無題
@takosio
無題
【1】
良夫(よしお)はその街に座っていた。
もう、根本的に疲れていたのかもしれない。何に疲れていたのか。なんだろう。もうそれすらもよく思い出せない。
思えば、平凡な人生だった。
学生時代は目立つグループにいた。スクールカーストというものがあるならば、上の階層の人間だったと思う。ただそれは学校という閉じられた空間でのみ意味をなすものだった。大学に進学してからは、スカウトされて始めたホストクラブでの仕事にどっぷりとハマったこともあった。そこで知り合ったAV女優のヒモになっていた時期もあった。その後復学はせず、歌舞伎町でスカウトマンをやりながらIT系のフリーランスとして働いていた。20代前半で不労所得を構築した。フランクミュラーという高級時計も買ったしブランド物で溢れていた。隣には整形をした量産型美人の女がいた。まがい物の幸せに向かって、迷うことなく走っていた。仕事がうまく行かなくなって、知り合いのAV関係の社長さんの元で何件か撮影をしたこともあった。そのあたりから良夫は自分が何がしたいのか分からなくなっていた。ある日、撮影で女優を後ろから突いているとき、――よりによって何故その瞬間なのか良夫自身にも分からないが――あの時の情熱とか、色々なものが既に失われていると唐突に気付き、もう限界だと知って、すべてを投げ出した。それから良夫は枯れた花のようになっていった。何をするでもなく、まるで死に場所を探すかのように各地を転々とする生活が何年も続いた。居場所を探していたのかもしれない。けれども、いくら放浪してもそれはついに見つからなかった。そうして良夫は静かに、しかし確実に、自分の中へと退却していった。そこから這い上がることができれば、これまでの経験も無駄ではなかったのかもしれない。今の自分を肯定出来ていれば、それも笑い話の1つとして披瀝することができたのかもしれない。ただ良夫の場合は、そうはならなかった。人生に賞味期限があるのだとすれば、良夫の場合はどこかで線が途切れたように、プツリと終わってしまったのだ。人生には誰しも打ち上げ花火のような時期がある。花火が打ち上がった後の良夫の人生は、全体を俯瞰すれば、やはり平凡な人生だったのだ。
現在、この国ではBI【ベーシック・インカム】という制度が導入されている。
BIとは簡単に言えば人間が健康で文化的な最低限度の生活を送るために必要なお金を、国が支給する制度のことだ。
当初、日本全国から無作為に選ばれたいくつかの地区で試験的運用が試みられた後、施行するに至った。
BIは夢の制度だと言われていた。お金による機会均衡性を担保することによって、誰もが自分の好きなことができる社会を実現出来る。そう述べる識者も多かった。ただ結果的に、世界はそうはならなかった。
BI導入後、一時的には識者の言う通り法人格の増加、つまり何かしら自分で仕事をおこしてみる人も多かった。だが、導入後3ヶ月から半年もすれば、その数字は軒並み減少し、結果的に以前と変わらず嫌々満員電車に乗りながら会社勤めをする人々の光景が広がった。そればかりかBIによる金銭支給があることによって、引きこもってなにもしない人々が大量に跋扈するようになった。この結果はBI制度の崩壊をもたらしそうなものだが、相対的にBIに頼らず生きていく人の賃金料を増加させ、そうではない人々との格差が広がるというのみに留まった。そして現在BI制度は、富裕層を相対的に富ませるための装置として皮肉にも稼働している。魂の抜け殻のような、生ける屍を大量に生み出したまま。
午後11時45分。
そろそろ終電もなくなるなあと、良夫はぼんやりと時計を眺めた。家に帰ったとしても、特に何もすることもない。眼前を通り過ぎていく人の群れにぼんやりと視線を移す。この人たちには帰る場所があって、誰か待っている人がいて、明日なにかする事があって、そのために何時に起きなくちゃいけなくて、だから駅に向かって歩いているのだろうか、と思う。良夫は最後に目覚まし時計をかけたのはいつだったかなと、ふと考えた。遠い昔のように思えた。やるべきことがあった自分などいたのだろうか。空を仰ぎ見る。暗く、ただひたすらの闇がそこには広がっていた。生きる意味、という言葉の意味すら、もう良夫には分からないのだった。
どのくらいそこに座っていたのだろうか。軽く眠りに落ちてしまったようだった。終電のなくなった池袋の街は、雨上がりのようにシンと静まり返っていた。
夜をどう乗り越えるか。良夫にとってはそれが問題だった。たまに、どうしようもなく死にたくなる夜が訪れた。酒もタバコも薬も効かないでこのまま家にいると首をくくってしまいそうになった時は、よくこうやって池袋を徘徊した。遠くの街まで来れば、ネオンとか人の群れにまぎれこめれば、どうにか希死念慮に追いつかれないような気がした。良夫の徘徊の頻度は日に日に多くなっていた。
時計の針は午前3時を指していた。静寂に包まれた池袋という街の隅の隅でうずくまり、膝の中に顔を埋め、もう少しだ、もう少しで朝になる。と良夫は歯を食いしばった。その時だった。ふと、なにかの気配を感じ良夫は顔を上げた。全身黒ずくめの格好をし、山高帽を被った男が良夫の前に立っていた。良夫は一瞬身じろいだが、男はそんな良夫に対して、唐突に、こう、切り出した。
「生きてるの、つらくないですか」
良夫は警戒心とか緊張とか、そういう類のものを一切通り越して、その一言に、ただ、呆然としてしまった。その時の良夫の顔は、傍から見たら呆けていたと思う。そして良夫の返答を待たずに、男はこう続けた。
「生きたいと思えるならば、生きたいですか」
普通ならば初めて会う怪しげな男に、唐突にこんな問答を喰らったら、頭のおかしな奴だと思い相手にはしないだろう。良夫も心神耗弱しているとはいえ、そこの分別はまだあったはずだった。ただ、深夜の池袋の寂寥とした空気感のせいか、まるで世界には良夫とその男、2人だけしかいないようなある種幻想的な雰囲気のせいか、良夫はその質問にただただ狼狽え、そして、涙を流したのだった。
「あなたをお招きしたい場所があります。私についてきてもらえますか。」
男はそう述べると、良夫の返事も待たずに、ゆっくりと歩き出した。
男の言葉に呆然としていた良夫はゆっくりと腰を上げた。良夫は、もうどうだっていいや、という気になっていた。この素性も知らない怪しげな男についていき、仮に自分の人生が破滅するようなことに巻き込まれたとして、もう既に自分の人生は終わっているじゃないか、と自嘲したのだった。
男はネオンの光が届かないような路地に入っていき、さらにその闇の奥深くへと静かに踏み入っていった。いつも路地裏を好んで徘徊していた良夫ですら、この街にこんなところがあったのかと思わざるをえないような、複雑に入り組んだ道に入った。
――それからもう何分歩いただろうか。男がふと足を止め、こちらを振り向いた。男の口元が静かに微笑んだかと思うと、壁だと思っていた場所が開き、その中へ入るようにと促された。
扉の中は薄ぼんやりとした暖色系の灯で照らされていた。目を凝らして観察すれば、診察室のような場所だということが分かった。男は良夫が入ったことを確認し、扉を閉めると、静かに口を開いた。
「色々と混乱されているかと思いますので、一つ一つお話ししていきましょう。私が誰で、あなたをなんのために、ここへお連れしたのかを。」
