第9話 一ノ瀬チヒロの未来
春。
新入生。新社会人。
新しい学校、新しいクラスメイト。新しい職場に、新しい同僚達。
それは、新しい生活を迎える季節。
そこには、新しい出会いがあって……。
別れがあった……。
俺は今、予備校に通っている。
高校の卒業直前まで俺は進路を決められずにいた。
先生には、今の成績ならギリギリ推薦も可能だし、上を目指す必要がないならまだ間に合う学校もあるからと、進学を奨められた。
言われるままに、どこかの大学を適当に受けてもよかった。
けれど俺は浪人生の道を選んだ。
俺は今でも毎日、白鷺さんの入院する病院に通い続けている。
毎日のように彼女に呼びかけて、彼女の手に触れることによって、無理だとはわかっていても、そうすることしか今の俺にはできないから。
白鷺さんは最後に言ったんだ。
必ず迎えに来てくれと。
必ず戻ってくるから、俺に、迎えに来てくれと言ったんだ。
白鷺さんは絶対に嘘は吐かない。
彼女はいつだって真剣なんだ。
だから、彼女の口にすることは絶対に真実になる。
俺は、彼女の意識を取り戻せるようにその日がくるまで。
俺が必ず。
*****
「花瓶の水、取り換えておいたよ」
そう言うと松山さんは、リンゴの皮を剥いて切ってくれる。
「ありがとう」
「勉強はどう? 医学部って、どれくらい難しいのかよくわからないけど。私の通ってる看護学校でも、やっぱりお医者さんになる人は、根本的に頭の出来方が違うんだよとか皆言ってるし」
「まあ、ぼちぼちかな。あれ、松山さん知らなかったっけ? 俺の高校の成績」
「知ってるよぉ。いつも上位から5番以内に入ってるし。一ノ瀬君は一番苗字が長いから、三年生じゃなくても知っている子は居たよ」
なんだか恨めし気な感じで俺のことを見つめる松山さん。
松山さんは母親と同じ看護師になる為に看護学校に通っている。
将来は俺と同じ病院に勤めて、依怙贔屓してもらうのが目標ってのが、彼女の最近の口癖だ。
松山さんが白鷺さんの身体を拭くからと言うので、俺は病室の外で待つことになった。
そうしていると、白鷺さんのお義母さんがやってきた。
「一ノ瀬君こんにちは。いつもありがとうね、六花ちゃんも来ているの?」
「こんにちは。はい。今、白鷺さんの清拭をしてるところです」
「本当に、色々としてもらって申し訳ないわ」
「いいんですよ。僕達にとってはこれも良い勉強になりますし」
そう言うと、お義母さんは鞄の中から何かを取り出して俺に手渡してきた。
「これ……」
「将来の名医様になってもらうのに、こんなことしかできないけれど」
「ありがとうございます」
それは、合格祈願のお守りであった。
笑顔で受け取ると、お義母さんは真剣な面持ちで俺の目を見つめてきた。
そして小さく溜息を吐くと、優しく笑う。
「一ノ瀬君。あなたがあの子の、乃音の為にお医者様になろうとしていることはとても有難いと思っているわ。でもね、あなたの人生はあなたの為にあるものだってことを。この先の人生、あの子だけに縛られると言うのであれば……」
お義母さんはぐっと唇を噛み、その先の言葉を飲み込んだような気がした。
病室の扉が開き、清拭を終えたので松山さんが呼びに来たことにより、そこから先の言葉は聞くことはできなかった。
そしてまた次の春を迎える。
そしてまた……。
そして…………。
白鷺さんは今も眠ったままだ。
日に日に痩せ細って行く彼女のことを見ているのは正直辛かった。
元々真っ白だった彼女が、更に白く、白く変わって行く姿を見ていると。
いつしか、そのまま真っ白な光の中に溶けて消えしまうような気がして、俺は酷く不安になった。
ヴァイス・ノインも黒子も帰ってこない。
あれから命を狙われるようなことはなかった。
また未来から新しい刺客が送り込まれてきたら、その時はもう助からないだろうと考えたこともあったが、何も起こらない日々が続いて行くと、そんなこともすっかり忘れてしまっていた。
あの出来事は夢ではなかったと、現実に繋ぎとめているのは、目覚めることのない白鷺さんの存在だけだった。
*****
「どうして? チヒロはいつもそうっ! 私の事よりも、うぅん、自分の事よりも他のことばかりを優先して! 周りの事がなにも見えていない!」
「他ってなんだよ?」
「決まってるでしょ」
「なにがだよ……。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
六花は涙目になると俺の頬を平手打ちする。
「あなたの口から言いなさいよっ! あの子のことが忘れられないって! 私よりも白鷺乃音のことの方が大事なんだって! 自分の口ではっきり言えよ卑怯者っ!」
そう言って涙を流す六花は、俺の部屋から飛び出して行ってしまった。
梅雨の雨が降りしきる六月の終わり。
もうすぐ、夏がやってくる。
あの日、白鷺さんの秘密を知ったあの夏の日から。五年の月日が経とうとしていた。
今日もこの後インターンだと言うのに、俺の気分は梅雨の空の様にどんよりと重く陰鬱な気分が晴れなかった。
俺は、俺の時間はあの時、止まったままだった。
ヴァイス・ノインと十三番目黒子が姿を消し、白鷺さんが眠りについたあの日からずっと、俺の時間は止まったまま動き出すことはない。
それはもう、決定した未来。
俺がブライダルプログラムを完成させる。
その日まで。
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