第9話

小学生の頃、「夜9時は寝る時間です」と教えられていた。

多少時間は違っても、おそらくどの家庭も、そう。


ある日、父に聞かれた。「今日は何時に寝るんだ?」

当たり前のように私は答えた。「9時だよ」

「本当か?本当に9時ぴったりには寝てるんだな。」

父は酒を飲んでいた。

ただの絡みだ。


アホなクラスメイトが言う、「それ本当かよ。本当ならいつの話か言ってみろよ。何月何日何時何分、地球が何回回った日?」あれと同じだ。

バカバカしい。

でも私は父を軽く去なすなんてできなかった。

殴られていたから。怒鳴られていたから。

ほんの小さな赤ん坊の頃から恐怖を植え付けられた人間は、「何かまずいことが起きた」と感じるときには固まるしかない。頭なんて働かない。

マズイと思った瞬間から、「私はあなたの害になりませんよ」と言うメッセージを発し続けて身を守るしかない。しかもそのメッセージも成功率は限りなく低い。

「本当か?本当に9時ぴったりには寝てるんだな。」

「うん…」

「お父さんと一緒に寝るか?」

「うん…」

「そう言えば今日、………」

何を話したかなんて覚えていない。私は時計ばかりを気にしていた。

9時まであと40分、あと30分、あと20分…

寝なきゃいけないのに父の話が終わらない…どうしよう…また怒らせた…私はダメだな…

パジャマに着替えて歯を磨いて、布団を敷いて…間に合わない…

「9時過ぎたな。お前、俺に嘘ついたのかよ」

ほっぺたが熱くなって、鼻の高さに一直線に血が飛んだ。

覚えているのはそこまでで、次の記憶は布団の中で、

父の手は私の股の間にあった。いつものことだ。

「叩いてごめんね、お詫びに気持ちよくしてあげるから」

いつものおきまりのセリフ。

「うん」としか言えない私。

「気持ちい?」なんて訳のわからん質問をされても「うん」しか言えなかったんだから始末が悪い。



ねぇ、小学生の私、嫌な時は嫌だって言っていいんだ。

もう私は実家を出ていて、私を怖がらせるものは何にもないんだ。

今一番私を怖がらせているのは記憶。

だからたくさん嫌だって言って、記憶を変えよう。

嫌だって言っても安全なんだって記憶に変えよう。

もうあなたは安全なんだ。大丈夫なんだ。


左手の、親指と中指を擦り合わせながら、幸せだった記憶を思い出す。

右手の、親指と中指を擦り合わせながら、辛かった記憶を思い出す。

両方の、親指と中指を擦り合わせながら、辛かった記憶に幸せだった記憶を重ねる。

「本当か?本当に9時ぴったりには寝てるんだな。」

「うん…」

この次の瞬間に母に後ろから抱きしめられた記憶を刷り込む。

私は無力で「うん」としか言えない子ではなくなる。

夫に「頑張ったね」って言ってもらった瞬間を刷り込む。

子供の私に、味方ができるように。

左手の親指と中指。擦り合わせた瞬間に幸せな記憶が蘇るように何度も何度も繰り返す。

将来職場の上司に叱られることを想像しながら、左手の親指と中指を合わせる。

上司に叱られても私には味方がいると思えるまで。

失敗したのは私だけど、私の人間性は否定されていない。

私には味方がいる。大丈夫。そう思えるまで何度も何度も。


まだ実感を伴った変化はないけど、私は変われているのかな。

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