第43話 朝霧 如月
師走のマイナスにもなる朝の冷気が車の中にいても入り込んでくる。空は灰色に曇り、森から立ち昇る白い霧がそそり立つ岩山を幻想的に隠して行く。
辺り一面、濃い霧が漂っていて、ポプラ並木の枝には薄っすらと雪が降り積もっているのが見えた。
ヘッドライトの光をあてに如月のプレハブ小屋に着くと、完全防寒の帽子とダウンコートを羽織り外へと踏み出す。
「はぁー……、きれいだな」
寒さよりも霧の中に包み込まれているという感覚は自然と体中が浄化されていくようだった。
昨日の嫌な出来事を振り返って、冷静になって見つめなおすには、なかなかに乙な霧だ。
思わず若店長は小屋に向かわず、バラ園の方へ足を向ける。霧の冷気を感じていたかったし、それに久しぶりに来てバラの様子が見たかった。
ただ思ったより霧が深い。バラが植えてある位置がよくわからないが、最初に来た時よりかはバラの苗が何十本と増えているのだけは確かだった。如月とアガサが仲良くバラの苗を植えている姿が浮かんでくる。ただ、アガサは力仕事にはうってつけでも、如月の心までは動かせなかったらしい。いい男なんだが、如月のタイプではなかった。
若店長はまだ真っ白な世界をゆらゆらと散策する。頭が冷えてきて、背筋も伸びていく感じがして、寒い中をまだ歩き続ける。
はっきり言って、このまま如月に会うと勢いで殴りそうなくらい頭に来ていたのは確かだ。頭を冷やして、冷やして、ついでにぶん殴りそうな右手も冷やして使いものにならないようにしておきたかった。
「寒いな……こんな事ならアパートに寄ってアガサを二、三発殴ってから来れば良かった……ははは」
十分以上もバラ園を歩き回った後、頭も体も冷えきった若店長はプレハブ小屋のドアを開けた。
驚いて振り返った如月と一瞬睨みあった。
が、先に目を逸らしたのは若店長だった。とにかく寒すぎた。
「寒い、寒い」
若店長は冷えきった手を燃え盛るストーブへとかざす。すぐに如月が湯気の上がるインスタントコーヒーを差し出してくる。余りにもいいタイミング。
「来たの、気付いてたのか?」
如月は無言で頷く。そして、謝ってくる。反省はしているようだった。
「謝るくらいなら、最初っからするなよ。感情をぶちまけてお前の気が済んだだけだ。
周りは大迷惑だった」
そう冷たく言い放つ。
そして、昨日と今日の分合わせて二本のバラの花束を如月に差し出す。
「新田さんからだ。毎日……。そう契約してるんだから。届けに来た」
如月は黙って受け取り、紫の様子を聞いてきた。若店長としても治療をしたとしか余り答えようがない。
「紫ちゃんを怖がらせて………、本当にごめんなさい。もう、俺、紫ちゃんに嫌われちゃったよ。もう……合わせる顔がない………どうかしてた……」
「一つだけ聞かしてくれ……。
おまえ……、最初から紫ちゃんを襲う気だったのか?
計画してた事なのか?」
如月は力なく首を横に振る。
「新田があんまり症状が良くないって聞いたら、もう、最後かもしれないって思ったら……………、紫ちゃんを駅で偶然見かけて、それから……………、それから………」
「それから、おまえは紫ちゃんの足を刺したわけか……。そんな酷い事をされたのに病院で警察に通報しなきゃならないのを止めたのは紫ちゃんだって事を覚えておけよ」
如月がコクリと頷いた。
「………紫ちゃんはずっとおまえの気持ちを大切にしていた。
僕がおまえに冷たい態度を取るのに、優しくしろと言ったり、おまえの……、僕への気持ちに気づけと言ったり………、紫ちゃんは何も悪くはなかった。
おまえは冷たくする僕こそ、刺したかったはずだ。
それなのに……」
若店長の目は射るように如月を睨みつけていた。如月は決して若店長を見ようとはしない。出来ない。怖くて……。
「そんな事を………紫ちゃん、言ってたん……だ……」
如月は自分の手のひらを見つめながらその場に崩れるように座り込む。
「紫ちゃん……、結構鋭いな。俺が……、紫ちゃんを妬んでたって気付いてたんだ。こんな馬鹿な事をして………本当に、もう合わせる顔がない。もう、許してもらえない………」
如月は顔を手で覆って震えていた。涙の雫がポロポロと床に落ちていく。
「……紫ちゃんはそんな子じゃないよ。また……すぐ笑って、許してくれるよ。
そんな優しい子だ」
「………俺は、自分が許せない。あんな事して……新田にも嫌われたよ」
膝に顔を埋めて如月はしばらく泣いていた。多分、昨夜も自分の仕出かした事の重大さにどうしていいかもわからず泣いていたのかも知れない。
あれはれっきとした犯罪である。それを若店長が医師に頼んで表に出さないようにしてもらった。
若店長は、はっきり言って、泣くだけですんでいる足元で泣いている如月を蹴り倒してやりたかった。
(紫はどれだけ痛い思いをしたか———
そして、今僕たちは離れ離れだ。
やっぱり、殴っ……)
