第44話 退院

若店長が作業台でバレンタインに合わせてディスプレイ用に花束を作っていた。

あの事件からすでに一か月。


事件の後、紫はバイトを辞めた。いや、辞めさせられたのだ。紫の母親がそう電話してきて以来全く来なくなった。

事件の翌日にはそれ相応の見舞い金と花束を持って行ったのだが、玄関先で追い帰されてしまった。

何も弁解する気はなく……如月と新田の事を言うわけにはいかなかったから……しかし、せめて紫に一目会いたかった。


作業を続ける自分の手にテーピングしてあるのを見るだけでも紫を思い出す。

夕方の三時、四時になると紫がバイトに来る時間だと思って店先を見る。

今更ながら、新田と如月の気持ちが解るな………そう自嘲する。


(愛している人に会えないというのは………胸が詰まりそうなほど切ないな……)


と思いながらも携帯を見ると紫からの元気な返事が山のように届く毎日。


(本当、便利だよ)


便利だが、やはり物足らないのも事実。

とりあえず両親の怒りが収まるのを待ってもう一度挨拶に行く予定だ。その時に———。


「店長」


そう呼ばれて振り向くと作業着姿が似合いすぎるほど似合うようになってきたアガサが店頭に立っていた。

思えば三か月前と一番変わったのは、このアガサである。あのなよなよと腰を振っていた動きもなりを潜め、今は如月のバラ園を手伝うのに忙しいらしく、いつも作業着姿のままだった。

見た目もごっついおじさんのようにヒゲも生やしたままだった。


「紫ちゃんがいなくなったら、ずーっと落ち込んでるわね——。画家の花屋が急に寂しくなったって感じで……。

そんなに寂しかったら明日からはあたしが店番してあげるわよん」


口調だけは元に戻り難いようだ。


「昨日で見張りも終わったからぁ、今日からヒマになるし——」


「いや、遠慮しとく。手はたりてるからな」


「紫ちゃんがいいのよねー、あの小娘は一体いつまで仕事サボってるのかしら、さっさと来いってのよね」


若店長は乾いた笑い声をあげる。アガサも寂しがっているようだった。


「そろそろ時間か……。病院の前まで移動しようか。もうすぐ退院してくる」


そう言って店番を百合と交代して店を出る。


アガサの白いワンボックスカーのスライドドアを開けると後部座席に如月冬哉が乗っていた。ペコリと無言で頭を下げてくる。相変わらず愛想がない。


(変わらないな)


それでもいいな、そう思う。


車は病院駐車場から正面玄関がはっきり見える位置に止めた。ここなら退院して来る新田裕介の姿が一瞬なりとも見えるはずだ。退院すれば、新田とはもう二度と会えなくなるだろう。

それがわかっていたから、どうしても後ろ姿だけでも見送りたかった、若店長も如月も。


やがて、九時過ぎ。


新田裕介は妻のユイとカナエと一緒に正面玄関に現れた。新田の随分と痩せた身体が辛い闘病生活を伺わせた。こうして新田が歩いている姿を見るのは久しぶりだった。少し動きの鈍っている歩き。

三か月前とは余りにも違う彼の姿に愕然となると共に、彼の回復力と、今の医療技術に賞賛の念を抱く。

肺ガンを克服した。けれどこの病はまたいつ、その芽を出してくるかわからない。

油断は出来なかった。


そろそろと歩いて行く新田はこちらには目もくれる事もなく妻の車に乗り込んで行く。そう思ったが、立ち止まり、辺りを見回す仕草をした。


「………」


息の詰まるような瞬間。


「………」


新田裕介の目が如月冬哉を認識してこちらを優しく見つめていた。彼の口元が緩んで笑うのがわかった。

若店長の耳に如月の吐息が聞こえる。

新田の目は如月を見つめたまま一度も離れる事なく車に乗り込み、静かに発進した車の中からでも如月と視線を合わしたまま………最後まで離れる事はなかった。

車はウィンカーを出し、右に曲がり街路樹の向こうに消えて行った。


「今日が本当のさよならだ……。もう二度と………二度と………」


如月は泣いていた。

しばらく三人はそこから動こうとはしなかった。とてもできそうにない。


二月の空は薄曇りから急に変わり空からはチラチラと雪が降って来て、身に染みる寒さが背筋をなぶっていく。

若店長は如月の肩を掴んで車の中へ送り込む。


「今度はおまえが約束を守る番だな。バラ園を作るんだろう。いつまでも泣いてないで、さっさとバラ園に向かえよ。

バラは一年や二年では百万本にはならないぞ。

やる気あんのかよ」


「あります、あるに決まってる」


若店長の激に如月は涙を擦りながら反抗的な声をあげる。


「これから………、五年以内にはそれなりの形にしてみせますよ。期限を付けないとダラダラになるから……、目標五年以内だ」


赤い目を向けて如月はそうはっきりと宣言した。


(五年か……、相当力を注がないときついかな)


と若店長は思うが、


「やらなきゃいけない事が山積みだな……。順調に進むといいな。

何かあったら、僕も呼んでくれ」


若店長の言葉に素直に如月が頷く。


「ありがとう、店長さん。

また、あなたの力を借りに行くかもしれません。

新田が生きている間に、少しでも早く……。

紫ちゃんに……、どうしても謝りたいから……、また、連絡を下さい。会いに来ます」


「ああ、また、画家の花屋で会おう」


「お世話になりました」


「ああ」


少しは礼儀正しい事が言える

ようになったじゃないかと皮肉を言ってやる。


「相変わらずですね、店長さんは……」


(柔らかく笑う如月は本当に綺麗だな……)


若店長はその笑顔を見ながらスライドドアを閉めた。

如月とはあのバラ園を通してまだまだ長い付き合いになりそうだった。泣きついてきたら喜んで行くつもりだ。ただ如月が泣きついてくるのはなかなか考え難いから、色々と理由を付けてバラ園に向かっている自分を想像すると、少しだけ笑えてきた。


(バラがなかったら………今の僕達はなかったな……)


若店長はこの先ずっとそう思い続けることになる。それくらい長い長い付き合いの始まりだった。


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