神使

 次の朝、姉妹が出かけてから狐は部屋の掃除を始めた。

 狐の姿が変化している。

 背骨は床と垂直で、ふさふさした体毛はなく、十本の指が器用に動く。毛皮の代わりにさっぱりした白い服を着ている。タオルケットと二人の布団を外に干し、枕を物干しの端に乗せる。ベランダの端に近づく時は姿勢を低くして外から見られないようにする。下の階の大家が庭で植木の剪定をしている。ふと二階の布団を見上げるが、二人の母親がまた世話を焼きに来ているのだろう、といったふうで気に留めない。

 狐は部屋の床をクリアして掃除機をかける。隅々まで丹念に掃除する。ドアの陰、引き戸の桟。それから姉が読んだままの新聞を畳み、皿を拭いて仕舞う。どの引き出しに入っている皿か昨日の夕食の時にきちんと見ていたらしい。あまり迷いはない。それから部屋の中を見渡す。何かが足りない、というように首を傾げる。食器棚や戸棚を開いて、結局天袋からガラスの花瓶を見つける。四角柱をねじったような形をしている。狐はそれを何にもないテーブルの真ん中に置いて遠くから眺める。そしてまた首を傾げる。

 それから姉のオーバーコートを一つ借りて外に出る。靴は大きさが合わないので仕方なくゴム製のつっかけを履いた。冬の柔らかい日差し。冷たい空気をいっぱいに吸い込んでヨットの帆のように大きく伸びをする。

 狐は暗渠に沿った緑道を迷わず歩いていく。向かいから六十くらいのおばさんが二人歩いてくる。二人とも少し背中が曲がっているが脚は丈夫そうだ。黒いコートを着て小さなハンドバッグを持っている。一人がピンク色の携帯電話を持って二人でそれを覗き込みながら地図の読み方について何かしら言い合っている。一方が狐に気付いて声をかける。つっかけのせいだ。地元の人間に見えたのだろう。

「ねえ、教会ってどこにあるかご存じない?」

「教会?」

 狐は訊き返して、彼女たちの言う教会が正確にはどの教会を指しているのか把握するためにいくつか確認した。狐はその教会を知っている。頭の中に教会の建物と周りの風景、所在地をイメージする。そして自分が頭に思い浮かべたことを二人のおばさんに言葉で伝えようとする。でもそれは少しだけ上手くいかない。

「この道をしばらく歩いていくと、道が三つに分かれた交差点が出てきます。左右じゃなくて、こう、三方です。そこをこの、左斜めの方へ行って、左側に公園が出てきたら、その先の角を左に折れて――」

 二人のおばさんは大きく相槌を打っている。けれど狐はだんだんと焦りを感じる。自分の表現したいものを正確に言い表す言葉がきちんと声になっていないように感じる。もっと適切な言葉があったのではないだろうか? 狐はもどかしくなる。ペンと手帳を借りて順路をスケッチした。

 二人のおばさんはそのスケッチを見て道を確認したあと、お礼を言って狐の示した通りに歩いていく。狐はその後ろ姿を見送った。それから自分の口と喉を髭の剃り具合でも確認するみたいに撫で、その手を目の前で握ったり開いたりした。手を下ろす。周りの木々を眺めながら一度深呼吸する。また歩き始める。


 込み入った住宅地の突き当たりに神社がある。真っ赤な鳥居が正面にあり、参道の両脇を固める狛犬の代わりに狐の像が立っている。一体が玉を、一体が巻物を咬んでいる。正面に拝殿と本殿の一緒になった立派な建物があり、加えて左手に簡素な社務所が建っている。人気はない。向って右手のツツジやナナカマドの茂みに黄色い〈KEEP OUT〉のテープが張られている。何か警察沙汰の事件があったのか、それとも誰かがいたずらで張ったのか、どちらとも判別しがたい雑然とした張り方である。どちらにせよ、きちっとした人工構造物がなく、巻きつけるのに植物の幹や枝しか使えなかったのが原因らしい。もし神社絡みの宗教的なものならどこかしらに御幣やら札でもありそうなものだが、どうも見当たらない。

