第31話 バラ園 挿し木
『画家の花屋』の業務用のバンに乗り若店長は県外に在る山沿いの町を目指して走っていた。
右手に大きな川が見えている。信号機を右に曲がりその川の橋を渡ると途端に聳え立つ急峻な山々が目の前に迫って来る。山と川に挟まれた細長く伸びる街並み。人家も疎らになり、南向きの岩山が面々と連なる辺りに、やがて広々とした大地が見えてきた。
街路樹の背の高いポプラの木とフェンスに囲まれ、荒れ果てたまま黒々とした姿を横たえる大地は茫漠として何とも寒ざむしい。
それでもこの場所は、北方からの冷たい風を立ち並ぶ小高い丘が遮り、花を育てるには立地的にはとても良い場所に思えた。
入り口と思われる砂利が敷かれている所に車を止めると分厚いダウンコートを羽織って外に出る。十二月の冷たい風が迎えてくれた。
直ぐ側に建つクリーム色のプレハブ小屋の中の様子を覗き込む。小さな窓からは中の様子を全部見渡す事は出来ない。ドアも回してみたが鍵がかかっている。
「如月はいない……か」
少しほっとする。居なくて幸い。
学校の体育館位の広い土地は一メートルほどの高さのフェンスがぐるりと一周囲ってある。若店長はそのフェンスを難なく乗り越え中へ入り込む。
(広い………、そして、侘びしいな………)
見渡す限りの茫漠とした黒々とした大地。
目の届く範囲に人家も無く、世界には自分一人なんじゃないかと思えるくらい静まり返っている。
しかし、この大地も一度は機械ででも掘り起こした跡が見てとれる。ひっくり返された土は太陽の光を浴びて新しい力を取り込んでいるようにも見えた。
「如月がやったのかな? すごいな」
あの細い体の如月が土を耕していたのかと思うと、驚きと羨望の思いが募る。
自分にもこれだけの土地があったら———、自分なりにバラ園の完成イメージを立ててみる。それだけでもゾクゾクするくらい気分が高揚する。『きぼう』のバラはもちろん、何種類ものバラを植え付けて五年以内にはそれなりの形に仕上げてみせる自信はある。
しかし、ここは如月のものだ。
一途に新田裕介を想う気持ちがバラを作らせている。百万本、それを今までの、そしてこれからの二人の愛の形にしようとしている。
若店長自身にも同調するような想いがある。
紫がバイトに来て春には『きぼう』のバラの花束を贈ろうと決めていた。バラが上手く咲くようどれだけ気を付けて世話をしたかわからない。
如月がバラに込める想いがどれだけ強いかは痛い程わかる。
バラが関わると少しだけ如月には仲間意識が湧いてきていた。
若店長はまだまだ手付かずの大地を眺めながらある物を探していた。
(あの毎日のバラをどうしているのか?)
新田が言うには挿し木にしているとの事だが……。
少し歩き廻るとそれとおぼしき物が挿してある一角を見つけた。
見ためは割り箸が黒い土に挿してあるようにしか見えない。
若店長は迷ったがその中の数本を引き抜いてみる。
何カ月も経つのに案の定まだ根が出ていない。これではすぐ枯れてしまう。
「ふむ」
若店長は唸ると胸ポケットからフローリストナイフを取り出し、その枝の先を極力斜めに切り落とす。そして、持って来た発根剤を切り口に塗り付けると再び土に戻してやる。それを何度か繰り返す。
挿し木をしてある土はこの辺りだけ目の細かいものが使ってあった。土に関しては問題点は無い。上手くすれば根も出て来て上手く育つだろう。
「なんで店長さんがここにいるんだよ」
急に声を掛けられ若店長は飛び上がる。
振り向けば如月冬哉がすぐ側に立っていた。防寒用の厚手のつなぎを着ていてどこの作業員かと見間違えるが、深緑の髪で美貌の顔立ちは見慣れたものだった。
「良くここが判りましたね? アガサさんに教えて貰ったんだ」
「まあね、一度でいいから様子を見たくてね。でも、来てみたらまだ少ししかバラの苗が植わってないじゃないか」
若店長は立ち上がり数メートル離れた場所を指差した。そこには五十株程のバラの木が冬支度の葉の刈り取りを終え枝だけになって縹渺と立ち尽くしていた。
「あれは去年と一昨年に植えたものです。少しずつしか、出来なくて……」
如月は挿し木がしてある所にしゃがみこみ一瞬だけジロリと若店長を見上げる。切れ長の目が怖いほど睨まれた。
「触ったんですか?」
「少し………ね。ちょっと気になって……。君は誰かの指導を受けてやっているのかい?」
若店長は至極当然の事を聞いた。これだけの土地だ。まさか一人でやっているという事は無いだろうと思っていた。
「最初に知り合いの園芸会社の人に来て貰って色々聞いたし、土を掘り起こしたりの作業も手伝ってくれました。
土を耕すなんてした事もなかったし、苗の植え方も分からなかったから。
でも、今は全部俺一人でやっています。そうじゃないと意味がないから」
意味深な言い方。これを理解出来る人間は本人と新田と画家の花屋の人間だけだろう。
「本当に百万本作る気あるのか? 毎日のバラを大切に挿し木にして………、まぁ、うちの花を大事にしてくれるのは感謝するけど………、そんなやり方は時間がかかり過ぎなんじゃないかな。新田さんに見て貰うんだろう?
