ーお話が始まる前のお話ー

 銭湯とは身体を洗い流すだけの場所じゃねぇ。魂の洗濯をやる場所なんだよ。

 今はもういない先代はいつもかなめにそう言って聞かせていた。勿論かなめは先代の話をまじめに聞いていたし、そう誇らしげに語る先代がかなめの誇りでもあった。


 だが、先代の言葉の本当の意味を知るまでには暫くの時間を必要とした。


 先代が心臓発作で鬼籍に入り、その後を継いでから三年ほどした頃からだろうか。営業時間が終わってから今のように浴槽に入っている時に脱衣場に人影が見えたときには心臓が飛び出そうなほど驚いたものだった。強盗かと思い辺りを見回し、浴槽の中で腰だめになり黄色いプラスチックの桶を両手に構えたのは今では忘れたい記憶だ。前も隠さずカタカナ四文字が書かれた黄色い桶を両手に持つ姿はどうやらある方面で語り草になっているらしい。


 その人影は今ならシルエットだけで分かる福さんだった。今日と同じように疲れきった顔をしてタオルで前を隠しながら浴場に入ってくると、呆然としているかなめを無視して掛け湯で何度か体を流し柚子湯に身体を沈めた。


「あー……生き返るねぇ。お若いの、怪しいもんじゃないから桶下げて体温めなよ」

「あ、はい」


 呆然としながらとりあえず桶を戻し、心臓をバクバクさせながら湯に浸かっているとまた脱衣場に影が見えた。そのシルエットは大型犬ほどもある大きな猫。前足で顔を舐めている様子が見えるとかなめは思わず立ち上がり猫の影を指差した。


「おじさん!おじさん!あれ!あれ!」

「あれは多分柳さんちの猫だから大丈夫だよ」

「何が!?」


 銭湯に猫はアウトだろう。そもそも今は営業時間外で隣の福さんもよくよく考えるとアウトなのだが、猫に比べるとまだギリギリ常識の範囲内だ。


 直ぐにからから、と音を立ててガラスの戸が横に開かれた。大きな猫が前足を使い可愛いしぐさでガラス戸を器用に開け、浴場に入るとまた器用に前足でガラス戸を閉める。


 かなめはその様子を目をむいて眺めていた。

 ゴールデンレトリバー程のサイズの猫はゆっくりと洗い場迄来ると器用にまた前足でシャワーのコックを下げた。ノズルから流れるお湯に暫くあたっていたかと思うと、猫パンチの逆再生のような感じでシャワーのコックを上げてからぶるぶると身体を震わせ毛に染み込んだ水分を飛ばしていた。多分掛け湯のつもりだろうか。


 そうしたら次は決まっている。まっすぐに柚子湯に向い歩いてくるとちゃぷん、とその身体を頭から沈めると直ぐに態勢を入れ替え前足二本を湯船の淵に掛け態勢を安定させていた。


「にゃー」


 なるほど、動物も声出るんだ。

 真っ白な頭で考えられたのはそこまでだった。かなめはぎこちない仕草で浴槽から上がるとタオルを手に取り逃げるようにして浴場を後にした。


「兄ちゃん、またな」


 その言葉は案外直ぐに叶えられることになり、そこからかなめと福さんの長い付き合いが始まった。

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