第45話 花束にかえて 紫

「出来なーい、花束が出来なーい……、素敵な花束を作りたいのに……」


あの事件以降、紫の悩みはこの一つに縛られていた。



紫は新田の病室のサイドテーブルに置かれたオレンジ色で統一されたラナンキュラスのアレンジメントを、そっと、包むような仕草をした。

愛おしむ……、そんな感じだった。


「このお花……、店長が置いていかれたんですね、昨日……、ですか?」


少し気落ちしたような声。


あの事件から一週間———。


紫は再度足の治療に来た後、久しぶりに新田に会いに来ていた。


「紫ちゃん、この間の事、妻にも聞いたけど、血だらけだったそうだね? 店長さんも血相変えてたって……。

怪我は大丈夫かい?」


「大袈裟ですね〜

全然大丈夫ですよ。ほんのかすり傷です。すぐ治りますから」


紫は屈託のない笑顔を見せる。

久しぶりに会う新田は奇跡的な回復を見せていた。

合併症の肺閉塞も治まり、他の臓器にまで転移していたガン細胞も薬の投与で消滅を確認するまでになっていた。

食事も取れない状態が続いて、顎の辺りも腕も肉が落ちてしまっていたが、ベッドから起き上がった彼の目にも唇にも鮮やかな生気が感じられた。


(あと少しすれば、新田さんは元気になって妻子と共に生きていく………)


紫は新田が退院したらもう二度と『画家の花屋』に来ないんじゃないかと思うと寂しさでいっぱいになる。

元気になった新田には、如月も『画家の花屋』も忌まわしい遺物でしか無いだろう。


それでも、あの事件の時如月が来た事を、キスした事をちゃんとわかっているのか聞いてみた。


「店長さんにも話したけど……今でもよく……如月の夢を見る。

きっとあの時も夢か現実かわかって無かったと思うんだ。

何か話したかもしれないけど覚えてなくてね……。

ごめんね、紫ちゃんには謝る事しか出来なくて………。

僕たちのせいで…………」


紫は首を横に振る。

覚えていない方が良かったのかもしれない。新田の眼中にはもう如月は居なくてもいいのだから……。


「そうだ、紫ちゃんにはお礼も言わなきゃならない。

カナエが紫ちゃんから落ちたものだって白い花を見せてくれてね」


「あっ、あの……」


思わずエレベーターで会ったカナエの姿が脳裏に浮かぶ。


「あの小さな白いバラ、きぼうの花ですね」


「きぼう?」


「あら? 店長からは聞いてませんでしたか?

あのバラの品種名です。画家の花屋が代々大切に育てているバラなんです」


「そうか……、『きぼう』って言う名なんだ……。

そんな大切なものを僕はもらったわけだ。

きっとその『きぼう』のおかげで僕はこんなにも良くなったんだよ」


そう言って新田が握り拳を作って、どうだ、と紫に自慢するようなポーズを見せつける。新田が笑っていた。紫も声を上げて笑った。


「ううん、やっぱり医療の進歩のおかげですよ。新田さんが頑張ってくれたからです」


「店長さんも同じ事を言ったよ。花屋に出来る事なんかほんの少しだって………」


そう言った新田の言葉に紫の顔が陰って行くのを見て新田はどうしたのかと聞いてみる。


「バイトを……、両親が反対して辞めたんです。

それに高校卒業後の就職先も画家の花屋に決まってたのを……店長まで……一旦、白紙に戻してしまって……」


「ええっ、店長さんがっ?」


「両親が自営業には反対らしくって……、店長もあの事で逆らえないって言って………」


紫の顔も口調もどんどん下がっていく。


あの事件の影響がこんな所にも出てしまったのかと新田まで消沈する。


あの如月とのバラの受け渡しを中止する事を昨日若店長から聞いた時も、彼の決断に仕方がないとは思いつつも残念でならなかった。


「店長には店長の考えがあるのはわかってます。

今後の事もあるので………。

だから、卒業までの二か月間は時間をおこうって言われたんです」


「それで若店長に会えなくて、そんなに元気のない顔をしているわけだ」


「違いますよ」


紫はニヤけてしまう口元を両手で押さえながら笑う。


(本当に……、如月に次いで可愛い子だなぁ)


と新田は思う。


「私が悩んでいるのは、卒業式の後すぐに画家の花屋に行って芳樹さん……、いえ、店長に花束を渡すつもりをしてるんですが……、それをどういうものにするか、ずっと考えてて………」