この時の良夫は自分でも驚くほど冷静だった。どうなってもいいという一種の生に対する諦めが、かえって良夫を強くしていた。良夫は男の言葉に対し何も返さず静かに頷いた。
「初めに申し上げておくと、私が何者なのか、ということに関してはお教えする事ができません。ただ私が何者なのかということはあまり重要ではなく、今からお話することがあなたにとってとても大切なお話になります。」
男は続ける。
「今この国ではBI制度が導入され、国民一人一人に健康で文化的な生活を補償するという名目で、国から補助金が支給されていることは貴方もご存知ですよね。」
良夫は頷く。
「BI制は画期的な制度として始まったものの、蓋を開けてみればどうなったか。何もしなくても金銭が授受出来るシステムにより、人は何かをしようと思うのではなく、本当に何もしなくなってしまいました。その結果肉体的には生存しているものの、精神は枯渇し、まるでゾンビやロボットのようにただ食物を咀嚼し排泄するだけの個体が増えてしまった。そしてこれは公にはされていませんが、BI制が施行されて以来、自殺率は上昇を続けています。そのあたりのことはあなたが1番よくお分かりになるのではないでしょうか。」
良夫はただ黙って男の話を聞いていた。
痛いほど分かる話だった。何もしなくても生きられるという状況に人間が置かれた場合、人間的なエネルギーがある人たちは自ら何かを成そうと動き出す。そして3ヶ月後、そのうちの9割が脱落し、半年後は更にそこから9割が、そして1年後、3年後、動き続ける人間はどんどん減っていく。「何かしたい」が「何かしないとやばい」になり、何もしていない自分を否定するようになる。かといって何かしても続かない自分に嫌気がさし、自分を信用することが出来なくなる。そうしているうちに、何もしなくてもとりあえずは生きられる今のこの環境に、気付けばどっぷりと浸かっている。精神の摩耗には気づかないまま。そうして疲弊していった心の持ち主は、自分で自分の息の根を止めるか、口をつぐんで死者のように生きるしかなかった。BI制が始まって会社を辞めた奴等が、数カ月後には嫌々ながら復職していった理由もここにあるのだ。
「BI制の負の側面。いうなれば生きる目的の喪失。この問題自体はBI制施行前も人間の数ある悩みの1つとして存在していました。しかしBI制が施行され、何もしなくても生きられるという状況が出来たことにより、人間は嫌でも、どう生きるか、なんのために生きるのか、という問いに向き合わざるを得なくなった。そのような状況下において自ら生きる意味を見出し続けられる人はいいのです。何度転んでも、立ち上がり続けられる人は。しかし、そういう人間ばかりではないことは、現に今の状況が如実に物語っています。人生を切り開き続けられる人よりも、そうではない人の方が圧倒的に多いのです。人間は根本的に弱く、怠惰な生き物です。一度折れてしまったら、精神的なエネルギーが尽きてしまったら、それでも国には生きろとお金だけ渡されたら、それは地獄というほかないでしょう。」
良夫は苦しかった。自分のことだ、と思った。終わった人間の自分。全てに対して無気力で、虚無感を抱いて生きている自分。生きている感覚を最後に感じたのはいつだったか。ほんの数十分前に出会ったばかりのこの男の言葉は、良夫の胸を深く、深く抉った。
「新しく何かを始めるということは、エネルギーのいることです。精神が枯れている状態ではいくらお金があっても出来ることではない。むしろ、お金より先に、人としてのエネルギーを取り戻すことが大切でしょう。口で言うのは簡単なことですが、心が枯れている人間に再び光を灯すということは、並大抵のことではありません。」
「良夫さん」
自分の名前を呼びかけられたことに良夫はぎょっとする。
「失礼ながら貴方のことは事前に調べさせて頂きました。あなたの名前や住所といった個人情報や経済状況、またBI制によってもたらされていると推測される長期に渡っての心神耗弱状態。本日、あなたをここにお連れしたのは偶然ではないのです。」
良夫はなにか映画のようなものを自分の網膜を通して観察している気分だった。スーパーヒーローものならここで世界を救うために特殊能力でも授けられるよなぁとか、暗殺組織の鉄砲玉みたいなもんにスカウトでもされてるシーンかなぁとか、とにかく自分の身に起きていることに対して、現実的な実感値を持って感じることがまだ出来ていなかった。
男はそんな良夫を横目に続ける。
「なぜあなたをここに連れてきたのか。それは、私たちがBI制の負の側面の犠牲者となった人間に対して、ある種の試みを行っているからです。」
「試み?」
ここにきて良夫は初めて口を開いた。自然と口が動いて言葉を発したと言ってもいい。それほど無意識な反応だった。
「はい。BI制の呪縛から抜け出すための試みです。精神的に枯れてしまった人間をどうすれば救えるのか。私たちは考えました。答えはシンプルです。BI制によって失われたものを補完してあげさえすればよいのです。つまるところ、人生の目的を提供すればよいと私たちは考えました。情熱を傾けられるものの提供と言ってもよい。」
確かにそれが出来れば苦労はしない。だが、一体どうやって赤の他人がそれを提供するというのか。人生の目的なんてものは自分で見つけるからこそ意味をなすものではないか。良夫はそう思い嘲笑したが、男はその反応も織り込み済みとでも言わんばかりに淀みなく言葉を続けた。
「それをどうやって提供するのか、とお思いでしょう。こちらへお入り下さい。」
男はそういうと奥の扉へと良夫を招き入れた。その部屋の中央部にはリクライニングチェアとヘルメットの形をしたいびつな装置が置かれていた。その装置からはタコ足状に配線が伸びており、それらはそのまま円柱形をした電子端末と思われる巨大な筐体へと繋がれていた。まるで脳波を計測するような装置だなと良夫は思った。無論、脳波など計測したことはない。そんなシーンを映画か何かで見たことがあっただけだった。良夫の反応を確かめると男が口を開いた。
「この装置は人間の記憶領域に刺激を与えることにより、記憶の一部を限定的に改ざんすることを目的に作られました。脳の仕組みに関しては未だ不明瞭な部分が多く、1つの人間という個体がそれまで形成されるに至ったいわばアイデンティティと呼ばれるものまでは改ざんすることは出来ません。この装置を利用して実行可能なことは、中程度の深さ(深層心理直前レベル)までの記憶の植付け、改ざんです。自分が何者であるか、どこからきたのかといった個人のアイデンティティやルーツに関わる記憶の改ざんは、脳に対する負担が大きすぎるので、現時点では個人の意思を限定的に改ざんする運用法に留まっています。しかし私たちは、これがBI制で精神的に死んでしまった人たちを救済できるかもしれないと考えました。その方策こそが先ほど述べたとおり、この装置を利用しての生きる目的の移植です。被験者が望んだ目的や意思を植付け、人生を取り戻して貰うことが、この装置の存在意義なのです。」
