長谷部くんと長谷川くんはライバルです!

 走っている。

 足を振り上げる。腕を振る。走っているときは手を握るのではなく、指を揃えて開いた方が空気抵抗はない、とテレビで言っていた。それが本当かどうかわからないけれど、俺はそれを信じて実践している。勝つために。負けないために。

 右隣を見る。同じように手を開いて走っているソイツは、俺の方を見てニヤリと笑う。すると俺を追い越そうとばかりに走る速度を上げた。人ひとり分の距離が空く。かっと頭の奥が熱くなる。より足を振り上げる。より腕を振る。こなくそ! と声を上げる。距離が詰まる。またぴったりと同じ距離になる。ソイツが俺を睨む。俺はニヤリと笑う。

 平日、朝。いつも小さなポメラニアンを散歩している四十代男性とすれ違う。おやおやまあまあ、というように、微笑ましそうな視線にはすっかり慣れた。「いってきます!」俺が言う。「いってきます!」隣のソイツが言う。「いってらっしゃい」と四十代男性が見送ってくれる。ワン、とポメラニアンくんも元気に吠えて見送ってくれる。

 走る。全速力で。今は六月下旬。初夏といえば聞こえはいいけど、梅雨が終わったとはいえ外はジトジトと暑い。いい天気で日差しが強い。汗が噴き出る。ポロシャツの袖の間に入ってくる生温い風だけが救いだ。それでも走る。走る。隣を見る。ソイツ―――長谷川裕樹は、諦める様子なんて微塵も見せず、全力で走っている。

 高校の正門に繋がる、そこそこ長い坂。駆け上がる。入学してから毎日走っているというのに、どうしても息が上がってしまう。それは裕樹も同じようで、見ると肩で息をしているのがわかる。いつもより肩の上下が激しい。勝てる、と直感する。速度を上げる。それに気づいた裕樹が追いかけてくる。ぜえはあ、と二人の息が重なる。走る。正門が見える。走る、走る。走って。


「―――っ、だあ!」


 正門を越える。その場に二人で倒れ込む。倒れたまま息を吸って、吐いて、上半身を起こして裕樹を指さした。


「俺が勝った! 一歩早かった!」

「はあああ?」


 俺が勝利を宣言すると、裕樹は納得いかないのか露骨に顔をしかめた。


「ふざけんなよオレの方が二歩早かった」

「そっちがふざけんな俺の方が三歩早かった」

「サバ読むんじゃねえよオレの方が四歩!」

「じゃあ五歩!」

「『じゃあ』ってなんだよ!」

「―――二人とも」


 凛とした声に、俺と裕樹はすかさず立ち上がる。足を揃え背筋を伸ばして、彼女へ振り返る。腰まで伸びたストレートの黒い髪、膝小僧を隠す紺のプリーツスカート。半袖のシャツから見える白い肌の二の腕。


「もうすぐ予鈴が鳴るから、早く教室に」

「おはようございます水無月先輩! どっちが早かったですか!」

「おはようございます水無月先輩! オレの方が早かったですよね!」

「同着でした」

「先輩こんな木偶の坊に気を遣う必要は」

「そうですよ先輩こんなチンチクリンに気を遣う必要は」

「早く教室に」

「はい!」

「すみませんでした!」

「廊下は走らないでね」

「はい!」

「はい!」


 風紀委員長である彼女に九十度のお辞儀をして、俺と裕樹は校舎に走る。扉をくぐると急ブレーキをかけ、早歩きで教室に向かう。


「おい長谷部裕太」


 裕樹が俺の名前を呼ぶ。早歩きのまま隣を見やる。すると、がばりと肩に腕を組まれる。引き寄せられて裕樹の頬が自分の頬にくっつく。お互いに汗をかいているから、べっとりしていて気持ち悪い。


「なんだよ暑いし気持ち悪い」

「今日は引き分けにしてやる」

「それはこっちの台詞だ。これで何勝何敗何引き分けだっけ」

「まさか今日が水無月先輩の担当だったとはな」


 先輩の名前が出ると、あっという間に清涼感が胸の中を駆け巡る。


「確かに。いつも水曜日なのにな。今日火曜日なのに」

「風邪で休んでいる生徒の代わりに出てやってるのかも」

「先輩優しいもんな」

「それな」

「今日も綺麗だったな」

「最高だったな」

「それな」


 と、俺たちが歩くのも忘れ先輩の美しさの余韻に浸っていると、キーンコーンカーンコーンと予鈴が鳴る。慌てて俺たちは走り出す。バタバタと教室に入った俺たち二人を、先生は「またお前らは慌てん坊に入ってきて」と怒る。「先生俺の方が早かったですよね」「いや先生オレの方が一歩早かった」「じゃあ俺が二歩」「じゃあオレ三歩」「さっさと席に座れ!」クラスメイトたちが、「ああまたか」と言わんばかりのぬるい笑い声をあげる。

 ああ、また「ハセ兄弟」がいつものやってるよ、と。



■ □



 俺・長谷部裕太と長谷川裕樹のライバルの歴史は、小学生時代に遡る。

 小学校四年生のときに転校してきた奴は、俺にとって何とも奇怪な奴だった。俺の名前は「長谷部裕太」。奴の名は「長谷川裕樹」。漢字で見ると、三文字目と五文字目しか違いがない。なんとややこしいことだろう。更に俺と身長や体重もほぼ同じ。成績や運動能力もほぼ同じ。好きな食べ物や好きなアイドルも同じ。

