失われた愛

 私はそれを知らないではない。然し私はその提言には一つの条件を置く必要を感ずる。愛が与えることによって二倍するという現象は、愛するものと愛せられたるものとの間に愛が相互的に成り立った場合に限るのだ。若しその愛が完全に受け取られた場合には、その愛の恵みは確かに二倍するだろう。然し愛せられるものが愛するもののあることを知らなかった時はどうだ。或はそれを斥けた時はどうだ。それでも愛は二倍されている事と感ずることが出来るか。それは一種感情的な自観の仮想に過ぎないのではないか。或は人工的な神秘主義に強いて一般的な考えを結び付けて考える結果に過ぎないのではないか。

(有島武郎『惜しみなく愛は奪う』)



 金曜日の夜、姉はアパートに帰らない。大学を出て駅を通り過ぎ、駅前のモールで買い物をして坂道を登る。丘陵の斜面に船便のコンテナを積んだような低層マンションが扇状に並んでいる。彼女はその一棟を目指し、また一部屋を目指す。狐が姉妹の部屋に来た夜の話に上がっていたボーイフレンドの家らしい。彼女は合鍵を持っている。玄関からリビングまでまっすぐ抜けた廊下の右側にひとつ洋間がある。そこを寝室兼仕事部屋らしい。彼は画面に映した資料に目を凝らすのをやめて大きく伸びをした。

「夕ご飯食べた?」姉が戸口に寄りかかって訊く。扉は開いていた。

「いや、まだ」と背中を向けたままほとんど上の空に答える。一呼吸置いてふと顔を上げる。「あ、いま何時?」

「七時」

「コンロに鍋が置いてあるんだけど、味見してみてくれないかな」

「ええ、うん」

 姉は返事をしてからしばらくボーイフレンドの背中、右肩の辺りに視線を置いていた。相手はその気配には気付かない。再び黙々と白い画面に食い入って手元に走り書きをしていた。彼女は黙って戸口を離れる。

 普段使いの鞄とペットショップのプラスチック袋を並べてソファの上に置き、壁つきの調理台の一角に置いてある小鍋の蓋を取ってみる。ほうれん草と油揚げの煮浸しだった。菜箸を出して中をかき混ぜ、適当に組み合わせの良いところを掴み、汁を払って口に運ぶ。悪くない、といったふうに眉を上げて箸を洗う。しかし炊飯器が空になっているのに気付いて溜息をついた。

 彼の方はページの切れ目まで表を読んでパソコンを閉じ、立ち上がって肩の付け根から腕をぐるぐる回す。それから十回ほど抉るようなスクワットをして腰を捻る。肩をほぐしながらリビングに出ていく。

「ああ、参ったな。あまりに厖大な手記だよ。彼の考えがファシズムの犠牲者たる軍閥期の学生たちに受け入れられたのは必然さ。しかし単に流行や潮流といったのとは違う、クローチェの人気にはなんだかもっと縋るようなものを感じるよ」と独り言を曖昧な発音で漏らしながらソファに腰を下ろす。「ああ、それさ、油揚げを味付けするんじゃなくてさ、お稲荷さんの味付けでやったらどうかと思ったんだ」

「うん。なかなかいいよ。いいバランス。少ししょっぱいかな」姉はうどんの袋を開けながら答える。

「そうか、しょっぱいか」

「うん?」

「いや、なんでもないよ」

「醤油足そうと思った?」

「時間が経ったから味が浸みたのさ」彼はきまり悪そうに腰を浮かせて姉が持ってきた袋に注意を向けた。「何、これ?」

「リード」

「犬用のリード? あれ、動物なんて飼ってたの?」

「ううん」と彼女。

「じゃあ、どうして?」

「飼ってなかったの。よく聞いて?」

「ああ、今は飼ってるのか」

「確かについ数日前までは飼ってなかったんだけど、今は違うの。妹が犬を拾ってきて」

「ミチルちゃんが?」彼はとても意外そうに訊き返した。

「まあね」

 玉ねぎと豚肉を炒めたので台所では換気扇が回っている。彼女の方は肉のトレーや俎板をシンクに下げてから、煮浸しに水を足して火にかけていた。うどんを茹でるためのお湯も湧かしているので二口使っている。

 彼はもう一度ソファの上でネコのように肩を伸ばしてから、後ろからこっそりと近づいて彼女の肩を両手で捕まえる。そして首筋のしっとりした髪の中に顔をうずめる。ちょっとびっくりして伸び上がったあと、彼女もゆっくりと後ろ手に彼の腰に触れ、「何か悪いことでもあった?」と訊く。とても可愛いものを見る時のような隠しようのない微笑が顔に表れていた。

