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アーケード街を出ると陽はだいぶ傾いていた。かなめの腕時計の針は六時を回っている。
「ねぇこの後はどうするの?」
「そうだねぇ、今日はもうすることはなさそうかな。沼田さんが松本さんに連絡を取ってくれるみたいだからそれ待ち。お茶でも飲みに良く?」
「あ、もしかしてあの店?なら行くかな」
「よーし決まり。一休みしようか。その後ご飯食べるから食べ過ぎるなよ」
「分かってるってば。ホットサンドとホットドッグしか食べないから」
「まるで分かってないように聞こえますがね」
二人はぶらぶらと歩きながらアーケード街を抜け駅前に出る。丁度列車が駅に入るようで遠くからは踏み切りのベルの音が聞こえている。既に外灯がぼんやりとオレンジ色の明かりを灯していた。
何人かの買い物籠をぶら下げたご夫人達に挨拶をしながら、線路沿いの細い道を進むと一軒の喫茶店が姿を現した。
二階建ての木造のアパートの一階に「鳳梨館」と消えかかった文字で書かれた木製の看板が下がっている。豆の焙煎中なのか煙突からは真っ白い煙とともに香ばしい香りが辺りに広がっていた。
かなめがドアを開け涼を先に入るよう促す。開いたドアからは濃密なコーヒー豆の香りが流れてきた。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです」
四、五人が座れるカウンターと四人掛けのボックス席が二つだけの小さな店内。以前は白かったのかもしれない壁紙や木製のテーブルとスツールは、長年の豆の焙煎の煙で燻され飴色になっていた。ダウンライトに照らされた店内にはマスターの趣味なのだろう、静かにジャズが流れている。二人の他には客はいないようだ。
カウンターの中には白いワイシャツの上に紺色のベストを着た少し背が曲がった初老の男性が優しそうな笑みを浮かべて立っている。ここ「鳳梨館」のマスターだ。
「空いていますので何時もの場所で構いませんよ」
「じゃあ失礼します」
後ろ手にかなめがドアを閉め、涼と一緒に一番奥にある四人掛けのボックス席に座る。直ぐにマスターが、磨かれ続けて鈍く銀色に光るトレンチに氷水とおしぼりを二つずつ乗せてやってきた。そして流れるような動きでテーブルの上に氷水とおしぼりを並べるとトレンチの下からメニュー表を取り出す。
「今日のコーヒーはモカですが……いかがいたしますか?」
「俺はサントスで」
「私はスペシャルブレンド。ホットドッグとホットサンドもお願いします」
「あーマスター。この後ご飯食べに行くからホットドッグは無しで」
「食べれるって」
「マジ太るって」
「憶えとけよ」
底冷えするような涼の声を受け流しながらかなめがマスターの方を向くと、マスターは笑顔を返してカウンターの中へと戻って行くと手早くサイフォンのフラスコに水を入れ火にかけた。しばらくすると美味いコーヒーが飲めるだろう。
涼はと言えば頬杖を付いてかなめのことを半眼でにらんでいる。
「……悪かったってば。そう怒るなよ」
「怒ってない」
「はいはい、分かりました」
かなめは肩をすくめるとテーブルに置かれた氷水を一口飲むと窓から外に目を向ける。もう大分暗くなった辺りは随分と人通りも減ってきている。
しばらく外を眺めていると線路と歩道の間のフェンスの上に一羽のカラスが降り立ち、毛づくろいを始めた。
「お待たせしました。ブラジルサントスとスペシャルブレンドです。ホットサンドはもう少しお待ち下さい」
その時丁度マスターがトレンチにコーヒーカップを二つ載せてテーブルの前へとやってきた。ダブルローストされた豆から抽出したコーヒーがテーブルに並べられると、強い香りが立ち昇り鼻腔をくすぐる。かなめはテーブルに置かれたコーヒーカップに目をやると笑顔を浮かべてマスターに軽く頭を下げた。
小さく一礼してマスターがカウンターの中へと戻って行く。もう一度窓に目をやるとカラスは既に何処かへ行っていた。
「マスターのコーヒーは絶品だよね。普段インスタントしか飲まない私でも分かるわー」
涼は早々にコーヒーカップに口を付けていた。笑顔でいるところを見るとどうやら機嫌は直ったらしい。かなめも一口コーヒーを飲んだ。
酸味は弱めで苦味が強い。かなめは自分好みのコーヒーに思わず笑みを浮かべる。銭湯の常連さんに教えられてこの店に来たのは本当に正解だったなぁとしみじみ思い返していた。涼も「鳳梨館」のコーヒーはお気に入りらしく、時間があれば時々顔を出しているようだった。ただ最近は二人で来ることが殆どだ。
「マスターのコーヒー美味いよなぁ」
そう言ってかなめがもう一口コーヒーを飲もうとカップに口を付けたとき、向かいに座る涼の目がイタズラを思いついたように楽しそうに輝いた。嫌な予感しかしなかったが、かなめは淹れたてのコーヒーを口に含む。
「今度ふじの湯行ってかなめに「流し」でも頼んでみるかな」
涼がそういった瞬間かなめはコーヒーを見事に噴出していた。カップを持っていない左手で口元を押さえられたのは奇跡だろう。手のひらの隙間からは琥珀色の液体が漏れ出していた。
「勿体ない。それにそんなに驚かなくても良いじゃない」
かなめは気管に流れ込んできたコーヒーでむせ返り何も反論することも出来ない。差し出されたおしぼりで手とテーブルを綺麗に拭き取ると、時折咳き込みながら涙ぐんだ目で涼を見上げる。してやったりと言わんばかりの顔をして涼はかなめの頭を撫で始めた。
「おまえなぁ。いきなりそういうこと言うの反則だろ」
「あんたの売り上げに貢献してあげようと言う私の優しさじゃない」
「全然優しくねぇよ……」
「私の裸見れたら嬉しかろうに」
「……勝てねぇよ」
マスターが静かにやってくると、琥珀色に染まったおしぼりを回収して素早くテーブルを乾拭きする。間もなくホットサンドが乗った皿をテーブルに無言で置くと、一礼してカウンターの中へと戻って行った。少しだけ肩が震えていたように見えたのはかなめの気のせいか。
コンビーフと卵が挟まったホットサンドに手を伸ばしながらかなめは溜息を吐いた。
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