第38話 クリスマス・ブラッド

トポン、トポン……


(雨……、水たまりに入っちゃったのかな?……右の靴の中が……、ビショビショで気持ち悪い……)


靴が水を含んで重い感触がする。


きぼうの庭でホースを持って水撒きをしている。足元まで水だらけになって若店長と大笑いしていた夏の日。せっかく買って貰ったサンダルもビショビショで、服もビショビショで、でも面白かった。


(店長……)


紫はまだ泣いていた。

グイグイ腕を引っ張る如月の後に着いて行くのが精一杯だった。靴がもうビショ濡れで歩きたくないのに歩かされて脳は混乱状態になる。もう少し、もう少し歩けば離してもらえる。病院につけば、新田さんに会えれば……、そこで終わりがくる。紫の意識はそれだけを支えに歩き続けていた。


◦◦◦◦◦


母の百合が紫の家に電話してみたが紫はバイトに行くと言って出たらしかった。

紫は時間を守る子だったし、今まで一度も遅刻などした事もない。それが今日に限って三十分以上も遅刻している上に何の連絡もなかった。


「おかしいな………」


若店長も異変に首を捻る。ただでさえ今日はクリスマス・イブだから早めにバイトに来てくれるよう頼んだはずなのに……。学校の友達と偶然会ったとかも考えられるが、連絡もないとは考えにくい。それだと、どこへ?

若店長は思い当たるアガサに電話をかけてみる。繋がるわけは無い。携帯は如月が持っているのだから。全く返事が返ってこない事がいよいよ不安をあおってくる。


(どうしたんだろうな、紫ちゃんも、アガサも……)


若店長の考えがまとまらない内に、画家の花屋の店先にクリスマス・ブーケを買いにお客がちらほらやって来ていた。そのお客様の対応に追われ若店長の判断が鈍った。それが仇となる。


◦◦◦◦◦


エレベーターで五階に着くと長い廊下が待っていた。


「早くっ!」


如月が急かしてくる。腕を引っ張られた時にアガサの部下の人が待合室の中からこっちを見ている事に気付く。けれど彼は紫の顔を確認すると何事もなかったかのように目を逸らしてしまった。そのまま動こうともせず新聞を広げてしまう。

如月が紫を一緒に連れて来る事にこだわった意味が心底分かった。紫の後ろには若店長の威力が及んでいるのだ。

紫がいる事でフリーパスに変わってしまった。


(誰か……、止めてよ。誰か……)


トポン、トポン……、


(靴が重い……、雨が降り止まない。どこで……降ってるんだろう? ここ病院なのに……変なの………)


長い長い廊下が少し滑りやすくて歩きにくかった。もう如月に付いていくだけで精いっぱいで早く座りたかった。


集中治療室の前で如月が「行くよ」と紫に確認するように振り返ってくる。そんな如月に紫は(行っちゃダメツ)と叫ぶ。もう声を出す感覚自体が飛んでいるのか自分が何をしているのかが分からない。その声はもう音としては出ていなかった。


カラカラとクリーム色の扉が開いて行く。ベッドには眠っている新田裕介の姿が見えた。点滴の管と口元を覆う酸素吸入器。新田の側にはその妻と娘のカナエが座っていて、くるりと振り返るのが紫には見えた。


◦◦◦◦◦


「まあ、お久しぶりです」


母の百合が大きな声で出迎える。

公也くんの葬儀以来久しぶりに店に現れた戸辻夫人は、レジカウンターの前まで来ると深々と頭を下げてこの間の礼を述べ始めた。

話している様子はどこか寂しげで、元気がないままだった。だだ機械的に礼をつくしている、そんな感じだった。


(この人に自然な感情が戻って来るのはいつだろうな……)


若店長がそう考えている時だった。


「………ええ、ちょっと病院の方にも用事があって行っていたら、病院で見ましたわよ、紫ちゃん。綺麗な男の人と一緒に並んで歩いてましたよ」


そう戸辻夫人が言っているのが耳に入る。その言葉を理解するのに数秒を要した。


「紫ちゃんが……」


「芳樹……」


百合が心配そうに息子を見上げる。

瞬間、若店長は店を飛び出して走り出していた。


(紫が一緒にいるのは間違いなく如月だ。しかも、もう病院の中にいる———)


嫌な予感しかしなかった。


◦◦◦◦◦


「あら、どちら様かしら?」


新田ユイが不思議そうに如月と紫を眺めてきた。カナエもじーっと奇妙に体をくっつけたままの二人を見つめていた。

如月はそんな二人などお構いなしに、吸いつけられるように新田のベッドに向かう。引き摺られるように紫も進む。


「どうしたの?、いつものお花屋さんの方でしょう?」


パイプ椅子をガタンと言わせて新田ユイが立ち上がる。


「あなたっ!」


そう呼ばれて新田ユイが駆け寄ったのは紫の方だった。紫は病室に入ると如月の強引だった手から解放されて、ふらふらと揺れながら立っていた。


「ごめんなさい……、今日は花束持ってなくて……」


新田ユイが金切り声を上げて病室を飛び出して行った。紫も揺れながら後ずさる。


「また、持って来る……から……」


(出なきゃ、ここから、遠くへ……)