 そんな奴が俺と同じクラスに入ったものだから、無垢で無邪気な小学生たちは興味津々だ。「どっちが長谷部?」「どっちが長谷川?」「どっちが裕太?」「どっちが裕樹?」なんて、みんなが聞いてくる。「うるせえ俺とは四年間一緒のくせに! 顔はそこそこ違うのに!」なんて怒っている俺をよそに、長谷川裕樹はツンと素知らぬ態度を取るだけ。そんな裕樹にムカついた。コイツこの野郎だったら俺がお前より全部勝ってやる、なんて対抗心を燃やし、勉強も運動も頑張った。それでも裕樹はツンとするばかり。

 だが俺は知っていた。みんなにはどうでもいいという態度を取りながら、俺のテストの点数が上がれば裕樹も上がった。体力測定のシャトルランでは絶対に俺より早く止まろうとしなかった。アイツだって、俺に対抗心をメラメラと燃やしていたわけだ。最初は自分のことを「僕」と言っていたのに、いつのまにか「オレ」に変わっていた。これもまた俺への当てつけに違いない。

 結局そんな小競り合いを勉強でも運動でも早食いでも登下校ダッシュでもやるものだから、気づくと俺たちは「ライバル」という関係性が周囲に認知されていた。そして「長谷」という共通の名字の部分を取って、不本意ながら「ハセ兄弟」と一括りに呼ばれるようになるのは、小中高変わらず遅くなかった。

 同じじゃないけど、ほぼ同じ。だけど、気を抜けば追い抜かれる。振り向かれて、ニヤリと笑われる。

 出会ったときから、俺にとって長谷川裕樹はそういう男であり、長谷川裕樹にとって俺はそういう存在なのだ。



■ □



「では参ります」


 昼休みの教室。半分の生徒は学食へ、半分の生徒は教室に残り弁当や菓子パンを頬張る時間。クラスメイトである蘭慧斗は、慣れた手つきでストップウォッチを二つ取り出す。陸上部で使うそれを常備してくれるようになったのは四月の下旬だった。ちなみに蘭は走る側ではなくマネージャーであり、最近は俺と裕樹の審判もしてくれる万能な裏方である。「準備はよろしいですか」その目が至極面倒くさそうなことはさて置いて。


「長谷部裕太いけます」

「長谷川裕樹いけます」

「はい。よーい……どん」


 合図と共に、俺と長谷川裕樹は自分の勉強の蓋を開ける。机に置いていた箸を取る。もう片方の手で弁当箱を持ち、中の白米とおかずを口の中にかきこんだ。最初はタコさんウィンナー。白米。からあげ。白米。コロッケ。白米。餃子。白米いわゆる茶色い弁当。育ち盛りの男子にはありがたいラインナップだ。


「もぐもぐ」

「んぐんぐ」

「おいハセ兄弟、もっと味わって食ってやれよ。せっかく親が作ってくれてんのに」

「大丈夫ちゃんと味わってる。それに親は了承済みだから」

「オレも同じく」

「親から早食いの許可をもぎ取るなよ……」


 昼休みの弁当早食い競争は恒例行事で、いつもクラスメイトの蘭にタイムを計ってもらっている。最近は僅差になることも多く、正確な数値がわかった方が判定しやすいからだ。なぜ蘭にお願いしているかというと、俺と裕樹が高校に入学してから初めて友だちになった相手で、「俺たちの競争の審判をしてくれ」というよくわからないお願いを聞き入れてくれた心の広い男だからだ。例え俺たちの早食いが終わってから自分の買ってきた菓子パンを食うことになっても、決して俺たちとの友だち関係をやめようとしない優しい男なのだ。心の中で友人を褒めながら、俺は最後の白米をかきこむ、が。


「ごちそうさま!」

「な……っ」


 一口先に裕樹の弁当が空になる。裕樹側のストップウォッチを蘭が止める。慌てて白米を噛んで飲み込み「ごちそうさま!」と手を挙げるが時すでに遅し。裕樹の次に、俺側のストップウォッチが止まる。今日の勝敗はわかりきっているのに、わざわざ蘭は数値を読み上げた。


「えー、長谷川裕樹が一分十秒。長谷部裕太が一分十五秒」

「よし」

「くっそー」


 ニヤニヤと裕樹が俺を見て笑ってくる。腹が立って頬をつねろうと手を伸ばすものの避けられる。クソこの腹立つコイツ。


「んじゃ俺もいただきます」

「あ、どうぞどうぞ」

「いつもありがとうございます」


 蘭は自分の菓子パンの袋を開け、もぐもぐと甘そうなメロンパンを食べ始める。もぐもぐと頬張りながら、いつものように呆れた目を俺たちに向ける。


「……お前らよく飽きないよなあ、毎日毎日」

「何が?」

「この流れで『何が?』と聞かれるとは思わなんだよベータくん」


 蘭は俺のことを「ベータ」と呼ぶ。長谷「部」裕「太」から取って「ベータ」らしい。ハセ兄弟とは散々呼ばれてきたけれど、そういう個人のニックネームは初めてで、結構嬉しいことは内緒だ。


「朝は高校まで全速力で徒競走して、昼には早食い競争して、小テストでも体育のバスケでも点数を競い、帰りにはまた全速力で徒競走して」

「それはまあ」


 言いつつ、俺は裕樹と顔を見合わせる。


「もう宿命というか。しないと気持ち悪いっていうか」

「それはある」

「カワキも意外なんだよな。普段はクールな顔してるくせに、毎回ベータの勝負に付き合ってるし」


 「カワキ」というのは長谷川裕樹のニックネームだ。俺と同じく、長谷「川」裕「樹」から取って「カワキ」らしい。裕樹の表情は変わらずツンとした顔をしているが、実は嬉しがっていることを俺は知っている。しかしそこに突っ込むことはせず、蘭の発言に異議を唱えた。