男は形式的とも言える口調で一息に喋りきった。滔々と話すその口ぶりから察するに、この説明をするのは初めてではないのかもしれない。しかし良夫には男の言葉が右から左へと流れていくだけだった。これこそ、まるでSFじゃないか。自分の頭では何度か妄想したことはある。いつか自分の前に特別な力を授けてくれる者が現れ、自分が持てる者になった時、その時自分は何者かになれるのかもしれない、と。しかしそんな妄想は思考した次の瞬間にはすぐに吹き飛んで消えてしまうような、あまりにも稚拙で朧気なものだったし、よくよく考えれば何者かになる気力なんて良夫にはもうなかったのだ。
だが、目の前のこの男は何を言っているのだろうか。新手の詐欺師なのか。こんなことを言って金銭を奪おうと画策しているのだとしたら、今どき小学生でも騙されることはないだろう。良夫の頭の中で様々な思考がぐるぐると渦巻いていた。そんな良夫の様子を察したように男が言う。
「混乱するのも無理はないでしょう。私が良夫さんの立場だとしても同じことを思います。ですがもし――」
「ちょっと待ってくれ。」
良夫は少し荒んだ声で男の言葉に被せた。
「俺のことを調べたんなら知ってるとは思うが、俺はBI生活者だ。あんたらに渡すほどの金は持ってない。もし金が目的なら――」
「良夫さん」
今度は男が割って入る。
「唐突に突拍子もないことを続けざまに聞かされ混乱しているとは思いますが、これだけは信じて頂きたい。私たちはあなたから一銭も頂く気はありません。それこそお金が必要なら他の人に声をかけていますよ。」
そう冗談めかして言った男に良夫が返す。
「仮にだ。仮にあんたの言うようにその装置が本当に記憶を改ざん出来るとして、なぜ公にしない。それを求めている人間のことを思うのならば、そうすべきじゃないのか。どうしてこんな裏でこそこそとやるようなことをしているんだ。」
「私たちも出来るのであればそうしたいのです。しかし――」
男は続ける。
「現実問題としてこの装置が表に出たらどうなるでしょうか。おそらく倫理的な問題や既得権利との軋轢、仮にそれらをクリアしたとして認可が降りるまでに何十年もの歳月が必要となるでしょう。時間は有限です。私たちは形式主義に縛られることよりも、より実際的に技術を前に進めていくことを選択しました。お気づきだとは思いますが私たちはチームで動いています。このような施設が日本全国にいくつも存在しています。勿論公にはなっていませんが。私たちがこのような技術を他に先立って開発することが出来たのは、非合法だから故なのです。あらゆる権利や制約から解放されることにより、全てがオープンソースの状態で開発することが出来る。そのフラットな状態が記憶改ざんという技術革新を生み出したのです。最近は私たちの活動に賛同してくれている政党や宗教団体、医療法人もあります。建前だけでは世界は進まないことに、多くの人が気付いている証拠です。」
「でも、なんで、なんで俺なんだ。俺なんかもう、終わった人間なんだ。もう俺は……」
「良夫さん。あなたのような人を救済するためにこの装置は存在しているのですよ。BI制で人生に興味を失ってしまった人の多くは、そもそも外に出てこない人が多いのです。定期的に、かつ人目の少ない場所、時間帯に外出している人は少数派です。そこから更にスクリーニングをかけ――と言っても心が枯れている人は目を見れば分かるのですが――BIに犯されている人間だと断定した上で個別調査をさせて頂き、準備が整った段階で今日のように声をかけさせて頂いているのです。今のところ、こうして草の根的にやっていくしかないのは歯がゆいところではありますが。」
良夫は男の言葉を黙って聞いていた。考えることをやめたわけではないが、この話の真偽を確かめることはどう考えても不可能だということだけは分かった。疑おうと思えばもはやいくらでも疑う事ができた。その反面、信じるに足る要素など、これっぽっちもなかった。しかしこの時の良夫はこうも思っていた。「もう、どうでもいいなあ」あらゆることに虚脱していた。日々。それが良夫の日々だった。この話が本当だとか嘘だとか、どうだってよかった。一通り話を聞いたし、笑い話が出来たとそれを披露する相手も良夫にはいなかった。どうしてこうなったのか。良夫はもう何も分からなかった。
「ひとつ、きいていいか。」
良夫は震えた声で言った。
男は黙って頷く。
「その装置を使えば、俺は…おれは……また生きたいと思えるのか。生きたいと思うとか、そういうクソ面倒くせぇこととか考えずに、毎日、生きられるようになるのか。今、おれが抱いてるこの穴のような感情を埋めてくれるのか。この、この気持ちがわかるか……。この、どうしようもなく、なにもない、なにも感じない、この気持ちが……。」
――時計の秒針の音だけが虚空に響いていた。重い空気ではなかった。静謐な空気がその場を支配していた。
男は、良夫が発した言葉の一つ一つをゆっくりと咀嚼し、言葉を選びながら、こう応えた。
「自分で人生を転がし続けられる人間が、好きなことをすればいいだけ、と言っても、そうではない人たちとの分断を深めるだけで、何の解決にもならないと私は思います。それは、そちら側の人間になってみないと分からないことだと思うのです。私個人も、良夫さんと同じような時期がありました。人生に意味など見出せず、自傷行為に走っていました。」
そういって男は袖をまくり、良夫に手首をかざした。どのくらい深く抉ったのか、ムカデが這ったような跡が、手首から肘の辺りまで隆起していた。その熱く滾る炎のような傷跡は、男の言葉を裏付けるのに余りあるものだった。
「そして、私が今こうして生きる意味を見出し生きているのだから、あなたも大丈夫などとは決して言う事はできません。それは、そちら側の絶望を経験しているからこそ言えないのです。私は、たまたまここに立っているにすぎないのです。人生からこぼれ落ち、あっちの世界に逝ってしまった人たちを何人も知っています。そして自らその選択をした人間を否定することなど、誰ができるでしょうか。人生の本質は絶望で、世界は残酷だと私は思います。良夫さん。だから貴方が死にたいというのなら、私は止めることはないでしょう。ただ、選択肢は提示させてください。あなたに声を掛けたときに私が言った言葉を覚えていますか。生きたいと思うのなら、生きて下さい。毒にも薬にもならない、上っ面だけ取り繕った綺麗な精神論などはありませんが、ここにはそれを現実的に成しうる技術があります。その上でどうするのかは、貴方が選択して下さい。」
男はそう言うと椅子に腰を下ろした。
良夫は既に決心していた。自分の内にかすかにある「生きたい」という願望。そこに偽りはなかった。そしてこのまま何もせず日常に戻ることの恐怖も知っていた。今までも何度となく生きる意味を探してきた。あらゆることに挑戦した。しかし結局のところ居場所は見つからなかった。そして良夫は1つの結論にたどり着いた。夢とは、思い込む力なのではないかと。齢を重ね、自分が出来ることとできないことが何となく分かってきてしまった上で、それでも出来ると思い込む力。その熱量。その稚拙さ。それは自分には得られない力だと思った。
しかし目の前に佇むこの装置は、記憶の改ざんという技術をもって、強制的に生きる意味を植え付けるという。自尊心が枯渇した自分が、それに頼らない理由はもはやなかった。
「やります。俺は、もう一度、生きてみたい。お願いします。」
祈りにも近い言葉を良夫は吐いた。
「分かりました。」
男が静かに返答する。