目の端に如月が新田にキスしているのが見えた。紫はカナエにニコッと笑いかけて歩きだし病室を後にする。


「お姉さん、大丈夫ー?」


カナエが付いてきているのも分からなかった。廊下に出て元来た道を歩いて……。

朦朧とする意識のまま紫はその場に崩れ落ちていた。


◦◦◦◦◦


大きなモップを持った清掃の女性従業員がエレベーターホール近くでギョッとなって立ち止まる。

病院とはいえ余りにも見慣れない景色。

その血糊は、ベチャ、ベチャと規則正しく、人が歩いた跡の気配を残して、五階の廊下を渡り、待合室のまたその更に先まで続いていた。

仕事がら拭き取らねばならないが、これは……、異常事態である。


急いで報せに行こうとした時エレベーターが止まり、背の高い男性が飛び出して来る。一瞬、廊下の異常な赤い痕跡に気がついて足を止めたがそのまま走り抜けて行った。

ざわざわ騒ぐ人だかりが廊下の真ん中に出来ていた。新田の妻とカナエがしゃがみ込んで倒れている少女の側で心配そうに覗き込んでいるのが見えた。


「紫っ——」


若店長が全く動かない紫の側に駆け寄りその顔を覗き込む。


「なんで、こんな……」


息は?、怪我は?、紫の血だらけの右足に愕然となる。


(一体……、何があった……)


若店長の口の中がカラカラに乾いてくる。紫にもしもの事があったら……恐怖で体がすくみそうになる。

看護士の面々が何事か叫んでいる。「先生呼んで」とか、「ストレッチャー」とか、「若店長」とか……


「紫……」


床にいく筋もの血の跡が付いている。倒れたままの紫には意識がないが、息はあった。

若店長は軽々と紫を抱き上げると「医者は?」と叫んでいた。

機転を利かした看護士が「こっちよ」と処置室へと向かって誘導して走り出していた。ポタポタと赤い血が廊下に撒き散らされて行った。


処置室にはすでに数名の医師が集まっていた。

手早く紫の血だらけの服が剥がされていく。


「若店長は外へ……」


そう言う看護士に食い下がる。


「一緒に……、見る権利が俺にはあるっ!」


そう叫んでいた。


「んなもん、ないわ。ここからは医療のプロに任せて。若店長には後で何があったか説明してもらうからね」


(説明?

何があったかなんかこっちが聞きたいよ)


如月が紫を斬りつけた……、それしか考えられない。


「誰がこの子を刺したか、若店長は分かってるの?」


「犯人が分かってるなら今どこにいるの?」


「警察に連絡しなきゃならない義務があるのよ」


早口に喋り立てる看護士の言葉が頭上を通り過ぎていく感じがする。


(如月はどこに行ったのだろう。新田さんに会いに行ったんだろうが、あの妻子に見つかっていないだろうか?

いや…………、もう…、どうでもいい、どうにでもなってしまえ。

こんな……、こんな事になるなんて………)


若店長は立ち尽くしたまま頭を抱えこむ。


(新田さんを守ったつもりが、如月に牙を剥かれた。追い詰めていた。

自分のしたことは間違いだったのか?

やり方がまずかったのか?

大切なものを失う如月の気持ちを一度でも考えただろうか?

こんな事をしてまで会いたいと想い続けた人に会わせないなんて………、自分はあいつにとって嫌な、本当に嫌な存在だった………。

こんな事をしでかしたのは、自分への反感が積もりに積もって、怒りの矛先は……)


胸が張り裂けそうな叫びにギクリと振り返る。その悲鳴は紫の声だった。


「ちょっと、待って、若店長」


止めるより先に処置室に入って行く。


「紫……」


若店長の姿を認めると紫の手が求めるように彼に向かって差し出された。


「店長………」


その小さな手を包み込むように握りしめる。


「紫……」


看護士が出て行くように促す。


「先生の邪魔になりますので……」


そう言う看護士を遮って医師が言う。


「あー、いや、いてもらおう。事情を聞こうか。これ………、傷害事件レベルなんだけどな………」


知り合いの外科医師が紫のふっくらした右腿の傷口に何やら薬を塗り付けていた。


「どうして欲しい?、若店長。あんたの知り合いがやったんだよな?」


「ああ……」


若店長は吐く息と共に声を絞り出す。如月の奴とんでもない事をしてくれた。怒りが沸点まで達していたが、紫が何も言わずその小さな手を動かしてくる。若店長の思う事と紫の思いは同じだった。


「どうか、事を荒立てないで欲しい。紫にこれ以上負担をかけたくない」


「うむ……」


紫の太腿の傷口がパチン、パチンと合わせるような器具で塞がっていく。

医師が手も止めずに言う。


「上手く片付けるよ。任しとけ」


「ありがとう、先生」


医師の鮮やかな手さばきに感心しながらこの間と同じ事を思う。


(花屋なんか……あんまり人の役に立たないな……)


医師が立ち去り際、結構ザックリと切られた傷口は跡が残るだろうと言われた。

一生残る傷を……



(僕はこの傷を一生見ながら今日の日を思い出すんだろうか? 紫の腿に触れる度に……)


点滴を受け深く眠りについた紫の唇にそっと唇を重ねる。


「ごめんな……。君を守ってやれなかった………」


若店長は眠っている紫の髪を、頰を、唇を順番に撫でていく。目を覚ました紫を早く抱き締めたかった。二度と離さないようにきつく、きつく抱いて愛し合いたかった。


「しばらく安静にして眠らせてあげて」


看護士がやって来て注意してきた。例のバケツの看護士だった。


「点滴が終わるまではここにいてもらうわ。

彼女の洋服も廃棄だし、ご両親に来て貰えるかしら?」


「ああ、連絡する」


若店長の中で現実の針が動き始める。カチリ、カチリと……。少し前までは当たり前に刻まれていた時間と同じはずなのに、何かが違った。

取り返せないものがあるなら、それは目に見えないものだから………、紡ぎ直せるだろうか?

如月の行方を探すのが急務だった。


若店長は紫の両親に連絡する為に処置室を後にした。













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