これから大苗を植え付ける時期になる。植えるんならアガサにも手伝って貰えばいい。体力だけはある奴だから一日中でも働いてくれるよ。
挿し木なんてのは時間がある時にすればいいじゃないか。
毎日貰うバラにこだわる必要はないだろ? 新田さんの想いは十分に伝わっているんなら、今は苗を植えて一日でも一年でも早く満開のバラを見せてやる事だろう?」
「わかっています。それくらい………」
如月は立ち上がると、もう一度若店長を睨んでくる。
橙色の陽光が如月の俯き加減の横顔に降り注ぎ、眩しい程に照らし出す。確かに恐ろしほどに整った顔立ちの美少年である。バラの化身の様な如月に抱きつかれたら断わりきれ無いのも道理だ。
若店長は冷ややかに如月を見つめた後、もう一度このバラ園で気になる事を告げる。
土地全体の土壌が硬すぎる事。もっと堆肥と赤玉土を入れ柔らかくしてやる事。
「園芸会社の人もそんな事言ってたような気がする………」
ぼそりと如月は呟く。
如月はとりあえずは熱心に語ってくれる若店長の後に付いて行く。
「どんな花を植えるにもそうだろう。土が一番大事なんだよ。そして、肥料はやり過ぎない。ほどほどにだ。まぁ、こんな事は園芸本に幾らでも書いてあるから参考にしろよ」
「わかってます」
「あと害虫と病気……。バラにはつきものだから。薬を駆けるのが手取り早いけど、オーガニックにこだわるんなら市販の木酢液とか、ニンニクと唐辛子を焼酎で漬け込んだ液を薄めて駆けてもいいし………」
結局二人は連れだって植えていた五十株ほどのバラを見て廻った。枝の中に潜む害虫を削り出す為だった。
如月は黙って後を付いて来る。
また挿し木の所に戻り、如月に枝の切り方を教える。素直に聞いて、自分の真似をしようとしている所はなかなか可愛い所があった。
若店長も作業を続けながら話し出した。
「この間新田さんの見舞いに行って来たよ。今月の始めには肺の一部を切除するそうだ」
如月は一瞬顔を上げて若店長を見つめてきた。何も知らないのは当然だが、その顔は驚きで目が見開かれていた。
そして———、
「おまえ……、この間新田さんに会いに行ったそうだな。アガサにも問い詰めたら自分達が見張っててやるから会いに行って来ればいいとか言われて………」
如月は、はははと乾いた笑い声を上げて立ち上がる。
「なんだよ、やっぱり店長さんはそれを責めにわざわざここまで来たのかよ。
あんたは………、俺の気に入らない事ばっかりする」
そう言う如月の中でついこの間、病室での新田の冷たい態度と言葉がリフレインしてくる。
後悔していた。
毎日毎日鬱陶しいくらい付きまとって来るアガサが、
「冬哉ってかわいそうね。こんなに毎日バラを受け取ってるのに、愛する人には会いに行けないなんて……」
「別れたんだから会いに行かないのは当然なんだけど」
如月が冷静に反論して言うのに、アガサが重ねて言ってきた。
「次の代わりになるような人は現われないかもよ」
「代わりなんか要らない。新田だけだ。
新田が生きている、それが一番大切な事だから、今は……、会いに行かない。
毎日病院を見張ってる人やアガサさんには悪いけど、俺は新田には会いに行かないから」
そう言ってにっこり笑顔を見せる如月にアガサの方が毒けを抜かれてしまう。更に若店長の指示で見張りなんかしている自分達の行動が無意味に思えてきた。
「良い子ね、冬哉は。ちゃんと新田さんの事情を理解して、身を引いて、アガサ泣けてくるっ……」