「記憶の改ざんはこちらで用意した疑似記憶を送り、それを脳に定着させることによって本物の記憶であるかのように脳に錯覚させます。あまり複雑な疑似記憶は定着の際に齟齬が生じる恐れがあるので、簡潔なものにして下さい。無論、ここでの私との記憶は全て改ざんし、消去させて頂きます。目が覚めたら貴方は先ほどと同じく、この街の隅に、同じ姿勢で座っています。ただし、生きる意味を手にした状態で。――さて、それでは良夫さん。新しく生まれ変わるとして、人生の目的は何にしますか。」
間をおかずに男は笑みを浮かべながら続けた。
「なんてことを言われても、それが分かっていたら今ここにいないでしょうね。ただ、ここでは一切の制約を取り払って下さい。30歳でサッカー選手を目指しても、プロ野球選手を目指してもいいのです。なんなら世界征服でもいいのですよ。」
男は冗談めかしてそう言い、その後にゆっくりと、こう続けた。
「大切なことは、なにになるか、ということではないのです。それよりも、どう生きるか、それ自体が大切なのです。」
――それからしばらく沈黙が続いた。
そう言われたものの、良夫は狼狽えてしまった。男の言う通り、その問いにすぐさま返答できるなら、良夫はこの場にはいなかったはずだ。俺には、なにか好きなことがあっただろうか。感情が凍ってしまった心にその問いをぶつけるのはあまりに酷だった。答えあぐねていると、男が口を開いた。
「ここにお招きさせて頂いた人たちのほとんどが良夫さんと同じような反応をされます。自分が何を選択して生きるべきか分からないからここにいるのですから、当然といえば当然です。だからといって今更ここで良夫さんに自己啓発めいたワークを行ってもらうつもりもありません。そんなことは今まで嫌というほどやってきたでしょうから。そこで一つの提案として、人生の目的の付与を、こちらにお任せしてみてはいかがでしょうか。私たちが良夫さんをプロファイリングした上で適正度合いが高いものを、生きる目的として記憶に埋め込みます。繰り返しになりますが、なにになるかは、さほど重要な事柄ではなく、どう生きるか、それ自体が重要なことなのですから。」
男はそう言い終えると、良夫の反応を待った。
良夫自身も気付いていた。夢とか、生きる意味なんてものはいかに自分を錯覚させることが重要かということに。そしてそれができない事が、良夫の人生を前に進めさせない一因でもあった。そう考えると、男の提案はまんざらでもないなと、良夫は思った。数年間かけても出なかった問いの答えが、今更ここで出るわけがない。そもそも、答えなどないのかもしれない。だとするのなら、全てをなげうって、世界征服でもなんでもこの男が植え付けた疑似記憶に翻弄される人生を送ってみるのも悪くはないのかもしれない。もう考えることにも疲れていた。良夫は半ば投げやりな気持ちになりつつ男にただ一言、
「全てお任せします。もう俺は、何も分からないので。」
と応えた。どんな目的を植え付けられるのかとか、仔細な事を聞く気力も失せていた。もう、なにもかも、どうでもよくなっていた。
「かしこまりました。それでは準備がありますので良夫さんはこちらの椅子に座って頂き、脇に置いてある測定器を装着して下さい。」
男はそう告げると、ヘルメットのようなものを指さした。良夫は言われた通りにそれを頭に装着し、椅子に腰掛けた。男はそれを確認すると横にある電子端末を操作し始めた。
「これから脳波を操作して脳をレム睡眠の状態にします。良夫さんはそのままリラックスした状態で眠りに落ちて頂いて構いません。目が覚めた頃には全てが終わっていますので。それでは、良い夢を。」
男はそういうと照明を軽く落とし、笑気麻酔だと言って良夫の鼻腔にガスのようなものを注入した。良夫はまどろみの中に入っていくのを感じた。あぁ、これまでのことはもしかしたら全部夢だったのかもしれない。意識が淡くなり、溶けていく時間の中で、良夫はぼんやりとそう考えていた。俺の人生はどこで間違えたのだろうか。やり直せるとしたら……。――良夫の記憶の線は、いつしか途切れていた。
【2】
永い、永い、恒久的に続く悪夢を見ているようだった。具体的なことは何一つ思い出せない。黒い絵の具を水に溶かし、その波紋が拡がっていくような、淡いけれど、確実に暗い、ただそのものの闇を見ているようだった。
良夫はその街に座っていた。
全身がぼんやりとしている。俺は何をしていたのだろうか。記憶をたどってみたものの、池袋に来た以降のことはよく思い出せない。そもそもどうして池袋に来たのか、そこからして曖昧だった。ふと辺りを見回すと、傍らには飲み干したカップ酒が3つほど置いてある。――そういうことか。どうやらいい年になって一人で酩酊状態になってしまっていたらしい。自分もまだまだ若いかもしれないなと思う。記憶が覚束ない理由が分かり、安堵した良夫は、立ち上がり、一度背伸びをする。そこはかとなく漂う生ゴミの臭気とカラスの鳴き声。いつもの池袋の朝だった。それでも朝日は心地よい。良夫は大きくあくびをしながら駅へと向かう。その道のりの中で、今日はどんな原稿を書こうか、アイデアを練っていた。
【3】
――三ヶ月後
良夫はBI生活者だ。国から最低限度の賃金を支給されて暮らしている。良夫にとってこの制度は願ってもないものだった。やりたくもない仕事をしてお金を稼ぎ、その資金で自分が本当にやりたいことをやる。その流れに対して良夫は以前から懐疑的だった。成功者と呼ばれる多くの人たちが下積み時代をまるで美談のごとく語っているのは、その流れを正当化させようという社会の無意識的な圧力のような気がしてならなかった。そんな中BI制が施行されたおかげで良夫は自分が本当にやりたいことを、その道一本で進めるようになった。良夫は、ずっと、表現がしたかった。それは誰のためでもなく、自分のために、自分の内に秘めるドロドロとした部分を創作物を通じて曝け出したかった。良夫は絵が描けるわけではなかったが、文章を書くのが好きだった。誰に見せるわけでもない私小説のようなものをメモ帳によく書き留めていた。いわゆる文学というものにすらなりえない、素人が吐き捨てたような陳腐な言葉の羅列にすぎなかったが、良夫には書いているという行為それ自体がひどく楽しく、そして官能的なものに思えた。BI制が施行される以前、良夫にとって書くという行為は趣味の域に留まっていた。しかしBI制が施行され、人間がなんのために生きるのか、という問いに立ち向かわざるを得なくなった時に、良夫にとってその答えは明確だった。書く。俺は、書きたいんだ。そう心が叫んでいた。それから良夫は毎日言葉を書き連ねた。若者がソーシャルゲームで遊ぶかの如く毎日、飽きることなくその行為を続けた。良夫にとって書くという行為は自慰行為に等しい快楽を与えてくれるものだった。良夫が書く小説は、暗澹とした毛色のものが多かったが、それは書店に並ぶ、自己啓発めいた幸せになるためのハウツー本に対してのアンチテーゼだった。良夫は人生の本質を絶望だと考えていた。生まれ落ちたその瞬間から追ってくる絶望に追いつかれない速さで生きることが、彼にとって生きるということだった。だからこそ幸せを目指す類の本は、良夫にとって目の敵でもあった。良夫は、書き上げた小説を個人のサイトに全て無料でアップロードしていた。今のところ取材費などが膨大にかさむ小説は書いていなかったということもあるが、何より、書き上げた以上は多くの人の目に触れてほしかった。ある日、良夫の連絡先に一通のメールが届いていた。差出人は出版社の人間だった。
