幼児期の世界

 冒頭にも書きました。たぶん感覚のチューニングさえ合えば、誰もが視えるし感じるのです。

 この説でいくと大概、幼児期には怪異が視えている可能性が、高くなります。幼児期は常識というフィルターがかかっておらず、柔軟な五感の世界が広がっているからです。

 勿論、断言は出来ませんし確証も無く、あくまで私の見解でしかありませんので、ご了承ください。


 『最初の記憶』の中で、私は影を見ていたと書きました。影は部屋の隅に佇んでいるだけではなく、色々な場所に出没しました。

 常に視えているというより、気づくと視える、という感じだったでしょうか。感覚の波長が合った瞬間に、視えていたのかもしれません。

 そんな調子だったので、私は視えるのが当たり前だと思っていました。


 当たり前じゃないと気付いたのは、幼稚園に入ってからでした。

 園庭や部屋に居る影を、同じ組の園児の大半が、見えないと言ったのです。影の話をすると決まって、こんな答えが返りました。

「そんなの居ない」「幽霊視えるの怖い」「嘘だ」「嘘つき」「気味悪い」

 否定的で攻撃的な言葉に、私は視える事実は話すべきではないと、気付きました。

 私と同じように視える、もしくは感じる子も居たのですが、それを得意気に話すような子は居ませんでした。


 園児が否定的な発言をしたのは、親や周囲の大人に、自分も否定をされてきたからではないかと考えます。

 視えていたのに頭ごなしに否定をされてしまう。

「そんなの居ない。そんなことを言うな。見間違いだ、気のせいだ」

 否定されることで、幼児は感覚を閉ざしてしまうのではないでしょうか。

 だから、視えなくなるのだと思うのです。


 視えたり感じたりしなくなることが、幸か不幸かはわかりません。

 ただ、元々あった感覚を失ってしまうことで、平穏な日常が成り立つのも確かです。

 常に視える感じるというのは、例えれば同時に何チャンネルもの放送を、見て聴いている状態です。心や脳にかかる負担は大きいと感じます。


 幼児期の無秩序で柔軟な世界から、大人と同じ常識に制約された世界へ。視えなくなるということは、そういう事ではないかと私は考えています。


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