「『付き合ってる』という言い方は心外だな。まるで俺が裕樹に勝負を吹っ掛けてるみたいじゃないか」

「違うのか?」

「全然違う。俺が裕樹に付き合ってやってるんだ」

「ハッ」


 裕樹のやつ鼻で笑いやがった! 睨んでも空になった弁当箱を見せつけてくる。メラメラと燃え上がる苛立ちを何とか飲み込みながら、「とにかく」と裕樹に箸の先を突きつける。


「早食いは負けたが、次の授業の小テストは絶対勝つ!」

「はいはい」

「すかした顔がムカつく!」

「飽きないねえ……」


 と言いつつ、毎日昼食を共にしてくれる蘭はやはり良い奴なんだろう。いい友人を持ったな、と俺も裕樹も思っている。



■ □



「勝った勝った」


 ニヤニヤとしたり顔をしながら、俺は小テストの用紙を裕樹に見せつける。百点満点。花丸マークつき。裕樹の結果が九十八点であることは既に知っている。授業でテスト結果が返ってきた瞬間に確認しに行ったからだ。

 裕樹は心底不服そうに顔をしかめながら先に教室を出て行った。俺は浮き足立ったままその後を追いかける。次は移動教室だ。蘭は他のクラスメイトと喋っているようなので、二人で廊下を歩く。


「これで今日は一勝一敗一引き分けだな」

「まだ帰りの走りが残ってる」


 不貞腐れたような声。その声を聞くたびに俺は優越感に浸れて最高の気分になる。普段クールな態度で格好つけているくせに、俺だけがそれを崩すことができる。ただ、高校に入ってからは俺以外にもそういう人が現れたわけだけれど。


「あれ。でもお前、今日はバスケ部に助っ人で呼ばれてなかったっけ」

「お前はサッカー部に呼ばれてただろ。どうせ帰る時間は一緒だ」

「確かに。俺との走りの前にバテんなよ」


 俺と裕樹は二人の対決に専念するため帰宅部なのだが、今まで切磋琢磨してきたかい……というのも癪だけど……もあり、勉強も運動も人並み以上の能力が培われていると自負している。その証拠に、部活の練習試合に助っ人として呼ばれることも珍しくなかった。人に頼られるのは純粋に嬉しい。それに、練習試合の結果で裕樹と勝負もできる。一石二鳥だ。


「それはこっちの台詞だ。お前の方がいつも考えなしに全力で動くからバテてるんだろ」

「俺は顔に汗かくタイプだから疲れてるように見えてるだけだっつの。そう言うお前は顔には出ないけど実は背中がびしょびしょに―――」

「―――こんにちは」


 凛とした声。麗しい声。反射神経で、俺と裕樹は背筋を伸ばして気をつけをする。


「こんにちは水無月先輩!」

「お疲れ様です水無月先輩!」

「そんなかしこまらなくても」


 先輩は少し困ったように小さく微笑んだ。笑ってくれた! 麗しい。可愛い。俺と裕樹の胸がドッキンと跳ねる。

 水無月京子先輩。俺たちの先輩にあたり、この高校の風紀委員長であらせられる素晴らしいお方だ。何が素晴らしいかというと、まず頭が良い。テストで学年一位の座を譲ったことがないらしい。次に美人。端正な顔立ち。きりりとしたクールな瞳。百七十センチのスレンダーな体型。俺たちと同じ背丈でよく目が合うから最高だ。そして何より性格がいい。風紀委員長の彼女は当番で朝の登校時に正門で服装チェックをしていることが多いのだけれど、風紀が乱れた者には怖気づくことなく真剣に注意する。それを直してきた者にはちゃんと「ありがとう」と礼を言う。ヤンキーにも優等生にも分け隔てなく「おはよう」と言ってくれる。厳しくて優しくて慈悲深い方なのである。そんな彼女は俺や裕樹に限らず学校中全員が大好きで、「マドンナ」という漫画やドラマにしか出てこなさそうな言葉で呼ばれていることを知っている。多分水無月先輩自身も知っているのだろうけれど、それを鼻にかけることも決してない。本当に素晴らしいお方だ。今日も朝と変わらず大変お美しい。そして俺たちのような平民にも声を掛けてくださるほどに優しい。


「廊下は走らなくなったようで何より」

「いやあ、ははは」

「お恥ずかしいかぎりです」


 二人で頭を掻く。以前裕樹といつものように言葉の小競り合いをしていたところ、「廊下で二十五メートル走だ」という話になり、廊下を全力疾走していたところ、水無月先輩に袈裟固で止められたという恥ずかしい過去があるのだ。ちなみに水無月先輩は柔道黒帯らしい。超格好いい。更に言えば、それが先輩との初めての出会いであり、俺と裕樹が先輩にフォーリンラブした瞬間なのであったが、そのときの気持ちは丸一日かけて語りたいので今は置いておこう。今朝予鈴が鳴って慌てて教室へ走ったことも、先輩には絶対内緒だ。