「貴方の小説を拝読させて頂き、とても感銘を受けました。是非弊社から一冊出して頂けないでしょうか。詳細について一度会ってお話させて頂ければと思います。」
要約するとこんな内容だった。良夫はこんなこともあるのかと驚いた。素人の自分の小説をその道のプロの人間が読んでくれていたことにまず驚いたが、更には出版の打診までしてきたのである。良夫に断る理由は見当たらなかった。面談の当日は、メールをくれた人間の他に出版社の社長までも出向いてくれていた。話を聞けばこの出版社は規模的にはとても小さく、社長の個人法人のような会社であること。そして社長本人が気に入った作家の作品は利益度外視で出版していることなどを聞かされた。この社長は好々爺然とした印象だったが、学生時代は共産主義運動に走り、それをきっかけに体制批判を主としたタカ派のジャーナリストだったと良夫は聞かされた。だからこそマイノリティやアンダーグラウンドに埋もれている何者かの叫びを、本という形にして世に届けたいのだと良夫に訴えた。そしてそれこそが良夫を選んだ理由だとも。良夫としては自分の叫びを形にしてくれるのであればその他のことはどうでもよかったが、社長の熱量に圧倒され、柄にもなく「絶対に後悔させないような物を書き下ろします」という誓いを言葉にしたのだった。
その日から、控えめに言って良夫の人生は輝きを持ち始めた。アマチュアからプロになる過渡期に生じる激しい熱量を良夫は孕んでいた。小説のテーマはすんなりと決まった。前々から書こうと思っていたことだった。セクシャリティである。良夫はバイセクシャルだった。自身の性的嗜好に関して良夫自身は苦痛を感じたり、不利益を被ることはなかったが、周囲のLGBTコミュニティの中ではそれは少数派だということを知った。今回の小説で、良夫はカテゴライズすることの不毛さを訴えたかった。LGBTだけではなく、セクシャルマイノリティをカテゴライズしようと思えば数えきれないパターンがある。それこそ個人の人生と同じように性的嗜好も千差万別なのだ。レズ、ゲイ、バイ、トランスジェンダーとカテゴライズすることは、多数派が未知の少数派を区別するような構図のようで良夫はずっと違和感を抱いていた。人生がパターニング出来ないように、セクシャルマイノリティも個人によって細かいところは異なる。不毛なカテゴライズに意味はなく、一人一人が自分の魂に従うこと。そのシンプルさが大切なのだと良夫は今回の小説で訴えようと思っていた。
書き上げた小説は出版社の太鼓判もあり無事に書店へと並んだ。良夫にとっての処女作だった。しかしその作品は良夫が思っても見ない売れ行きを記録した。奇しくもある女性国会議員が良夫の本を取り上げてLGBTをバッシングするような発言をしたからだ。この発言はすぐに各種マスメディアが取り上げ、そして発言の元となった良夫の処女作が一躍話題の的となった。こんなことがあるのかと、良夫はいまいち実感を持てずにいたが、取材の依頼がひっきりなしに飛び込んでくる。考える間もなくその対応に追われる日々を過ごしていた良夫は、気付けばこれ以上ない作家としてのデビューを果たしたのであった。
【4】
一連の騒動から数ヶ月後。件の女性議員は激しいバッシングを浴び、そのまま議員辞職へ追い込まれるという見飽きた流れに落ち着いた。良夫の方もまた、事態の終息に伴い慌ただしい日々は落ち着きを取り戻していた。しかし、以前とは明確に異なる立ち位置に良夫は立っていた。一介のアマチュア作家だった良夫は、ファンを抱えるプロの作家になっていた。見ず知らずの人間から時々感謝の手紙も届いた。良夫の個人サイトにアップロードしていた過去の散文達も、良夫の名前が売れるとともに短編集として日の目を浴びることになった。誰が見てもこの時の良夫は順風満帆だった。今までは全て自己完結に等しかったものが、多くの人の目に触れ、評価された。その循環に酔っていた。良夫はますます書くことが好きになった。次回作の打診をどこからか受けるよりも先に、自然と筆が進んだ。良夫は、人間の暗部、知性や、金や、権力やあらゆる全ての外的要因で取り繕った皮を引き剥がした先にある、生身の臓器のような剥き出しの部分を描きたかった。人間とは何か、という問に対して、人間とはただの肉の塊である。という純然たる事実を改めて突きつけたいと思った。そのために自分の血肉を削って執筆作業を続ける日々が続いた。そんな生活が半年ほど続き、憔悴しきった良夫は、やっとの思いで新作を書き上げた。それは明確な光も、また、明確な闇もない、虚無感の漂う創造物だった。しかし良夫にとってはそれが人生の本質であると疑わなかった。そしてその言葉を求めている誰かに届くことを、一縷の望みとして作品に託した。良夫はこの小説を、処女作を手がけてもらった出版社へ再び持ち込んだ。良夫にとって出版社選びは関心の薄いことであったが、彼自身、無意識のうちにこの出版社の社長の人柄に好意を寄せていた。社長は今回の作品も絶賛してくれた。赤をつけられたところを適宜練り直し、以前と同じスピード感をもって良夫の新作は書店に並んだ。良夫はゾクゾクと全身がざわめき出すのを感じていた。自分のサイトにアップロードするのとはわけが違う。自分が書いた言葉の音階を誰かが脳内で再生する。先のことは誰にも分からない。自分のために始めた文筆業だったが、一度世間に出れば評価の対象となるのだと、良夫は処女作の時に痛感した。興奮冷めやらぬ身体にウイスキーを流し込み、良夫は無理やり横になった。
【5】
マイノリティに光を照らす希望の作家の新作としてポップを組んでくれている書店もあった。処女作は内容云々よりも話題性で本は売れた。しかし今回は前回のような奇天烈な展開はない。正真正銘内容での勝負だった。朝。起き抜けざまに良夫はスマホで新作のレビューにざっと目を通してみた。否定的なものが数多く並んでいたが、そんなことに一々気を止めていたら作家などやっていけないのは重々承知している。良夫はスマホを放り投げ、また眠りについたのだった。しかし日を追うにつれ、否定的な意見は増えるばかりだった。ピキリと何かが割れるような感覚を覚えた。いつしか良夫の新作は駄作のレッテルを貼られるようになっていた。この作者は鬱屈とした物語を書いている自分に酔っているだけだとか、希望もなくただただ暗いだけの作品で私には理解出来ないだとか、罵詈雑言を浴びせたいだけのようなものも散見された。これには良夫も打ちひしがれた。自分が血肉を削って書いた作品を踏みにじられることは、自分の皮膚をナイフで削り取られるのと同じだった。しかし良夫の作品は元々大衆受けする毛色ではない。アンダーグラウンドの一部のコアなファンに支えられるような作品であった。それが幸か不幸か処女作の話題性が相まって一般の読者に幅広く手に取られた結果が今の状況であった。良夫の作品の力不足は否めないだろう。読者層に関わらず人の心を掴み、ねじ伏せるような胆力が良夫の作品にはなかったと言われればそれまでだった。作品に共感を覚えたという肯定的な評価も勿論あったが、それを覆い尽くす圧倒的なナイフの雨に良夫はただ身を覆うしかできなかった。良夫の主張は間違っていたのだろうか。人生とは、やはり大多数の人間が支持するように幸福で満ちているものなのだろうか。そしてそうあろうとする姿勢が人生における正解なのだろうか。良夫は分からなくなっていった。自分の信じているものを世間から一斉に否定された経験は初めてだった。良夫は徐々に自分の内へとふさぎ込んでいった。文字を綴らない日々が続いた。書かない日々が、書けなくなる日々へと変容するのに、そう時間はかからなかった。焦点が合わないぼやけた日々は、良夫の目を、深い、ただの穴ぼこへと変えていった。
