第46話 花束にかえて 如月
花も盛りの五月。
雨森家の庭には今年も真っ白な『きぼう』のバラが満開に咲き誇っていた。可憐な小さな花が風にゆれ、甘い香りを遠くまで運んでいく。
香りの記憶は亡くなった人を、花を愛した人を、バラを大切にした人を、愛する人にバラを贈った人を思い出させる。
想いを花束にかえて———
雨森芳樹は毎年『きぼう』のバラで花束を作る。
くるくると枝を回しては、あっという間に小さな花の大きな花束を作ってしまう技はあいかわらず見事なものだった。
そして、もちろん花束を贈る相手は今や二児の母になった紫である。
子供達のお昼寝の合間を縫って二人っきりで過ごす時間。芳樹と紫は腕を絡ませてゆっくり、ゆっくりと『きぼう』の庭を散策して行く。
微笑みながら、花びらを一つ一つなでながら、時折二人はキスをしながら、花と花の香りを満喫しながら歩いていく。
けれどここ数年は春になると彼らの事が殊更頭を過ぎるようになっていた。
あの新田裕介が肺がんで入院してから十年の歳月が流れようとしていた。
『画家の花屋』が病院に出入りしているお陰で、その後の新田の病状をそれとなく聞く事が出来たのは若店長の人望のたまもの。
新田の病状は比較的に安定して再発もなく、如月との不倫前の「元通りの生活」をしているようだった。
もうあの後……新田が『画家の花屋』を訪れる事は一切無くなってしまった。
「お——若店長さん、はい、お手紙だよ——」
郵便屋さんからハガキを受け取った男の子が店内の丸椅子に座って店番をしているおばあちゃんの百合に渡しに行く。
「ありがとう、若店長さん」
「うん」
得意げに大きな返事をして男の子は今日の学校のでの話を始める。今年から小学校に上がって楽しくて仕方がない時だった。
そこへ小さな女の子を抱いた紫も加わる。店長の芳樹も配達の仕度を始めていた。
そこへ、一人の客が訪れた。
「あの……、すいません。私、新田と言いますが……」
三人は同時に顔を上げ、その懐かしい名前の客人の顔を穴が開くほど見つめてしまった。
陽光を受けて宝石を散りばめたように色とりどりに輝くバラの花がポプラ並木の向こう一帯に広がっていた。
如月冬哉は約束通りに五年目の春にはあのバラ園一面を百万本のバラの花で埋め尽くした。ご満悦の如月を悩ましたのはバラ園を見たいという多勢の物見遊山の人々だった。
「入れない。絶対に! ここは……、ここに入っていいのは……、彼だけだ」
そう言って如月は断固として誰一人バラ園には入れようとはしなかった。
一緒に作業をしていたアガサも若店長も如月の心情は十分理解していたから反対はしなかった。
そんなわけで、なんとかして少しでもバラを真近で見たいと思う人々がフェンス越しにバラ園の外周を回って行くことになる。文句を言う輩は多勢いたが、商売でやっているわけではないし、バラを勝手に折っていかれると逆に被害者はこっちだった。
そんな時でさえ如月はあまり怒らなかった。
如月は、探していた。
多勢の人の中にたった一人の人の姿を………。
もしかして、今日は、来てくれるかもしれない。
今日こそ……。
明日かも………。
別れた人が……来るはずもない。
泣き腫らした赤い目の如月をこの時季は何度も見ることになる。
アガサも若店長もどうしてやる事も出来ずに春は終わっていくのだった。
(約束した……、百万本にして想いを返すからと……いつか、いつか………、見に来て……)
そう願いながら幾つもの春が過ぎて行った。
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