 狐にはお賽銭の持ち合わせがない。仕方なく爪で賽銭箱を叩いてから鈴を鳴らして手を合わせる。

 拝殿の御階の一段目に長身の女が座っていた。袖のたっぷりとしたVネックの白いセーターにハイウエストの朱色のロングスカート。遠目にそれは小袖と袿袴、つまり巫女装束に見えなくもない恰好だった。女は脚を折り畳むくらいにして膝を体の前に引きつけ、脛の前に手を組んでスカートの裾を押さえている。

 狐が気付いて正面に回ると、賽銭箱の陰から出たその足を見て女は口に手を当てた。頬がひきつっている。

「あら、それはちょっと微妙なセンスよ」

「姉妹のだとサイズが合わなくて」狐は答えた。

「そうか、何か持たせてあげればよかったのよね」

「別に、構いませんよ。じきに、あと八日もすれば履かなくなるものだし」

「革靴がいいでしょう?」女は一度腰を上げて狐の前にしゃがんだ。

 狐は肩を竦める。拒むほどのことでもない。

「歩きやすいのにしてください」

 女が手を翳すとつっかけは横開きのブーツに変わった。狐は何度か足踏みや屈伸をして履き心地を確かめた。満足したようで「どう?」という問いかけに「うん」と答える。

「脱いだら戻るようにしたから、まっすぐ帰りなさいね」

 森の方で物音がする。鳥居の前に集まっていたハトの群れが場所を移して、落ち葉の層をわっしわっしと頭で掻き分けながら木の実を探している。風が吹くと木々の葉が擦れる音に混じって立入禁止テープがびーんとはためくのが聞こえる。

 女は御階の一段目に戻ってひとしきり辺りの音を聞いたあと、自分の尻の横に手を置いて踏み板を叩いた。そこに座りなさいという意味だ。

 狐は彼女にぴったりと肩を寄せて座る。

「彼女には会えたのね」女は訊いた。先ほどより低く静かな声だった。

「ええ」

「それで」

 狐は答える前に唾を飲み込んだ。石畳と砂利の境目の辺りをじっと見つめている。

「やっぱり綺麗だった。もうほとんど彼女の顔を憶えていないみたいな気がしていたから、もう一度見ることができて、よかった」狐はそう言ってからひとつ頷いた。そうでもしないと自分の言葉に自信が持てないようだった。「でも、もちろん冷酷な一面もあった。なんというか、澄んだ水も荒めば濁るもので」

「余所行きの面ばかりではないわね、人間というものは」

 狐は頷く。「部屋は少し散らかっていた。服は脱ぎっぱなし、鞄はそのまま」

「そんなものよ」

「ええ」狐は膝の間に挟んでいた左手を持ち上げて自分の右の頬にそっと当てた。「そんなことより、撫でてもらえた。いいや、わかっています。彼女が撫でたのは僕じゃない。あなたの狐だ。僕じゃない。それでも」

 女は自分の膝の上に腕を置いて前屈みに狐の話を聞いていた。狐の悲しみに深く共感している。でもその悲しみは決して珍しいものじゃない。私は同じものを何度も見てきたのだ。そういった慈悲と無力感の表情だった。

「そうだ。今日は花を貰いに来たんですよ」狐は言った。

「どんな花?」

「これくらいの花瓶に入れられるものが良いんだけど」

 女は「よし」と膝を叩いて立ち上がった。境内を横切って日当たりのよい南側に歩いていって辺りの茂みを物色する。葉の緑色より少し黄色がかった花をたくさんつけている草を見つける。丈は四十センチくらいでこんもりしている。女はそこから枝分かれした花の房をいくつか摘み取って匂いを嗅ぐ。狐にも嗅がせる。

「名前は?」と狐。

「ハナイカリ。花が錨のような形をしているからハナイカリ」

 答えを聞いてから狐はもう一度匂いを嗅いだ。

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