【6】
あれからどれくらいの月日が流れただろうか。残酷にも人生は続いていた。書けなくなってからの日々の記憶は曖昧だった。ぼんやりと焦点が合わないまま、いつの間にか季節が巡っていた。あれから、何度も書こうとした。しかし、軸を失った良夫の言葉は、何を書いても味気なく、消え入りそうなものだった。そのことを何より良夫自身が一番痛感していた。ファンだと言ってくれていた人達が手のひらを返したように良夫の元から去っていった。気付けば良夫の周りには、もう、誰もいなくなっていた。俺はなんのために、ここまで必死になって書いていたんだっけ。
――すき。すきだった。それが、全てだと思っていた。好きなことを仕事にできた。でも好きなことで生きるということは、ずっと楽しいわけではない。そんなことは知っていた。ただ、何かを生み出す時の苦しみは、創り上げたものによって報われると思っていた。しかし、現実はそうはならなかった。俺は、やはり間違っていたのだろうか。
――良夫は、絶望に追いつかれてしまった。それに囚われたら最後、抜け出し方を知らなかった。それでも時間は残酷にも進む。絶望に覆われた人間だけを、残したまま。
【7】
過ぎゆく日々を、ただひたすら無為に過ごしていた。あらゆることが弛緩していた。良夫はある時から、考えることの一切を放棄した。そのほうが、楽だった。けれども、心の奥深くに抑え込んだつもりのものは、不意に粘度を保って放出された。それは食事をしている時。何も生み出さない自分が、何かの命を喰らって生きようとしていることに嫌気がさして、嘔吐したものだったのかもしれない。眠れない夜にアルコールを身体に流し込んだ時。逆流するようにとめどなく目から溢れ出したものだったのかもしれない。その”なにか”は、確実に良夫を蝕んでいた。こんなことになるなら文章なんて書かなければよかったと良夫は思った。それでも未だに書くことが好きだという気持ちを心の何処かに抱えている自分が憎かった。生きている意味なんて、もはやなかった。頑張りたくなんてなかった。死のうか。自然と出た答えだった。フラフラとした足取りで、あてもなく、夜の街を彷徨い始めた。
【8】
人が死ぬのに、ご立派な理由なんていらねぇよな。死にたいから死ぬ。ただそれだけだ。死に勝ち負けもない。それはただ一つの現象だ。良夫は頭の中でそう呟きながら池袋の街を徘徊していた。数年前、この街で観た景色と、今の自分が眺める景色は同じもののはずなのに、色が異なっていた。今の良夫の目に映るものは、全てが灰がかっていた。路地裏の側溝に腰を下ろすと、持ってきたウイスキーを胃に流し込んだ。このまま路上生活を始めるのも悪くないかもしれないなと嘯く。アルコールが脳を麻痺させていくにつれ、良夫の自暴自棄さは増していった。奇声をあげ、自動販売機に体当りをした。周囲から向けられる陰険な眼差しなど気にならなかった。もう全てがどうでも良かった。その時だった。ふと、背後に人の気配を感じ、良夫は振り返った。そこには全身黒ずくめの山高帽を被った男が、良夫の前に立っていた。良夫は一瞬身じろいだが、アルコールのせいで気持ちが高ぶっていたのだろう、その男を強く睥睨した。男は何も言わず、ただ黙って良夫を見つめていた。その瞳には、どこか悲しみが内包されているように見えた。
「良夫さん」
自分の名を呼ばれたことに良夫はハッとした。
「少し、お話しませんか。私は、あなたに伝えなければいけないことがある。」
淡々とした口ぶりで男は言った。
「お前、誰だ。昔の俺のファンかなんかか。」
「そのことも含め、お話させて頂きたいのです。私はあなたのことをよく知っている。勿論、あなたは私のことを覚えてはいないと思いますが。」
冗談ではないことは、男の顔つきで分かった。しかし、記憶をたどっても、こんな男と面識はないはずだった。
良夫は男に連れられ人気のない喫茶店に入った。ホットコーヒーを2つ注文すると、男はおもむろに口を開いた。
「良夫さん。私達は以前、会っているのです。それも人生においてとても重要な場面で。」
「悪いけど俺にはあんたと会った記憶はこれっぽっちもない。」
良夫は素っ気なくそう言い放った。
「それもそのはずです。どこから話せば良いでしょうか――。」
男はしばらく黙って考えているようだったが、顔を上げ、ゆっくりと話し始めた。
「私はあるプロジェクトのチームリーダーとして活動しているものです。そのプロジェクトはBI制における負の側面、いわば生きる目的を喪失し、枯れてしまった人間に再び活力を取り戻してもらうもの、とでもいえばいいでしょうか。私達は池袋を拠点に、BI制によって間接的に精神を犯されてしまった人々を数多く救済してきました。」
「――そして良夫さん。あなたもそのうちの一人なのです。」
良夫はすかさず反論した。
「悪いが俺はそんなありがたい救済なんか受けた覚えはない。BI制によって自殺者が間接的に増えていることは勿論知っているが、俺は生きる目的は自分で持って生きてきた人間だ。その話とは何ら関係のない側の奴だと思うがな。」
「そう思うのも無理はないでしょう。しかし、その思いは、意思は、記憶は、本当に正しいでしょうか。何を持ってそれが正しいと担保されているとお思いでしょうか。記憶とは私達が思っている以上に脆弱なものかもしれませんよ。」
「俺はまだ耄碌しちゃいない。お前は結局何が言いたいんだ。こんな意味のない問答をするために俺に声を掛けたのか。それともそう言いながら落ちぶれた俺を心の中で嘲笑うのを楽しむ変態野郎か。」
良夫は荒んだ口調で返した。男は、良夫の言葉には耳を貸さず、ただ一言こう言った。
「私達は被験者の記憶を改ざんしています。」
男は続ける。
「BI制の犠牲者となった人間を救済する方法として、私達は生きる目的を移植することを考えました。文字通り被験者の記憶を限定的に改ざんし、何かしらの生きる目的となるものを植え付けるのです。記憶を植え付けた被験者は、私達のことは忘れ、あたかも自分の意思で生きる目的を持った人間としてその後の日々を生きていきます。私達はそうやって、これまでたくさんの人間に再び生きる活力を与えてきたのです。だから良夫さん。あなたが私のことを覚えていないのは当然なのです。あなたが持っている表現欲求、何かを書きたいという気持ち。それに対して、なんの疑問も持ったことはなかったでしょう。それも当たり前です。全ては私達が植え付け、改ざんした記憶なのですから。」
男は一息にそう言い切った。良夫は、ただでさえ疲弊している精神を、更に抑圧しようとしてくるこの男の荒唐無稽な口ぶりに、ほとほと呆れてしまった。
「何かと思えばただのオカルト野郎か。お前がそういうのを好きってのはよく分かった。それこそあんたも小説でも書いてみたらいいんじゃないか。」