「へぇー、花束か……、それは、また………」


新田の中では如月がチラチラと動き回る。


なぜ紫が若店長に花束を贈るのか、そんな不粋な事は聞かない。きっと二人にも二人だけの内緒の意味があるのだろうから……。


「卒業したら、私はやっぱり画家の花屋で働きます。

ずっと、ずっと店長のそばにいるつもりです」


紫がそうはっきり宣言する。

あどけない、儚い妖精のような容姿からは想像も出来ない強い信念みたいなものを新田は感じて、紫の言葉に深く頷いた。


「そうだね。ずっと……、店長さんを支えてあげてくれ。

僕たちにとっても彼は大切な人だからね」


「はい」


新田がそう言って笑う紫を見たのはこれが最後になった。

手を振って帰っていく後ろ姿を新田はずっと、ずっと、忘れる事は無かった。



花束にかえて———


若店長は紫の卒業式の日に店先でぼんやりと紫を待っていた。


正直……怖かった。

二か月余りの離れ離れの時間が紫の心を一瞬で変えてしまう出来事があったら、あっと言う間に彼女は違う世界へ飛んで行ってしまうだろうと思っていた。

それくらい十八歳の彼女には有りとあらゆる方向へ飛んで行ける可能性という素晴らしい羽根を持っていたのだから。


「卒業して、紫ちゃんの意思が変わらなかったら……、花束を持ってもう一度画家の花屋に来て欲しい………」


(なんて言わなきゃ良かった………。是が非でも繫ぎ止める言葉にしておけば…………、結婚してくれ……とか……」


ここでも若店長は紫の年齢を気にしてしまう。


(まだまだ、これからいろんな出会いがあるだろうに……。自分がその芽を摘んでしまうようで……、花の蕾を摘むようで……、胸が痛む。

だから………、紫ちゃんが冷静に選べるように時間を置いた。

彼女が目の前にある道をしっかり選べるように………)



午後の暖かい陽射しの中。


待つ人が来るというのはこうも嬉しいものだろうか。若店長は自分が犬なら尻尾をブンブン振ってグルグル回ってしまう。そう思いながら最後の制服姿を見せて歩いて来る紫を見つめていた。


照れ笑いを浮かべて店の前にいる若店長の前に紫が立つ。


「やあ、久しぶり」


「はい、芳樹さんにもお久しぶりです」


小首を傾げて紫はふんわりと笑う。可愛い。

ただ、花束を持っていなかった。


(嘘だろ———)


若店長の胸にはツンツンと針を刺すような痛みが走る。

紫は少しだけ意地悪そうに笑って、


「きぼうのお庭に入れて下さい。そこで花束を作ります」


そう言ってきた。


「えっ、これから花を買って作るのかい? そりゃ、まあ、花ならわんさかあるけどね」


若店長は紫が花束を作る気があると知って少し安心した。たった今まで失恋したかと焦っていた。


「ウチで働いてはくれるんだね?」


「店長の許可が下りればお願いします」


「良かった。人手不足は解消だ。

それも大事だけど、花も買わないでどうやって花束を作る気だい?」


若店長は店の奥の渡り廊下から庭に続く窓の鍵を開けながら紫に問いかける。

紫は和柄のサンダルを履いて庭へ降りて行く。

しかし、今は三月。

花は足元のパンジーくらいだ。

『きぼう』の花も枝ばかりで静かに眠っている。

見ていると紫はゆっくり庭を歩き始めた。

そして、『きぼう』の細く長く延びている枝にそっと触れていく。

若店長は紫の優雅に歩いて行く姿をバーゴラの下のベンチに座って眺める。


夏の暑い日、水遊びになってしまった庭の中。

枝切りをした家の壁。

ゆっくり歩いた午後。

初めてキスをしたベンチ。

少しずつ思い出が増えていく。


紫は初めて見た時よりも大人びて眩しいくらいに華やかに輝いていて、見ている若店長は目眩がする。


やがて紫が満足したような笑顔を見せて若店長の元へ駆け寄ってきた。


「お待たせです。

では……」


紫はにっこりと笑って


「消えちゃうからすぐに受け取って下さいね、芳樹さん」


そう言うと、手元で両手を広げると、そこから泡が膨れ上がるように小さな白いバラの花びらが溢れ出してきた。


「うわわわわー……」


慌てて若店長は紫の両手を包み込むように手を差し出す。流れるようにこぼれていくバラ、バラ、バラ………。

溢れ出るバラは花弁を広げきると消えていく。

紫の手から生まれるきぼうのバラ、消えていくバラ、止めどなく、止めどなく、想いは溢れる。


「どうですか? 素敵でしょう?」


得意げな紫。


「ああ、奇跡だ」


若店長は紫を抱き上げ膝に抱き上げる。


「愛してる、紫ちゃん。君しかいない——」


若店長は紫をきつく抱き締め二人は唇を重ね続けた。


いつまでも、いつまでも泡のように現れては消えていく『きぼう』のバラたちが二人を包み込んでいった。







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