ハナイカリ
その日の午後もやはり姉の方が先に帰ってきた。鍵を閉めてブーツを脱ぎながら「ただいまー」と部屋の奥へ呼びかける。返事はない。狐はリビングの絨毯の上で丸くなって眠っている。声に反応して耳がぴくりと動く。まるで蠅を追い払うような仕草だった。まだ眠っている。寝室には綺麗に畳まれたふかふかの布団があり、テーブルの上の花瓶にはハナイカリが挿してある。姉は電気ストーブを点け、コートの左半分だけ脱いだ中途半端な格好のまま花と狐とを何度も見比べた。
「君が取ってきたの?」姉は訊いた。「ねえ、きつねくん?」
やはり返事はない。
姉はよく眠っている狐をしばらく眺めて、それからハナイカリに顔を近づける。「いい匂い」と言う。次に遠目に見て「オダマキかな」と呟く。
姉は着替えを済ませて一度ストーブで指先を温め、本棚からスケッチブックを取り出す。それからデスクの引き出しを開ける。そこにはあらゆる文房具が押し込まれている。八色の蛍光マーカーや三角定規といった高校時代の遺産まである。そして学生になってから揃えた製図用具が新しい地層のようにその上に被さっている。彼女は手前のトレーからシャーペンやボールペンを取り出して机の上に並べ、ようやく底の方から鉛筆を発掘する。それが彼女の探していたもののようだ。緑のトンボ鉛筆で、背中に合格祈願の金色の文字がある。銀行で受験料の振り込みをした時に貰えるやつだ。長さは中くらい、先は丸い。カッターで削った形跡がある。彼女はデスクの上を見回す。それから一番下の深い引き出しを開く。しかしきちんとした鉛筆削りは見つからない。仕方なく古い色鉛筆のセットを開いて、消しゴムと並んで入っている小さな鉛筆削りで削る。削りかすをごみ箱に落とし、先の尖り具合を見る。先は尖っているが、思ったより芯の部分の長さが短い。溜息。カッターとごみ箱、スケッチブック、鉛筆を一緒に持ってストーブの前に戻る。
狐はまだぐっすりと眠っている。呼吸に合わせてあばらが膨らんだり萎んだりする。規則正しい。まるで三角関数のグラフのよう。上へ下へ、上へ下へ、繰り返し絶えることなく、一定の振れ幅を保って呼吸を続けている。姉はその様子を眺めながら床の上にあぐらをかいてカッターの刃を出す。刃が広く、ネジでロックするタイプのオルファの古いカッター。それで鉛筆の波型になった化粧と材の境目を削り、先端の円錐を長細くする。鉛筆の角をアタリにして一周。うん、いい具合だ。ごみ箱を遠ざけてスケッチブックを構える。描き始める前に狐のことをよく観察する。白い毛並み。瞼に生えた長くてまっすぐな洞毛。紙の上に鉛筆の芯を当て、手元と狐を交互に見る。目を伏せ、目を上げる。
「君は本当に綺麗だね」彼女は描きながらほんの小さな声で呟いた。それから「私に会いに来たわけじゃないんだろうね?」と続ける。
狐は返事をしない。あまりに反応がないので聞いているのかどうかさえわからない。
姉は続ける。
「こっちの社会では、狐が姿を変えて人間を詐欺にかけるって噂がまことしやかにささやかれた時代もあったわけだけど、実際、そっちの社会ではどういう認識になってたんだい? 人間の見方は当たってたのかな」
やがて妹が帰ってくる。その時姉のスケッチはほぼ完成していた。妹は絵を覗き込んで「わーお」と歓声を上げる。「どうしたの、急に絵なんか描いて」
「記録用」姉は答えた。「彼が長居するとも限らないからね。あんたも嫌ってるみたいだし、それか、保健所の人が迎えに来たりして」
「写真でいいのに」
「写真に写らないものもあるんだよ」
姉は作業を切り上げて夕食の支度を始める。といっても帰りがけに買ってきたお惣菜なので手の込んだことはしない。
「夕ご飯なに?」と妹。
「ホッケのあんかけとキクラゲのサラダ」
「わあ。今日私の当番じゃなかったっけ?」
「あんたに頼んだらこの子の分買って来なさそうだったから」姉は狐の前にしゃがんで手を叩く。「さあ起きて、ご飯だよ」
狐は目を開く。音にびっくりして飛び上がり、椅子のように脚をまっすぐにして着地する。でも何も危険はない。
姉はプラスチックの皿を出して惣菜のバンバンジーを開け、ドレッシングはかけずに(それではただの湯引きした鶏肉かもしれないが)床に置く。人間の分も皿に出して、ホッケはラップをかけて温め、炊飯器に保温してあったご飯を茶碗につける。
狐は二人が食べ始めるのを待って、サラブレッドのように上品に首を下げて鶏肉を食べる。
妹は箸にごはんを取ったままその様子を怪訝そうに眺めていた。ごはんを口に入れ、ハナイカリに目を移して「この花は?」と訊く。
「オダマキかなあ」と姉。
「お姉ちゃんが摘んできたわけ?」
「ううん。お母さんが来てくれたのかな」
どうやら姉は部屋が綺麗になっていたことや花のことを狐の仕業だと明かさないことにしたようだ。
「なんか言ってた?」と妹は狐に訊く。
狐は急な質問にしゃんとした。いったん口を止めて妹の顔を見る。でも答えられないので顔を背ける。
「ねえ、次の土曜日空いてる?」姉は妹に訊いた。
「え、どうして?」
「エキノコックスが心配だって、あんた言ったでしょ。駆虫薬飲ませてもらいに獣医さんに行くのと」
妹は「えー」と長々唸って眉間に皺を寄せる。
「何の用事か知らないけど、こっちを優先しなさいよ。この子はあんたについてきたんだからね」
「この狐の好みで私がついてかなきゃいけないの?」
「どちらかといえば私があんたについて行くんだからね。今のところお利口さんにしているけどさ、私だけだとそう上手く行かないよ、きっと」
狐は味無しバンバンジーを食べ終え、空になった皿を軽く噛んで調理台まで持っていく。それから姉の足元に来て耳を後ろに倒し、彼女の太腿に額を擦りつける。それは親愛というよりは単なるお礼のようなとても控えめな力加減だった。
「利口かなあ」と妹。
「ええ、とっても」姉は狐の顎を指で掻きながら答えた。
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