良夫は皮肉混じりにそう言った。
「確かに、私の話はにわかには信じることはできないでしょう。そしてここで私がいかに言葉を尽くそうと、あなたにこの話を信用してもらうことは無理なことでしょうし、私もそれを期待していません。全ては論より証拠。良夫さん、あなたが私に出逢う前の記憶、私たちが手を加える前の記憶を全てお返しします。勿論選択の自由はあります。あなたが今、現状に満足しているのなら、BI制に犯されている頃の記憶など必要のないものでしょう。けれどももし、あなたが今現状に何かしらの問題を抱えているのなら、過去の記憶を、あなた自身の本当の過去をたどることは、意味があるかもしれません。」
オカルトもここまで行くと芸術だな、と良夫は嘲笑した。そして同時にこの男の醜悪さも感じた。おそらくこいつは俺が落ち目の小説家だということを知っているのだろう。その上で声をかけ、俺を内心嘲笑っているのか、それとも何かのセールスに繋げようとしているのか、どちらにせよ吐き気がする行為だ。ただ、そこまでわかった上で、あえてこの男の誘いに乗ってみるのも悪くないかもな、と良夫は考えた。自分が掌の上で転がしていると思っていたものが、実際は自分が転がされていたと知った時の人間ほど面白いものはない。どうせ時間なんて腐るほどあるのだ。死ぬまでの暇つぶしにはちょうどいいかもしれない。良夫はそう考え、男にこう返答した。
「分かった。ひとまずお前の話を信じてみよう。勿論完全に信じたわけではないが、俺にそんな記憶があるのだとしたら興味深いし、どうやって記憶を改ざんしているのかも気になるしな。」
男は良夫の返答に嬉しがる素振りなど全く見せず、表情を変えないまま応えた。
「ありがとうございます。記憶の改ざんは私たちが開発した電子端末を用いて行います。良夫さん、あなたにはその端末で過去の記憶を再移植します。よろしいですね。」
男は確認するような目つきで良夫を見た。記憶改ざん装置なんてものを表情一つ変えず大真面目に話す男の芸達者ぶりに少し感銘を受けつつ、良夫は承諾した。
「ああ、それで大丈夫だ。早くその装置とやらを見せてくれ。」
【9】
喫茶店を出てからどれほど歩いただろうか。裏路地に入ってから蛇のようにうねる道をたどっていた。池袋の地理には詳しいと思っていた良夫も、全く知らない道ばかりだった。道中一言も口を開かない男の背中を見つめ、俺は何か取り返しのつかないことに巻き込まれているのではないのだろうか、という疑念が浮かんできた。しかし、怠惰な毎日を送っていた良夫にとってはその不安よりも未知のものに対する刺激の方が勝っていた。これから何が起ころうと、今より悪い方向に行くことはない。なぜなら、今が底なのだから。
ふいに男の足が止まった。男は壁に向き直ったかと思うと、手を這わせ何かを探り当てたかのように大きく引いた。何の変哲もなかった平板な壁は、重厚な扉へと化けた。男が中へ入るようにと促す。さすがの良夫も緊張で額に汗が流れるのを感じた。扉の中を覗くと暖色系の灯りが灯り、一見するとバーのような雰囲気だった。おそるおそる中へと入り周囲に目を凝らすと、そこは診察室のような場所だということが分かった。男は更に奥の扉へと良夫を誘導する。促されるままその中へ足を進めた良夫の視界には、大きな円柱系の電子端末と、それに繋がれたヘルメットのような装置、そしてリクライニングチェアが飛び込んできた。良夫の反応を確かめると、男が静かに口を開いた。
「この装置が先ほどお話した記憶改ざん装置です。簡潔に仕組みを説明すると、まず被験者にはこちらの測定器を頭部に装着して頂きます。そして測定器で計測した脳波をこちらの電子端末で解析し、こちらから脳波を逆流させることにより海馬、側頭連合野といった脳の記憶野に働きかけ疑似記憶を植え付ける、といったものです。」
男の説明は本当にあっさりとしているものだったが、良夫の眼前に鎮座しているいびつな筐体は似非にしてはやけに精巧に作られていた。
「へえ、これが、ねぇ。」
良夫は念入りにその機械を物色していた。男は、そんな良夫の様子をただ黙って見つめていたが、やがて口を開いた。
「良夫さん。あなたをここへ再びお招きした理由をお話します。」
男は続ける。
「私たちはBI制の犠牲者となった人々の記憶を改ざんし、生きる目的を植え付ける活動をしていると先ほどお話しました。それが救済策だとも。しかし、結論からお話すると、それは必ずしも完全な救済には至っていなかったのです。良夫さん、あなたがそうであるように。」
男は良夫を一瞥した。
「私たちが記憶を改ざんし、生きる目的を植え付けた被験者は、最初のうちはとても良好な経過をたどっていました。生きる目的があるということにより、人生にハリが生まれ、自分の軸がしっかりとしているからこそ、迷うことなくそこに進んで行くことができたのです。しかし、記憶改ざんから数年経過した被験者のうち何人かに、異変が表れ始めました。それは生きる目的に対する、何らかの大きな挫折や失敗です。これは希望や夢、目的の度合いが大きかった被験者ほど、それに比例して反動も大きくなる傾向にありました。一度軸を挫かれてしまった被験者は、そこから浮上することがとても難しい。なぜなら被験者は皆、絶望からの逃れ方を知らないのですから。私たちはそこまで計算出来ていませんでした。今となっては非常に安易だったと言わざるを得ません。希望をくじかれた被験者の中には、生きる目的など、ない方が良かったと言う方もいました。私たちにとってこの事態は非常に歯がゆいものだった。生きる意味を失った方に対しての救済策だったはずのものが、巡り巡って再び彼ら彼女らを苦しめているのですから。私たちは認識を改めざるを得ませんでした。BI制の犠牲者となった方々に必要なのは生きる目的ではなく、絶望からの逃れ方でした。これを知らない限り、どれだけ生きる意味を与えたところで、永遠に同じところをぐるぐると繰り返してしまうことでしょう。そこで私たちは、再び絶望に囚われてしまった方々に、過去の記憶を再付与することを考えました。これに関しては私たちの身勝手な話ではありますが、絶望から抜け出すためには、どうしても自己との対話が必要になってきます。その際に偽りの記憶では、自分の心の奥底に沈む核となる部分にまではアクセスが出来ない。そこで再び過去の絶望の記憶を取り戻してもらうことにより、今一度自分と対話してもらう。結局のところ、私たちにできることはなかったのかもしれませんが、そうするしかないということが現時点での結論です。」
「人の記憶を変えておいて、間違ってたから元の記憶をお返ししますだ?ずいぶんと身勝手な話だな。」
良夫は男を睨めつけた。
「それにお前の気に食わない所は、心が枯れた人間を救済出来ると思っているところだ。そういう奴はな、もう駄目なんだよ。なにをしても。表面的に生きる目的なんてもったところで、根が、大元のところがもう腐っちまってるんだ。手遅れなんだよ。だからなぁ、そういう人間は口をつぐんで生きてくしかないんだよ。」
良夫は、自分のことだ、と自嘲の笑みを浮かべながら話した。
「だからな、記憶を戻して魂との対話なんてできっこないんだよ。その魂が腐ってるんだ。もう駄目になってるんだよ。だからお前は、また間違いを起こすことになるぜ。」