「次は移動教室?」

「あ、はいそうです次の授業、化学でして、理科室に」

「先輩も移動教室ですか」

「ええ。私のクラスは音楽で」


 音楽! 先輩が優雅に歌う姿を想像してウットリしてしまう。高校になってからリコーダーを使うことはないけれど、中学では華麗にリコーダーを吹いていたのだろう。想像すると可愛すぎて悶えそうになる。絶対裕樹も同じ妄想をしているに違いない。無表情を装っているが俺にはわかる。伊達に小学生からの付き合いじゃない。


「音楽の授業頑張ってください先輩」

「応援してます先輩」

「初めて音楽の授業を応援された」


 くすりと先輩が笑う。それから「ありがとう」と言って音楽室の方へと歩いていく。角に曲がって見えなくなるまで、俺と裕樹はずっとその姿を見つめていた。


「先輩に声かけられちゃったな裕樹」

「今週は初めてだな裕太。登校したときの正門の挨拶を除くと」

「最近ちょっと話すことが多くなってる気がして嬉しい」

「わかる」


 水無月先輩のことになると裕樹は素直だ。俺のことなど一度も褒めたことがないし、何なら友人知人のことを褒めたところもあまり見たことない。俺の負けず嫌いは裕樹限定なのだが、裕樹の負けず嫌いは水無月先輩以外の全人類に向いているのではないかと思うときがある。ただ、それと比べても俺への対抗心がすこぶる高い。


「なんか、でも、今の先輩はちょっと機嫌がよかった気がしないか長谷川裕樹」

「確かに。笑みを浮かべるハードルがいつもより低かった」

「何かいいことでもあったのかな」

「学食で食べた日替わり定食が美味しかったとか?」

「可愛い」

「可愛い」


 双方同意を確認して、俺たちは理科室へ歩き出す。

 俺たちは何でも競争する。勉強も運動も食べることも。だけど水無月先輩に関しては、そういうことをしなかった。だってあの水無月先輩だ。頭がよくて美人で優しくて、みんなのマドンナ。ただ話してくれるだけでも光栄なのに、それ以上を望んだって手にいれられるわけがない。例え告白したって玉砕するに決まってる。だから俺たちは互いに何かを言うこともなく、無言の停戦協定のようなものが結ばれていた。少なくとも、俺はそう思っていた。

 思って、いた。


「なあ長谷部裕太」


 歩きながら裕樹が言う。ぽつりと、まるでひとりごとのように。


「なんだよ長谷川裕樹」

「オレが次の期末テストで、お前より平均高かったら」

「バカやろうそんなことあるわけないだろ」

「水無月先輩に告白する」


 俺の足が止まる。裕樹も止まって、俺をまっすぐに見る。


「先輩に好きって伝えて、付き合ってくださいって言うから」



■ □



「先輩のことが好きです付き合ってください」


 結論から言うと俺は裕樹に負けた。

 手を抜いたつもりは全くない。むしろ絶対に負けてたまるかと、いつも以上に勉強した。そのつもりだ。だけどそれ以上に裕樹は勉強した。今まで双方の平均点は九十点前後だというのに、九十八点という化け物の数値を叩きだした。俺は九十三点。勉強方法を省みる必要がある。が、今はそれどころではない。なぜならたった今、長谷川裕樹が水無月先輩に告白したからだ。

 校庭の裏というベタベタの場所に誘ったのは裕樹の方だ。奴が案外ロマンチストであることも俺は重々承知している。俺は壁に隠れ、二人の会話を盗み聞きしていた。裕樹には許可を既に取っている。「邪魔したらぶちのめす」とは言われたけど、こそこそと告白するのも癪らしい。複雑な乙女心を持った男だ。

 裕樹の早口な告白がまさかの想定外だったのか、先輩は目をきょとんと瞬かせていた。嘘だろ俺も裕樹も露骨に好き好きオーラが出ていたはずなのに。


「意外でしたか」

「うん。好意は持ってくれるとは思ってたけど、なんとういうか、そういうのではないと思っていたから。自分で言うのもあれだけど、憧れ的な」

「もちろん憧れてます自負してください自信持ってください」

「ありがとう」

「返事を聞かせてくれますか」


 この早急な男め。せっかちな男は嫌われるぞ。心の中で野次を飛ばす。

 先輩はすぐに答えなかった。一秒、二秒、三秒。沈黙が降りて、ゆっくり、その頭が下げられる。


「ごめんなさい」


 優しい声。裕樹の瞳が、ぐらりと揺れるのがわかる。


「……やっぱり、オレじゃダメですか」

「ダメとかじゃなくて」

「じゃあまだオレにもチャンスありますか」

「恋人がいるので」

「こ」


 裕樹の裏声を久しぶりに聞いた。前に聞いたのはいつだっけ。確か、足の裏をこしょこしょとくすぐったときのはずだ。


「こいびと、いるんですか」

「キュート系のカノジョが」

「キュート系のカノジョ」


 もはやオウム返しになっている裕樹くんの顔はますます暗くなっていく。俺はただただビックリしていた。先輩に恋人がいたってもちろん不思議じゃない、というか、いて当然だとは思っていたけど、そういう噂を一度も耳にしたことがなかった。だから万が一、億が一の確率で裕樹が「恋人候補」ぐらいにはレベルアップしてしまうのではないかと冷や冷やしていたところもある。だけどその可能性も、たった今バサリと切り捨てられた。ひょっとすると、この間機嫌がよかったのだって、恋人といい感じなことがあったからなのかもしれない。それが何か想像するのは、そういう経験がない俺には至極難しいけれど。