ストーブで温まった体がウズウズと如月に向かって勝手に動き出さないように、パイプ椅子を引き寄せるとそこに座り込み足を組んで足枷とする。自重、自重。
「新田さん、術後の合併症も快方に向かっているそうだ。……おまえには要らない心配をかけて病院をウロウロされたらかなわなかったから何も伝えなかった。それが裏目に出た。おまえの早とちりで……」
長い長い沈黙を破って如月がポツリ、ポツリと話し出した。
「眠ってた。会いに行った時………静かに息をして眠ってた。キスをしたら、目を覚まして………俺の名を呼んでくれた。
約束は守ってるから、次は冬哉の番だ……。
そう言ってくれた」
「そうか…」
正直、どうでもいいと思えた。
お客様のプライベートに介入してはならないーーーーそう自分で言って起きながら、未練たらたらの二人に振り回され、新田の我が儘を受け入れ、痛い目にあった。
紫のあの足の傷を思い出すだけでもやり切れない思いが溢れてくる。
「如月……。顔を上げて聞け。
これからの毎日のバラの事だけど……」
如月は顔を上げる代わりに先に言ってきた。
「もう、いい……ですから。
続けられるわけない。
こんな事になってしまって……すいません……」
「謝るのは新田さんにだろ。僕じゃない。おまえに毎日どんな想いを……」
言おうとして若店長は途中でやめる。二人の想いは二人だけの秘密だから。
他人が口を挟んでいい事は無い。
「新田さんには症状が良くなってから話すつもりだ。
貰ってたお金も今までのバラ代を差し引いた分をおまえに渡すよ。元々おまえが受け取るものだからな」
(五百万か……母さんが残念がるが……もう、手離した方が清々する)
若店長はそう思っていた。
「毎日のバラにお金を使ってしまうよりこれからバラ園を作る費用に必要だろう?
そっちのが有効利用出来るはずだ。
毎日のバラは無くなっても新田さんからの想いは十分おまえの中に伝わっているはずだ……。
もう………これで終わりにしよう」
若店長は冷えたコーヒーを飲み干す。
プレハブ小屋には急速に朝日が射し込み、如月の細い肩に白い光りが当たってきていた。すぐそばの床にはふっくらした唇のような赤いバラの花束が置かれたままになっている。
半年ほど続いたバラの贈り物の最後がこんな形で終わるのかと思うと少し残念でもあった。
「ある一人の画家がいたんだ」
唐突に若店長が話し出す。
「……っていうか、僕のじいちゃんから聞いたウチの店の名前の由来の話しなんだけど……」
如月は聞いているのかはわからなかった。構わず続ける。
話してみたかった。
何故、この二人が画家の花屋を選んだのか……。
因縁では済ませられ無いような気がしていたから……。
「画家は叶わない恋をした。身分違いの恋だ。
それでも想いを伝えたくて彼女に百万本のバラの花束を名前も告げずに贈ったんだ。
結ばれない恋をしながら画家は来る日も来る日も彼女を絵に描き続けた。
けれど一枚も売れないヘタクソだ。
仕方なくバラを描いてみたら、売れたんだよ。次から次へと……。
やがてひょんな事からそのバラの絵が彼女の手に渡った。
彼女にはそのバラがあの百万本のバラだってすぐにわかった。
彼女はあの時バラを贈ってくれた顔も、名前も知らない人に一目会いたくて画家を探し廻った。
けれど身分違いの恋を世間は認めてはくれ無い。
やがて二人は年老いて……、最後の一日だけを一緒に過ごして一緒に死んでしまいました」
如月は顔を上げて不思議そうに若店長を見ていた。
「暗いなあ………。俺の恋みたいで………まんまで……」
「そうでも無い。想いは伝わるっていう事を言ってる。
画家の花屋は、基本、叶わない恋の味方をする運命………に、あるかな」
如月がふふっと笑う。
さっきまで貝のようだった口を開いて喋り出した。
「新田は家族の元へ帰っていく。
元気になって生きていく……。
俺も一人で生きていく……」
「そう、生きてさえいれば、いつか………、このバラが二人を会わしてくれるはずだ……」
「来るだろうか? そんな日が………」
如月はゆっくりと立ち上がり外へと続くドアに向かう。ドアを開け、山の稜線から登りきった朝日に向かって歩き出した。
「如月……。どこまで行くんだ?」
「とりあえず、バラ園を一周……。頭を冷やして来ます」
「そうか……」
思わず薄着のままの如月の為にそこら辺にあった厚手のコートを取って後を追う。
「ほら、着ろよ。……まだ寒いんだから」
「すいません」
二人が向かうバラ園にはひっそりと息を潜めて春を待つバラの株が何十本と佇んでいる。
「結構、植えたな……」
「まだまだです」
「ああ、まだまだ、だ」
「バラに想いを込めて……ずっと愛してる。ずっと………ずっと………」
それぞれがそう思っていた。
それぞれが愛した人……、愛の形………。
花を愛した二人は冷たい朝の光の中を、付かず離れず歩いて行った。
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