸血鬼ヴァンパイアの人の調子はどう?」


 ボロボロの服という出で立ちは、いつもと変わらない。ひとまず外は危険だから、室内に招き入れてあげた。


 椅子に座らせて、紅茶を淹れてあげた。木製の古い椅子だから、体重をかけるたびにギシギシと音が鳴るけど、ルーエルは気にしてないみたいだ。細い指先でカップを持ち上げて、慎重に飲んでいる。

 その彼の隣に腰掛けると、やっぱり僕の椅子も悲鳴をあげた。


「実は、朝に起きて少し話せたんだ。今は眠っているけど」

「そっか。意識が戻ったなら、とりあえず安心だね」

「うん。そうなんだけど……」


 言葉を詰まらせていると、ルーエルはカップをテーブルの上に置いた。


「何か問題でも起こったの?」

「……朝から、何も食べてくれなくてね」


 昨日は丸一日眠っていたし、拾う前から何も食べられていないとしたら、ノクトは数日食事をしていないことになる。

 ただでさえ弱っているのに、何か食べないと良くなるものも良くならないし、体力だって回復しないだろう。心配だ。


「んー。でも吸血鬼の魔族ジェマに変えられたばかりの人って、最初は水くらいしか飲めないらしいよ」

「そうなんだ。まあ最初はそれでいいとして、その後はどうやって面倒を見てあげたらいいのかな」

「さすがにそこまでは、おれも分かんないなあ」


 そうだよね。僕みたいな素人では、手に負えないのかも。

 やっぱり医者を呼ぶしかないかな。でもスラム街に、医者って住んでいるんだろうか。見たことも聞いたこともない。


「……とりあえずは、医者か」


 ぽつりと口にして、頭の中を切り替える。誰に聞かせるでもない、考えをまとめるために独り言を言うのが僕の癖だ。

 けれど、この時ルーエルの耳はそんな小さな呟きを拾ったみたいだった。


「今、なんて言ったの?」


 何気ない問いかけだった。目の前には紅茶のカップを片手に首を傾げる、金色の髪の子ども。


 似ている要素なんて、セリフ以外にどこにもないのに。

 昨夜の夢で見たノイシュの顔と、見事に重なって見えた。


「……っ!」


 勢いよく椅子から立ち上がり、後ずさる。


 揺れる紫色の瞳。顔を歪めて泣きながらも、僕にすがりついてきた弟。小さな手を振り払って、僕はノイシュを拒絶した。


 絶対的な安全と保護が得られる城から、追い出してしまった。たくさんの言葉の刃で、小さな心を傷つけて。ノイシュは、まだルーエルと同じくらいの子どもだったのに。


 もしかして。


 僕は取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないのか。実の子供達をスラムに棄てたアイツと同じことを、僕はノイシュにしたんじゃないのか。

 そうだとしたら、僕は——。


「ノア兄ちゃん!」


 強く腕を掴まれて、意識が引き戻された。

 いつの間に椅子から下りたのか、ルーエルがそばで心配そうに僕を見上げていた。


「大丈夫? ずっと呼んでるのに返事しないから」

「……うん、大丈夫だよ。僕は大丈夫。平気、だから」


 ひとつ息を吐き出して、笑ってみせる。けど、僕の服をつかむ指を緩められることはなかった。


「全然大丈夫って顔じゃないよ。どうしたの?」

「…………」


 どうしてルーエルは、こういう時は素直に誤魔化されてくれないのだろう。


 言えるわけないじゃないか。この子には僕のきれいな部分しか見せていないのに。


 本当の僕を知ったら、きっと嫌いになるか怖がらせてしまうに違いない。


「言いたくないなら聞かないけど、でも辛そうな顔をただ見てるだけっていうのも嫌なんだ。おれは子どもだし、ノア兄ちゃんみたいに強くないから頼りにならないかもしれないけどさ」


 不意に言葉が途切れたのが不思議になって、逸らしていた目をルーエルに向けた。

 すると彼は満面の笑顔を僕に向けて、続ける。


「でも、話を聞くくらいのことはできるよ。だからなんでも話してよ」


「……ルーエル」


 僕みたいに捻くれたヤツから見れば、彼の笑顔はまぶしかった。


 生きてきた年数も僕より少なくて、身体だって僕よりも小さいのに、時々この子は大人びて見える時がある。


 ルーエルは腕から手を離すと、僕のてのひらをぎゅっと握った。

 とても、あたたかかった。


「おれたちコンビじゃん! もっと頼ってよ、ノア兄ちゃん」

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