「そう、だったんですね」

「もうその子が世界中の誰よりも可愛いものだから、私がこの先ほかの人のお付き合いする可能性はないかなって」

「なるほど」

「ごめんね。せっかく言ってくれたのに」

「いえ、あの」


 裕樹は少しだけ目を泳がせる。だけど、意を決したように改めて先輩と向き直る。


「ありがとうございます。恋人のこと、教えてくれて」

「長谷川くんが真剣に言ってくれたから、私も真剣に答えたくて」

「うれしい」


 と、そこで詰まって、「です」と裕樹は言う。だけど別に、顔が赤いわけでもない。いつもの澄ましたムカつく顔。


「恋人のこと、他の人に言わないようにします」

「そう言ってくれると思った。あ、でも、長谷部くんにも伝えてくれていいから」

「え、どうしてですか」

「だって長谷川くんと長谷部くんは、なんというか、あれでしょ」

「あれ?」

「にこいち」


 心底裕樹が嫌そうな顔をした。俺も同じ顔をしていると思う。だけど先輩は、優しく微笑む。


「私は、長谷川くんと長谷部くんの、いつも一生懸命なところが好きです」


 ちくりと、胸が痛む。

 先輩は優しい。素晴らしい人だ。だからこそ、たった今、裕樹と俺は失恋した。

 裕樹はお辞儀をして、俺が隠れている場所とは逆の方向へ去っていく。先輩はその姿を見送り、しばらくそのまま動かなかった。

 俺も帰ろうと身体を動かすと、なんというかまあ、お約束的な感じで、傍にあるポイ捨ての空き缶が足に当たった。カランカランと間抜けな音が響いた。


「……長谷部くん?」

「あああ……」


 思わず両手で顔を覆う。姿は見えてないはずなのに、俺だと言い当てられてしまった。これで逃げるわけにはいかない。

 おそるおそる顔を出すと、先輩は「やっぱり」と言わんばかりにゆるく笑った。


「長谷部くんは聞いてるんじゃないかって思ってた」

「すみません本当に申し訳ありません」


 まさか盗み聞きを予想されているなんて。俺ってそんな情けない男に思われていたのか。


「さっきも言ったけど、長谷部くんと長谷川くんは、にこいちだから」

「すみません、にこいちではないですけど、盗み聞きしていたのは事実なのですみません」

「そんな謝らなくても」


 逆にどうして先輩は怒らないんだろう。優しすぎるし心が広すぎる。なぜか先輩の方が申し訳なさそうに眉を下げた。


「私は長谷川くんのこと、傷つけてしまったし」

「いえ、そんな、先輩が気にされることは何も」


 そもそも、オッケーが貰える、なんて甘っちょろいことを裕樹は想定していなかっただろう。そんなことぐらい、頭のいい裕樹だってわかっている。

 それでも奴は先輩に告白をした。玉砕覚悟で。わざわざ、俺に期末テストで勝ってから。


「今夜ぐらいは涙で枕を濡らすでしょうけどね。まあ、それぐらいなんで」

「涙で枕を濡らす長谷川くんを想像できないけど……いつもクールだし」

「いやいや案外ロマンチストで弱虫ですから。あ、いや、だからって先輩が気にされる必要は、その」

「ありがとう」


 先輩が笑ってくれる。それでも申し訳なさは消えてなくて心苦しい。裕樹の心の傷はさておき、今は先輩の心労フォローをしたいところだ。なんと言えばいいものか。裕樹を説き伏せる言葉はいくらだって思いつくというのに。


「でも、あの、そう。今日は俺がちゃんとアイツを慰めるんで。晩ご飯に好きな餃子でも作ってやります」

「長谷川くん餃子好きなんだ」

「山ほど食べるのが好きなんです。ガキっぽいでしょ」

「そして長谷部くんは、長谷川くんに晩ご飯を振る舞ってあげるほど仲が良い」


 先輩は微笑ましそうな顔をして、対し、今度は俺がきょとんとした。その反応のズレに違和感を感じたのか、先輩は小さく首を傾げる。


「あ、基本的に晩ご飯は俺と裕樹が作ってるんですよ。今日はアイツの担当だけど、まあ今日ぐらいは俺が作ってやってもいいというか」

「…………。ひょっとして長谷部くんと長谷川くんって」

「はい?」

「一緒に住んでる?」

「え、はい」


 美しい目が見開かれる。

 あ、そうか。そういうことか。ポンと手の平を拳で叩く。失念していた。クラスメイトや先生には言っているし、小中学校ではそれなりに噂が広がったものだから、先輩にも話が及んでいるものだと思っていた。なんという自惚れだろう。

 目を泳がせる必要なんて何もない。後ろめたいことも何もない。だって、たったひとつの事実でしかない。


「俺と裕樹は『異母兄弟』なんですよ」

「え」

「で、なんやかんやあって、今、ひとつ屋根の下で暮らしてるんです」



■ □



 家に帰ると、裕樹の靴は放り投げたように玄関に散らばっていた。いつもはきっちり並べるくせに。拾っていつもの定位置に直してやる。鞄を置こうと自分の、自分と裕樹の部屋に行く。

 扉を開けると中は電気が尽いていない。日が暮れ始めたのもあって部屋は暗いけど、二段ベッドの下に裕樹が寝ていることはすぐにわかった。そっち俺のところなんですけど、と文句を言うのも面倒くさい。自分の勉強机に鞄を置く。二段ベッドに近づく。しゃがみこみ、布団に丸まった裕樹を指で一回つつく。


