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大久保かなめは銭湯が好きだった。
何時からといわれれば分からないと答えるだろう。気付いたときには既にその魔力に取り付かれていたのだから。
父と母、そして姉との四人が住むには十分な家には勿論風呂はあったのだが、事ある度にかなめは銭湯に行きたいと駄々をこね家族でこのふじの湯に通っていた。そして先代三助、つまりはかなめの師匠となる男に出会った。
大好きな銭湯の中、笑顔で大きな大人の背中を洗い流す姿が誰よりも輝いて見えた少年は、見よう見まねで先代の真似をしていた。背中を突然洗われる大人たちも分かったもので「こりゃあちいせい三助さんだ!」と見え透いたお世辞を言いながらも暖かくその光景を見守っていた。褒めてもらったことが嬉しくなったかなめは「僕も立派な三助になる!」と息巻いていたが、周りの大人は勿論子供の言うことだと当てにしてはいなかった。まぁ中学卒業前に先代に土下座をする勢いで弟子入りを志願する姿を見たときにはその考えを改めることになったのだが。
それからかなめは自宅で風呂に入ったことが無い。雨の日も風の日も、吹雪の日も欠かさず毎日銭湯へ通っていた。銭湯に通ったことの無い近所の人や友達にもドン引きされてしまう位に。
数日家を開ける家族旅行などの際には、かなめは家族がどのように説得をしても頑として首を縦に振らず家に残ると言い張った。結局番頭の菊さんに息子を頼みますと平謝りをして行った程だ。中学や高校の修学旅行は生徒会長にまで上り詰め、文化交流と称して目的地を温泉地に変えてしまったことは地元では伝説となっているらしい。
同窓会などに参加をすると、かなめを見ながら行動力のある馬鹿(と天才は紙一重)とは恐ろしいと、同級生たちは口をそろえて言っていた。
「その手に持ってる汚い人形はなんなの」
「あ、これ?預かり物」
今日は銭湯が休みのためかなめも休みだった。
かなめは休日には必ずふじの湯の向かいにある食堂で食事をとることにしていた。木造二階建ての一階が店舗になっている昔ながらの夫婦経営の食堂だ。和洋中何でも御座れのメニューの中からかなめはラーメンと豚肉のしょうが焼きとビールしか頼んだことは無い。
かなめのラーメンが置かれている、少し油で変色した二人がけテーブルの向かいには、水色のキャップを被った女が座りサンドイッチを食べながら首を傾げている。デニムジャケットにジーンズとラフな格好をしていた。
菅野涼。二十九歳独身。かなめと同じように今では珍しいペンキ絵師という銭湯の壁に絵を書くことを生業としている女だ。ふじの湯の壁面画の改修の際に知り合った仲で、それからこの食堂でお互い約束をすることなく顔を合わせるようになっていた。
キャップから流れるように落ちている黒髪が彼女の自慢らしい。その容姿は控えめに言っても美人だろう。
「良かったわ。あんたが人形持ち歩くような趣味持ってなくて」
「別に人形くらい持ってても良いんじゃない?持ち主が聞いたら怒るかもしれないってば」
「あんたがそれ以上変な趣味持ってたら付き合いきれないわって意味」
「あ、ひでぇ」
かなめは人形をテーブルの上に置いた紙ナプキンの上に優しく置くとラーメンをすすり始める。
(鶏がらをメインに甘さをギリギリ感じられるほどの絶妙なバランスで野菜から抽出したうまみで割ったこの塩ラーメンは絶品だ。具材はメンマとなるとと長ネギだけ。自慢の鶏がら出汁を存分に味わって貰うためのシンプル設計だ。野菜の甘みは必要だが多すぎれば鶏がら出汁の切れ味を曇らせる。まさに大将のセンスが光る一品だ)
「あ、またラーメンの薀蓄語ってたよね。黙って食ったほうが麺延びないと思うけど」
「うっさいなぁ。涼もコーヒー早く飲まないと冷めちゃうよ」
(あのコーヒーは……)
かなめが豆の原産地からローストの方法を頭に思い浮かべると同時に涼はコーヒーカップに口を付けるとそれを一気に飲み干し、かちゃり!と音を立ててソーサーに戻した。口を付けた跡には薄っすらと桜色の口紅の後が残っている。
「はーいごっそーさーん」
「やめなよ。親父くさいってマジで」
げっぷだけはしてくれるなよとかなめは溜息を吐きながら残ったラーメンを食べはじめる。
その願いが届いたのかげっぷはしなかったがテーブル上の爪楊枝を一本取り出すとどこぞの親父のようにシーハーやりだした。思わずかなめは溜息を吐いていた。
残念な美人。菅野涼はこの小さな町でそう呼ばれていた。
とは言え、口紅がコーヒーカップに残るのは休日のこの時間だけなのさ、とおかみさんがニヤニヤと笑いを浮かべているのをかなめはまだ知らなかった。
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