「いいや、何も。今日もただ昨日と同じことがあって、一昨日と同じことがあっただけだ。こうしたくなっただけだよ」

「生きる悲しみというもの?」

「いやに哲学的な言い回しだね」彼は顔を上げた。

「違う?」

「どうかな。例えそうでも、こうして癒してもらえるわけで」

「ねえ」と彼女は訊いた。一度右手を離してコンロの火を止める。水を張った鍋の中では昇りかけていた気泡が消えて対流が惰性でしばらく回り続けていた。

「なに?」

「相手に嫌われるほど誰かを愛したことがある?」

 彼は一部彼女に預けていた体重をほぼ自分の足の上に戻した。そうすることで彼の体と彼女の背中が離れ、間に少しばかり空間が生じた。そうした隔たりを置かなければ言えないことのようだった。彼女は彼の体から離れた手を調理台の縁に置いた。

「相手に嫌われるほど誰かをことならあるよ」彼は答えた。「相手が受け取らなかったものは愛にはなれない」

 彼女は頷いた。期待した答えだったのだろうか。

「それは私じゃないわね」

「別の人だ。君には嫌われてない。少なくとも嫌われてないと僕は感じているけど。違う? 違うならどうしてそんなことを訊くのかな」

「嫌ってないわよ。でもあなたが私の気持ちをどう受け取っているのかは私にはわからないもの」

「なるほど。安心した」

「安心して」彼女は言った。でもまだコンロのボタンには手を伸ばさなかった。彼が話を続けるのを待っていた。

「ねえ、愛すべき人に話すような話じゃない」彼は言った。

「いいのよ」

 彼は相手の肩をぐるぐると撫でながらしばらく考えた。その間彼の目はブラウスの襟から覗く彼女の首筋にとまっていた。

「僕が彼女に対して抱いていた欲求は君に対するものより強かったかもしれない。純粋に激しく好きだった。彼女は確かに僕の嫌う要素も持っていた。でもそれだけで嫌いにはなれなかった。生理的に彼女のことが好きだった。あんなに美しい人は他にはいなかった。どうしても彼女でなければいけなかった。それはエロースとマニアの入り混じった情愛だった。上手く言えない。でも僕の全てが彼女を求めていた。できるだけ近くにいたい。声を聞きたい。その姿を見ていたい。僕を好きになってほしい。僕のいいところをたくさん見てほしい。だからあらゆる手段を尽くして彼女と時間を共有しようとした。僕も幼かった。今思えば下品で、子供っぽくて、気色の悪いアプローチばかりしていた。もう十年以上前のことだけど、その年頃の女の子が好きになるのはスマートな男子であって、強引に距離を詰めようとしてもだめなんだ。僕は彼女の前ではどうも冷静ではいられなかった。普段の僕ではいられなかった。結局そうしているうちに彼女は僕を敬遠し、求めれば求めるほど離れていった。

 他の男の経験を聞いたりしたわけじゃないが、オスというのはそういうものじゃないかな。幼さゆえに愛の一番手をめちゃくちゃにしてしまうんだ。最も傷つけてはいけない人を傷つけ、嫌われてしまう」

「昔のことでよかったわ」姉は少し時間をかけて口を開いた。

「君に対する愛は純粋なものではないかもしれない。そこには多少のプラグマも含まれている。ただ君に対しても抗しがたい魅力を感じることができたのは確かだよ。もし君が駄目だったら、僕は本当に自分の愛を諦めていただろうと思う。もうそれは死んでしまったんだ、それは彼女を傷つけた罰、ある種の呪いなんだ、とね」

「同じね」彼女は呟いた。

「え?」

「オスは誰しも、とあなたは言ったわ」

「確証はない。でもそれはとても確信に近いものだよ」

「彼女とやり直したいとは思わないの?」

「今の自分ならもっと上手くやれただろうとは思う。でも彼女の犠牲は運命なんだ。今の僕には自分の過ちがわかるけど、当時の僕にとってはそれが考え抜いた最善の選択だったんじゃないかな。きっと一から人生をやり直すとしても、同じように考えて同じように決断するしかない。そう思わなければ今の自分の存在を肯定することはできないよ」

 彼はそこで彼女の肩から手を離して彼女の胸の下に両腕を回した。二人の体は再びぴったりとくっついた。

「それに、今の僕は無理やり肯定してやらなきゃいけないようなものじゃない。満足してるんだ。君が僕のことを選んでくれて本当によかったと思ってる。だから、もし人生を繰り返すとして、また君に出会えるなら、僕自身がどう動くかよりも、君の方が僕を愛してくれるかどうか、その方が心配だ。それは奇跡みたいに思える。現実の幸運が怖いんだよ。それがどれほど確率の低い、不安定なものか」

「安心して」と彼女は答えた。自分の肩にある彼の手を上から強く握った。でもその表情は決して浮ついたものじゃなかった。彼女が彼を救ったのは事実らしい。でも本質的に一人の人間が救えるのは一人の人間だけなのだ。一生かけて一人を救っていかなければならない。他に救いたいものがあるからといって両手で支えているものから手を離すことは許されなかった。

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