「生きてる?」


 返事はない。二回つつく。ダンマリ。五回つつく。ようやく裕樹が布団から顔を出す。ジロリと睨まれる。


「うわ目あっか」

「うるさい」

「泣いてる? ねえ泣いてる?」

「うるさいバカ」


 赤くなった目尻に触れる。ずっと泣いていたのか、まだ雫の感触がある。裕樹がここまで泣くのはいつ以来だろう。裕樹が初めてこの家に来たとき? 裕樹がこの家に住むことが決まって、この部屋に二段ベッドと裕樹の勉強机が来たとき? 出会った頃の裕樹は家で毎日泣いていて、だけど学校ではそんな素振りを一切見せなくて。小学四年生の俺はそんな裕樹がよくわからなかった。わからないことだらけだった。今はもうわかることだらけだと思っていたけど、でも。


「なんで玉砕するってわかってたのに告白したんだよ」


 ずっと聞けなかったことを、聞く。裕樹はしばらく黙って、にゅっと布団から腕を出して、なぜか俺をベッドの中へ引きずりこんだ。


「うわ」


 と言いつつ然程抵抗はしない。こういうことは、あまり珍しくない。裕樹は泣かないようにはなったけど、発作のように俺のベッドへ上がり込んでくるのは初めてではない。

 裕樹は俺の腹に抱きつくと、びくりとも動かなくなる。だけど、ぽつぽつと、裕樹の声が聞こえてくる。


「どうしても言いたくなったんだ」


 弱々しい声。


「先輩のことが好きで、すごく好きで、どうしても、伝えたいって思った」

「うん」

「こんな気持ち、初めてなんだ」

「うん」

「伝えたかった。先輩と恋人になりたかった。どうしても」

「うん」

「どうしてもだった、はずなんだ」


 ずず、と裕樹が鼻水をすする。俺は裕樹の肩を撫でる。

 俺と長谷川裕樹は、ほとんど同じだ。ほぼ同じ身長。成績。運動能力。同じ父親。同じ学校。同じ性別。同じ好きな女の子。

 だけど、たぶん。

 俺の先輩への気持ちは憧れに近くて、裕樹の先輩への気持ちは好きに近かった。だから水無月先輩に関して、俺と裕樹は勝負ができなかった。


「今回は俺の完敗だよ」

「なんで」


 鼻声が俺に聞く。


「あのあと先輩とちょっと話したんだけど、結局最後まで、俺は先輩に『好き』って言えなかった。勇気が出なかった。裕樹は言えたのに」

「うまく掛けられてないから」

「ほんとに、ダサい」


 裕樹が俺の腹に顔をうずめる。髪に触れる。俺と同じ髪質の猫っ毛。


「次は負けねえから」

「……これの次って何?」

「わかんねえけど」

「わかんないのかよ」

「でも、負けない」


 空いた手の方を伸ばす。裕樹の手に触れる。同じ形の爪。


「やっぱりお前には、負けたくない」


 裕樹は何も言わない。だけど、俺の手を振り払うこともない。

 変わらない事実。決してなくならない気持ち。

 俺と裕樹という、ふたりの人間について。



■ □



 「話すとちょっとややこしいんですけど」異母兄弟だと言ったあと、俺は前置きをする。だけど先輩は、帰る素振りもせずに話を聞いてくれていた。


「まず俺の父親が、友人に精子提供をしたんですよ。その友人が裕樹の父親なんですけど」

「それは『ややこしい』という表現でいいの?」

「本人たちが言っていたので」


 俺が苦笑いすると、「なるほど」と先輩は一応納得してくれる。やっぱり優しい人だなあ、好きだなあと思う。


「その友人、まあ、裕樹の父親ですね。その人の諸々の事情で、子どもが出来ない状況にあったみたいで。それでまあ、いろいろ信頼関係が深かった俺の父親に精子提供をお願いしたらしいんです。俺の母親と、裕樹の母親も大変仲がよかったみたいで、だから、お互いのちゃんと合意の上で」

「なるほど」

「で、まあ、色んなタイミングの関係で、俺と裕樹は同じ年に生まれて、DNA的には半分兄弟だし、せっかくだから名前も似た感じにしようって合わせたらしくて」

「うん」

「正直この辺あんまり流れ的にも気持ち的にも俺よく汲み取れてないんですけど」

「わかる」

「で、ええと、ただ、長谷川家は仕事の関係で長谷部家とは離れた土地に住むことになったので、裕樹とは小学四年生まで一度も会ったことなかったんです。裕樹の存在も何も聞かされてなくて、本当は俺が大人になったら話すつもりだったらしいんですけど」

「うん」

「で、小学四年生のときに、事故で裕樹の両親が死んでしまって」


 先輩が口をつぐむ。哀しそうに眉を下げる。先輩がそういう人で、俺は嬉しい。


「裕樹を引き取る親戚もいないって話になって、だったらうちが、って俺の両親が裕樹を引き取ったんです。そうして裕樹と俺は一緒に住むことになって、つまり、そこで俺と裕樹はようやく出会って」

「うん」

「正直に言うとですね」

「うん」

「距離感に大変困りまして」

「それは」


 おそらく「そうでしょ」と言いかけた口を止めて、「そうかもしれない」と先輩は言う。


「DNA的には父親が一緒で、でも母親は違って。名字も名前も似てるけど、でも別に養子になるわけじゃないから名字は違うままだし、『兄弟みたいなものだから』なんて急に言われても、そりゃ困るじゃないですか」

