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 ぎぃ、とあちこちに錆が浮いた金属製のドアがゆっくりと開くと、かなめがボイラー室から息を弾ませて出てきた。額には幾つもの珠のような汗が浮かび、それが合わさると顔を流れ顎を伝い地面にぽとりと落ちる。その顔はかなり赤い。


 原油価格が上昇し灯油は勿論のこと重油や廃油さえ経営を考えると購入出来なくなったふじの湯は、昔ながらの薪や建築廃材などを利用して湯を沸かしている。燃料油に比べると安価であるが、燃料ポンプを使用して機械的にボイラーの温度を操作できないのが難点ではある。薪が重たい、薪割りが大変、スペースを取る等他にもデメリットはあるが価格には変えられず目を瞑るしかない。


 そしてかなめは今、一時間に一回のボイラーに薪をくべる作業を終わらせたところだった。


 肩に掛けられたすすまみれの手ぬぐいで一度顔の汗を拭うとやや温かみを感じるドアから離れ、手ごろな高さの何らかの機械の上に置かれていた五百ミリリットルのペットボトルを奪い取るように乱暴に掴むとキャップを外し、中の水を一度に飲み干した。


 ふぅ、と短く息を吐きかなめは電球がいくつか切れたままで薄暗くなっている燃料室で自分の身体を眺める。短パンにランニングシャツ、肩には先ほどの手ぬぐいが掛けられているがそれらは漏れなくすすにまみれ汚れている。

 籐の籠に準備をしていた新しい短パンとランニングシャツに手早く着替えると肩から手ぬぐいを外し浴場へと戻って行った。


 ***


「かなめちゃん。明日休みだよな?店に顔出しな」


 流しの最中、沼田さんは肩をマッサージするかなめに向って背を向けたままそう言った。そろそろ営業時間も終わりを迎えようとしているため、浴場に残っているのは何時も最後まで浴槽に入っている長湯で難聴気味の柴山さんだけなのだが、その声は気を付けなければ聞き逃してしまうほど小さかった。


「有難う御座います沼田さん。昼過ぎには顔を出せると思います」


 かなめはマッサージを続けながら沼田さんの顔に近付けると声を潜めて返事をした。沼田さんは真面目な表情で小さく頷いた。

 その後は不自然なほどの沈黙を保ちながらかなめのマッサージが続いた。何時もはあれやこれやと世間話が飽きることなく続くのだが、このときは二人真面目な顔で沈黙を貫いていた。


 やがてマッサージが終わりかなめは小さく「お疲れ様でした」と声を掛ける。沼田さんは再び小さく頷くと一度掛け湯をすると脱衣所に戻って行った。


 ***


「いやー!かなめちゃん良いねあれ!若い頃見た探偵ドラマみたいでさ!」

「沼田さんの表情もいい感じでしたよ。俳優としてもやっていけるんじゃないですか?」

「お!上手いねかなめちゃん!学生時代に演劇部に所属してた俺の演技力分かっちゃった?」


 脱衣場では沼田さんが一糸纏わぬ姿でかなめの肩を上機嫌でバンバンと叩いている。先ほどまで潜めていた声はどこへやら、女湯の脱衣場まで聞こえそうなほどの声量でがはがはと笑っている。かなめが思わず顔をしかめそうになった程の騒音だったのだが、柴山さんは何事もなかったかのようにブリーフに足を通していた。

 「聞こえない」とは時として鉄壁の防御にもなりえるのだと、口うるさい嫁に対しての対応策を周囲に伝えていた立石よう子さんの顔が脳裏に浮かんだ。正しい意味は聞こえない振りをしろ、であるのだがこの場合には正しいような気がした。


「保樹が話しだけは聞いてみるって言ってたぜ。良かったな」

「何から何まですみません」

「本当はここに来いって言ったんだけどよ、人前で話せる話じゃねぇからって断りやがってな。あいつの家まで送って行ってやることにしたわ。今度何か買ってけよ」

「重ね重ね有難う御座います」

「たまには売り上げに貢献しろや」

「肝に銘じておきます」


 苦笑したかなめにタバコの脂でやや黄色くなった歯をむき出して沼田さんが笑い返した。


 ***


 沼田さんと柴山さんが最後の客として出て行った後片付けなどの雑務を終わらせてかなめは少し温くなった浴槽に身体を沈めていた。湯温のコントロールがまだまだ完璧ではないようだ。先代に追いつき追い越せるようになるにはまだまだ時間が必要なようだと実感させられる。


 明日はふじの湯の定休日、すなわちかなめの休みの日である。予定は決まったのだ。後は疲れた身体を少しでも休めておこうと湯の中で大きく伸びをした。「流し」や薪割り、その薪をボイラーに投げ入れるなどの労働で凝り固まった筋肉がゆっくりとほぐれていくのが実感できた。


「っあー」


 思わず何時もの声が漏れる。浴槽の淵に腕をかけてその上に顎を乗せると目を閉じる。至福の時間だ。

 目を閉じると仕事に戻って行く涼の姿を思い出す。道中で食べるように持たせた弁当はちゃんと食べてくれただろうか。ちゃんと泊まる宿は手配しただろうか?仕様もないことばかりが頭に浮かび思わず苦笑をする。


 涼は今九州にいるらしいが福岡の空港から新千歳の空港に向っているらしいと宮崎さんの奥さんが「こっそり」と教えてくれた。どうやらこの町の高齢者は最近スマホによるSNSを活用した全国ネットワークを構築中らしい。

 ちなみに宮崎さんの奥さんが言う「こっそり」とは自分の中だけでの表現であり、その声はトーンダウンしても見事に女湯全体に響き渡りご婦人達から大層からかわれた。


 次に脳裏に浮かんだのは風呂に入っていないと言い出した涼が、かなめは普段使っていない自宅の風呂に入った後、元々化粧っ気のない顔からうなじの辺りにまでかすかに朱が差した普段とは全く違うなまめかしい表情だった。無論パジャマに着替えてはいたが思わず唾を飲むほどだったことは記憶にも新しい。

 お陰でその後良い玩具になってしまったのは言うまでもない。多くは語るまい。


 頭を振って目を開けたかなめの横にはざんぎり頭の小学生ほどの男の子がいつの間にか湯に浸かっていた。気持ちよさそうに目を閉じている。良く見ると目を閉じているのではなく眠っているようだった。

 かなめは起こさないように静かに浴槽から上がると、その男の子に軽く一礼をして脱衣場へと歩いていった。あかなめと呼ばれる彼が来た今日は掃除が必要ないのだから。

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