そう言って泣き真似をするアガサが、もしも、どうしても、我慢出来なくて新田に会いたくなったら言いなさい。私が会わしてあげるから、と言い出していた。
甘い誘惑はたちまち張り詰めていた如月の恋心に入り込んできた。
新田の病室に現れた自分を見つめる顔がとても怖かった。
(歓迎されない——)
若店長が言っていた事など忘れていた。
自分が思うよりも新田の方が冷静に現実と向かい合っていて、浮ついた気持ちのままの如月を否定してきた。
(もう来るな。さよならしたはずだ。
手切れ金がわりのバラを毎日渡してるはずだ。
それでは不満か?………さっさと帰ってくれ……)
如月は決して若店長を見ようとはしなかった。自分の愚かさを見抜かれていたから。
「今日は別に責めに来た訳じゃない」
若店長は突っ立っている如月のスニーカーを見つめながら話す。
責めるべきはアガサだろう。どんな同情で二人の間を取り持とうとしたのか知らないがあれはやるべきではなかった。
二人はもう別れたというのに傷口に毒を塗るようなものだ。
「純粋にバラがどうなっているかを見に来ただけだ」
「それで、自分の気に入らなかったら触るんだ。人が一生懸命植えているものを………」
「おまえさぁ、ったく、その言い方………」
髪をかきあげながら若店長はぼやく。この生意気なクソガキは本当に気に入らない。
「本当に、おまえも新田さんも面倒な事考えてくれるよ。
おまえら二人の問題に巻き込まれて僕に何の得があるんだか……。
むしろコソコソと新田さんに会いに行ったり、アガサを見張りに雇ったりして、なんか………、嘘を必死に隠してるみたいで………情け無いんだよ、僕は……。
バラの花がなかったらとっくの昔に逃げ出してる」
若店長は手を止めること無く挿し木の根元を鋭利に切っていく。そうやって埋め直し作業を終えた。
如月がずっと黙ったまま若店長の手先を見ていた。少しは勉強になったのだろうか? 誰の為にやっていると思っているのだろう。
「悪い事は言わないから、百万本のバラにおまえの想いを閉じこめるつもりでバラ園を作る事に集中しろよ。
おまえの想いは、表だって出せないものだろ?
愛した人には妻子がいた………。最悪の恋だ。
それでも、おまえはまだ新田さんには嫌われてはいない。
だから、これ以上、新田さんには関わるな。
別れても新田さんとおまえの間にはバラがあるだろ?
新田さんも百万本のバラを楽しみにしているんだから………、な」
「わかってます」
如月は土をいじりながらそう答える。
(わかってるんなら病院に行くなよ)
若店長はそう言おうとしたがそこまでは如月を追い詰めたくはなかった。
紫が優しくしてやれと忠告する。とてもそうはできそうにない。するとかえって勘違いされそうなのだから。
若店長は立ち上がり足元の土を払うと、
「邪魔したな、帰るわ。頑張れよ」
そう言ってバラ園を後にしようとする。
「もう、……、来ないで下さい」
背を向けて車の方へ歩き始めた時、如月が声をかけてきた。随分な言い草である。こっちの気も知らないで。
「わかった、来ないよ。……あー、でも百万本のバラが咲いたら見にだけは来たいなぁ………」
「………」
如月は答えない。
若店長は肩をすくめて見せるとさっさと振り返り車に乗り込む。
如月って、意地っ張りな奴だなとつくづく思った。
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