「うん」

「裕樹は両親が死んだショックで家では塞ぎ込みだし、夜な夜な一人で泣き出すし、でも学校では何でもないような澄ました顔するし」

「……長谷川くん泣くんだ」

「意外ですか」

「正直、少し」


 やはり先輩の中でも裕樹のイメージはクールだったらしい。よかったな長谷川裕樹。その気になったらあとで教えてやろう。


「小学四年生に頑張ってみたんですよ俺なりに。優しくしてみたり、慰めてみたり」

「うんうん」

「でも、どれも冷たく拒否されるし、『うるさい』『近づくな』しか言わないし」

「それは……」

「腹立つじゃないですか」

「んん」


 親が亡くなった後、というのが先輩の良心を揺さぶっているのだろう。真剣に悩む様子は新鮮で、場違いながら嬉しくなってしまう。


「たぶん、裕樹も同じだったと思うんですよね。どうすればいいかわからなかったんですよ。突然両親がいなくなって、DNA的には父親だっていう人の家に連れて来られて。それで急に『兄弟』とか『家族』とか言われたって、しっくりこない。でも似たような名字と名前の俺と遺伝子は半分同じで、一緒に住んでいるわけだし、『友だち』っていうわけにもいかない。ただの『知り合い』にも『他人』になんてもうなれない。別に嫌いなわけじゃないけど、好きかと言われれば何とも言えないし、どうにもそりが合わないし、話をすれば言い合いばっかになるし。だから、こう、何をどうしても噛み合わないというか、しっくりこなかったんです」

「うん」

「で、何が俺たちの気持ち的にしっくり来たかというと」

「うん」

「『全力でぶつかり合うこと』だったんです」


 後に「餃子事件」と俺が名付けた記憶を思い出す。

 裕樹が長谷部家に来て一ヵ月が経った頃。その日の晩ご飯は餃子だった。休日だったから、両親と俺と裕樹が揃っていて、四人分の餃子がお皿にずらっと並んでいた。俺はいつものように裕樹に「うるさいバカ」と言われたばかりだったので大変虫の居所が悪く、裕樹は俺に「うるさい根暗」と言われたばかりで同じく腹を立てていた。だからどっちが先に手を出しても不思議ではなかったけど、始めたのは俺からだ。裕樹が箸を伸ばしていた餃子を、サッと取って、パクッと食べた。子どもにありがちな、小さな嫌がらせだ。わざと裕樹が取るつもりだった餃子を狙った。ニヤリと笑ってみせた。裕樹の眉間に皺が寄る。呑気な両親は俺たちの間に散る火花に気づいていなかったことだろう。それがこれから何年も続くことも知らずに。

 裕樹のムッとした顔に気を良くした俺は、続けて二個目の餃子を食べようと箸を伸ばす。すると、取ろうとした餃子が、サッと別の箸に奪われる。もちろん犯人は決まってる。裕樹はこれみよがしに大きな口を開けて、パクンと餃子を食べた。ニヤリとされる。カチンとくる。俺が餃子を取って食べる。裕樹も餃子を取って食べる。睨み合いながら、ひたすら餃子を食べる。両親が異常事態に気づいたのは、皿からすっかり四人分の餃子がなくなった後だ。「あらあなたたち二人で全部食べちゃったの」「おい父さんも食べたかったのに」「俺は二十一個食べた!」「嘘つけオレが二十二個食べたんだお前は十九個だろ」「ふざけんなお前が十九個」「違うお前が」お母さんお父さんの分も食べるんじゃない、と叱られた後も、俺たちは睨み合った。そして、そのとき初めて、「しっくり」来ていることに気づいた。この日のことを裕樹と話したことはないけれど、裕樹も同じだったに違いない。次の日は学校までダッシュで競争した。先生に当てられる速さを競った。テストの点数で張り合った。

 勝ったら嬉しい。負けたら悔しい。気を遣わずに全力でぶつかり合える。素直に怒ったり笑ったりできる。


「言い争いするのも、反りが合わないのも変わらない。俺たちは兄弟だけど兄弟になりきれない。幼馴染でも友だちでもない。だけど俺たちは、『ライバル』になれたんです」


 と、そこまで話して、俺はハッとする。随分長々と話してしまった。そもそもは異母兄弟の事情を話すだけでよかったのに。

 先輩を退屈させてしまわなかっただろうか。不安になって表情を窺うと、きりりとした目が俺を見つめていた。めちゃくちゃドキマギしてしまう。


「す、すみません。つまらない話をして」

「つまらなくないよ」

「本当ですか」

「長谷部くんも長谷川くんも、いつも見ていると楽しい」

「本当ですか」

「私も二人みたいに、カノジョと全力でぶつかり合いたいな」

「それはどうでしょう」


 先輩と見知らぬ女性がぶつかり合っている姿はまったくもって想像できない。


「カノジョさんと、こう、あまり本音で話せない的なご関係なんですか」

「そんなことはないよ。でも、あまりにもあの子が可愛いから、私が可愛がり過ぎるというか、だから気を遣わせちゃってる節がある」


 カノジョを可愛がっている先輩。可愛い。絶対可愛い。

 そこで、先輩は小さく微笑んだ。優しく、俺に向かって。


「ありがとう、長谷部くん。あなたたちのこと、教えてくれて」

「……うあ」


 自分でもなんとまあ情けない声を出してしまったと思う。なんなら勢いで「俺も先輩が好きです」と言ってしまってもよかった。でも言えなかった。それから俺は裕樹が異母兄弟という事情は、聞かれれば普通に話すようにしていること。だから先生やクラスメイトにも話していること、一応同じ年だけど俺が先に生まれたので俺が兄らしいです、という旨を伝えた。だから特別秘密にする必要はないですよと言ったけれど、「じゃあ私も聞かれれば答えるだけにする」と先輩は言ってくれた。やっぱり好きだなあって思ったけど、やっぱり口にはできなかった。