「――それでも」
男が初めて強く言葉を発した。
「それでも、私はあなたを信じます。あなたの魂が朽ちていようが、いまいが、私はあなたという人間を信じます。」
「おまえだからなぁ……」
そう言いかけた良夫に男が割って入る。
「――私たちが間違っていたことは、被験者を本当の意味では信じていなかったことなのです。生きる意味を失った被験者を信頼せず、記憶の改ざんによって活力を取り戻した後の姿にのみ重きを置いていたのです。」
男は続ける。
「人を信頼するということは、その人間そのものを肯定するということだと思います。私たちはその基本的な事をせず、自分たちに都合の良い事実にしか目を向けなかった。それが今回のようなことに繋がっているのだと思います。だからこれは私たちの願いでもあるのです。もう一度あなたを信じたい。あなたそのものを、私は信じたいのです。その結果がどうであろうと。私はあなたを肯定したいのです。」
信じる。
まるっと、そのにんげん、そのものを。
良夫の頭の中に男の言葉が粘度を持ってこびりついていた。信じる。誰かを。信じられる。誰かに。俺は、俺が、俺の物語はいつも一人だった。語る一人称は常に一人。俺自身だけだった。「誰か」がいなかった。そういう生き方をしてきた。自分のことを孤独だと感じたことはなかったが、孤高だと思ったこともなかった。ただ淡々と、ひとりだった。今なら分かる。良夫。おまえという人間は、絶望を、一人で両手いっぱいに抱え込んでいたのだ。おまえの側に、誰かおまえの絶望を分かち合える誰かがいれば、運命は変わっていたかもしれない。いや、今となってはどうとでも言えることだ。おまえにはそんな誰かはいなかった、ただそれだけが漠然と事実として横たわっていたのだ。だからこそ、おまえはこの時男の言葉に揺れた。自分のことを、精神的に死に瀕しているおまえを、まるっとそのまま肯定すると言った男に、もっと、早く会っていたかったと思ったのだ。自分を肯定出来ないおまえは、誰かに肯定してほしかった。そう、俺は、誰かに肯定してほしかったんだ。ただそれだけだったのかもしれない。しかし、その誰かはいなかった。
良夫は男を見つめた。
――信じる
この男は俺の何を知っている
――信じる
なんの生産性もなく体たらくな生き方をしている俺を?
――信じる
俺の何を?
――信じる
男の言葉が良夫の体内に反響し、こだまする。
俺を、俺そのものを、
――肯定したい
【10】
――俺は今、物語を書いている。あの時、あの男に信じさせてくれと懇願されたあの時、俺の中で、何かが弾けた。それからの記憶は曖昧だった。男が俺にどんな記憶を呼び戻したいだとか、そんなことはどうでもよかった。俺は、俺のことを肯定するというこの男の熱量に溶かされた。本当は死にたくなんてなかった。絶望を殺したかっただけだった。気付けば俺は記憶の全てを取り戻していた。それは、とてつもなくどうしようもない、ひとりの人間の物語だった。俺は、良夫、おまえの物語を、俺自身の物語を、この手で紡いでみようと思った。それが、俺が、おまえのことを信じられるようになる可能性に賭けて。
この物語はもうすぐ終わる。長く、暗い物語だった。この物語に意味はあったのだろうか。絶望に囚われたひとりの人間の物語は何を教えてくれただろうか。そして、絶望から逃れるにはどうすればよかったのだろうか。
語り部として、最後の仕事を綴っていこうと思う。
【11】
負けてもひたすら続けること
絶望に追いつかれない速さで人生を切り開き続けること
足るを知ること
日常の小さな幸せに気づくこと
遊ぶように生きること
絶望に囚われない方法は、確かにある。ただ、自らの物語を紡いできた俺は、二度も絶望に囚われてしまった俺は、それらを否定したい。
絶望から逃れることは根本的には出来ない。生きている以上どこかの地点で、必ず絶望に囚われる。これはもはや避けることができない事実だ。
それならばどうすればいい。俺のような人間がすべきことは、無理矢理生きる意味を植え付けることではなかった。絶望にはいつの日か必ず追いつかれることを前提においた上で、絶望を、それ自体を、受け容れるのだ。絶望とともに生きるのだ。結局のところ、絶望を受け容れることができないから、絶望するのだ。絶望を許し、絶望を自分のなかに孕ませる。絶望とともに人生を歩む。その上で、おまえが人生に何を求めるかを考えてはいけない。人生がおまえに何を求めているのかを考えるんだ。絶望はどこまでも追いかけてくる死神ではない。おまえのなかに潜んでいるものだ。絶望に囚われている自分を受け容れ、今を許すこと。それが、おまえにできる唯一の足掻きだ。
みんな”たまたま”生きている。絶望に囚われていようがいまいが。生とは、たまたまだ。一度絶望に囚われた人間は、そこから脱却するのではない。それ以降、体内に絶望を宿して生きていくのだ。絶望は、ある種の力だ。その力を宿し、楽観でも悲観でもなく、淡々と目の前のことをこなし、生きていく。それが、俺のような人間が絶望に立ち向かえる唯一の方法だ。
おとこは、おれを信じてくれた。あの時、おれが求めていたものの全てを、おとこはそのまなざしを通しておれの魂に突き刺した。にんげんひとりの絶対量を超えた絶望に対して、自分以外の誰かが助けてくれることもあるかもしれない。おれは、あの時のおとこの言葉に感謝している。しかしながら心の深奥を覗けるのは最終的には自分しかいない。他者にすがらず、おもねらず、自分のうちに潜む絶望と、真っ向から対峙し、抱擁すること。お互いをまるっと信頼し合う存在は、その前提がない限り、依存へと変わる。一方、絶望を内に溶かした人間にとってならば、そんな他者の存在は、生きることを、自分を肯定することを、この上なく助けてくれる。
これが、俺が自らの物語を通して感じ得た、全てだ。
【12】
――数日後
良夫はその街に座っていた。
ふと空を見上げる。雲の切れ間から、朝日が差し込んでくる。あの日から、なにも、何も変わってはいなかった。ただ、もう一度、生きてみようと、そう、思った。明確な希望も、明確な絶望もない。そんな日々を淡々と生きようと、そう思った。
鈴虫が羽をこすらせる音と雀のさえずり。ジョギングをする男と犬の散歩をする女。道端にひっそりと咲く名も知らない花と淀みなく流れ続ける川。中空を並行に漂う無数の電線とまる、さんかく、しかく、様々な形をした家屋。常緑樹の緑と今は枯れ木の桜。明滅するテールランプとぽつりぽつりと流れ始めた人間。
焦点を合わせる場所を変えれば、無数の情景が網膜に飛び込んでくる。灰がかっていた良夫の景色には、色彩がかすかに戻っていた。良夫はもう一度空を仰ぎ見ると、ベンチから腰を上げ、ただ真っ直ぐと、ゆっくり歩き始めた。
【エピローグ】
ある一つの瞬間のために命を張る。今までのこと全てがどうでも良くなるような、儚く、刹那的な瞬間。そこに人生のすべてを賭ける。どれだけ馬鹿にされようと、一度到達してしまえば再び絶望に追われることになっても、あの光を、あの瞬間にこそ宿る魂の咆哮を、それを求めて、あてのない旅路を彷徨い続ける。もう一度、全身の身の毛がよだつあの瞬間を。この身体は、焦がれている。
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