■ □



「今日は俺が晩ご飯を作ってやろう」

「なんで」


 腹からくぐもった声がする。裕樹が俺の腹に顔をうずめているからだ。そのまま喋られるとちょっとくすぐったいからやめてほしい。首筋をくすぐってみるが、負けじと腹にぐりぐり顔を押しつけられる。


「俺が負けたし、まあ、今日ぐらいは労わってやろうと」

「ふうん」

「餃子でいい?」


 返事はない。オッケーということだろう。四十一個作れば必ず勝敗はつけられる。どうせ俺が作ろうとすれば、裕樹も手伝うだろう。それで、どっちが多く作れるか勝負になる。いつものことだ。


「長谷部裕太」

「あんだよ」

「うるさい」

「はああ?」

「うるさいバカ」


 理不尽だ。大変よく覚えがある。小学四年生のとき。俺と裕樹が初めて出会った頃。

 水無月先輩―――クラスメイトや蘭にも、ひとつ秘密にしていることがある。

 嘘はついていない。裕樹は俺が優しくしても「うるさい」「近づくな」しか言わなかった。そして、家では塞ぎ込み、夜な夜な一人で泣いていた。二段ベッドが俺の部屋にやってきて、上のベッドから、裕樹の泣く声が聞こえた。俺はどうしたらいいかわからず、下のベッドで寝転がっていることしかできなくて。

 そうすると、裕樹が突然下に降りてきた。更に俺のベッドの中に入って来た。驚いたけど、泣きはらした顔に「入ってくんなよ」と言えるほど、俺は裕樹のことが嫌いなわけではなかった。裕樹は布団ごと俺に抱きついてきて、そのまま動かずにまた泣き始める。俺は迷った。どうするべきか。親を呼ぶべきか。引き剥がすべきか。迷って、迷って、そのとき裕樹は、「お母さん」と言って、それから「お父さん」と言った。

 俺は、裕樹の頭を撫でた。それしか思いつかなかった。裕樹はそれから泣き続けた。俺は頭を撫でつづけた。それでようやく心が落ち着き、二人とも眠ることができた。

 それから裕樹は、学校ではツンケンして俺に近づこうともしないのに、家の中では俺にピッタリくっつくようになった。俺が優しくしようと邪険にしようと「うるさい」「近づくな」と言うのに、裕樹の方から俺にくっついてきた。親はもちろん心配した。俺ももちろん心配した。そんな状況が毎日のように続いた。

 だからこそ俺たちは、俺たちの関係に悩んでいた。このままでいたら、何かよくないことが起きてしまうんじゃないかと思った。その「よくないこと」が何か、俺には未だよくわかっていないけれど。

 そして、あの餃子事件が起きた。しっくりきた。これだと思った。

 俺たちが「俺たちらしいまま」でいられる方法を、俺たちは見つけた。


「長谷部裕太」


 裕樹が俺の名前を呼ぶ。

 餃子事件が起きてからも、裕樹のこの発作のような行動はたまにある。「ライバル」という方法を見つけたけど、今日みたいな心に辛いことがあると、親がいないときを見計らって俺にくっついてくる。おそらく親が仕事から帰ってくるまで、今日はこのままだ。


「なんだよ」

「絶対裕太には負けないから」


 裕樹が言う。俺も言う。


「絶対、裕樹には負けない」


 負けたくない。

 俺たちは兄弟だけど兄弟になりきれない。幼馴染にも友だちにもなれない。俺たちはほとんど同じで、あまりに近すぎる。心を許しきってしまえば、この関係はすぐに崩れてしまうだろう。

 でも俺は。絶対言わないけど。

 俺は裕樹と闘うことが楽しいから。俺のライバルである長谷川裕樹が、結構好きだから。

 そしてたぶん、裕樹も。


「絶対言わないけど」

「何が」

「秘密」

「ムカつく」

「はっはっは」

「癪に障る」

「餃子作ってこよ」


 ムクリと起き上がると裕樹も起き上がる。ベッドから出て、二人でキッチンに行く。

 今日は餃子を一緒に四十一個作る。まずどっちが多く作れるか競争する。二十個は両親に取っておいて、二十一個で早食い競争をする。両親が餃子を食べて「美味しい」って言ってくれたら、「どっちの作った餃子の方が美味しい?」って聞く。そして本日の勝敗の反省をしながら、俺は二段ベッドの下で、裕樹は上で眠る。そして次の朝には、また高校まで走って競争する。

 全力でぶつかり合う。勝てたら嬉しい。負けたら悔しい。

 そうやって、長谷部裕太と長谷川裕樹は一緒にいる。


「タネ作れたか裕樹」

「ばっちり」

「皮も用意できた」

「フライングすんなよ裕太」

「そっちこそ」


 ボウルに山盛りの餃子の具を用意して、二人とも手は膝に置く。

 よーい、と俺が言う。じりり、と俺と裕樹の間に火花が散る。


「―――どんっ」


 勝負が始まる。

 裕樹は相変わらず、ツンとした素振りだけど。

 その目が俺と同じであることを、俺はよく知っている。

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