第32話 バラ園 出会い
「どんな想いを新田がこの一本に込めてるか知らないくせに………余計な事を………」
如月はたった今手直しされた挿し木達を見下ろしながら呟く。
腹が立つあまりそのうちの一本を抜いてみてぎょっとなる。
(嘘………まだ数分前に店長が触ってて……。もう、根が出ようと伸びてきている。ありえない……)
如月が見たのはまるで生き物の様にクネクネ動くたった今生えて来たばかりの白い「根」だった。
ゾクリと背筋が冷たくなる。寒さのせいではないのはわかった。あの若店長の手が触った挿し木だけの現象だ。
(凄い…)
普通の人なら引くところだがそこは同じ花に魅了された者同士。この不思議な現象が相手への崇拝の念になる。
(こんな力を俺も欲しい)
如月は怖がるどころか若店長に更に畏敬の思いを抱いていた。
若店長を初めて見たのは当然『画家の花屋』だった。
まだ新田に出会う前。
その時もあの白いバラが満開の時期で甘い香りに誘われるように店の裏からそっと中を覗き見していた。
そこにバラの手入れをする若店長がいた。
背の高い細身の、素敵な人だった。
何と無く少し気になる人で、それは当然バラを見事に咲かせている彼の仕事に対しての尊敬からきていた。
そう思っていた。
その頃には自分が深海魚なんだという自覚があった。LGBT。深海三万キロの海に漂う生き者。
巡り会うかどうかわからない相手を求めて漂う街。
駅の雑踏。
(ちょっ……)
(あっ……)
前から来る人を避けきれずにまごつく。顔なんか見ていなかった。足元だけ。左右に振られた体は少し体勢を崩し、すれ違いざま、新田の方が荷物を如月の足に当ててしまった。
(すいません)
(あっ、いえ……)
本当ならそこで終わりのはずだった。一瞬だけ繋がった二人の空間は何事もなかったようにあっと言う間に引きちぎられ別々になっていく……はずだった。
パーカーを被っていてもよくわかる如月の恐ろしほどに綺麗な顔立ちに新田が立ち止まった。
こうやって他人がジロジロ自分を見てくる事には慣れていた。
(またかよ)
そう思ってちらっと見た新田は似ていた。背格好も一重の綺麗な目も……あの『画家の花屋』の店長に……。
似た人に魅かれていった。
最初は本当にあの白いバラに魅了されてバラ園を作りたいと思っていた。新田も賛成してくれた。如月は花の育種家の血筋を引く身だ。実家はすでに花屋を辞めていたが親戚のこの土地は、———溢れんばかりにバラの花が咲いていたのをまだ憶えている。確か跡継ぎがいないとかの問題で放置され、バラは枯れ、———売りに出されていた。
「バラ園を作りたいんだ」
如月の無邪気な発想に新田は迅速に対応してくれた。法的な手続きをして、驚くほど安くこの土地を買い戻してくれたのは新田だった。
どうやったのかは知らないし知る必要もない。新田という存在がどれほど大切か再確認したのだ。
(新田無しでは、何も出来ない)
如月はそう思うようになっていった。
たとえ新田に妻子がいようが如月はこの関係のままずっとずっといたかった。
「初の…俺の写真集……ていうかメインは花々なんだけど、写真集を買うターゲットは花好きの人達だから、花が如何に綺麗に見えるかにこだわって撮ってあるんだけど………)
(バラのない……写真集なのか? おかしいだろう? 売れないんじゃないのか?)
意地悪く新田が口元を歪めてからかう。
(いいんだよ。バラは俺がバラ園を完成させたらそこで撮る事にしてるんだ。だから急いで作らないと俺、すぐおっさんになっちまうから)
新田は笑って
(冬哉ならおっさんでもずっと綺麗なまんまだと思うよ)
そう言って如月を抱きしめていく。
あの頃はバラ園を作るのに
必死だった。
(新田に綺麗なバラ園を見せたかった。俺には……二人の関係を形として残せるものが何もなかったから……)
妻子ある人との略奪婚などありえない。
(まして自分は同性だ。まだまだ世間の目は冷たい。いずれ……この関係は終わりが来る。そんな破滅しか無い恋だったから……。
想いだけでも形にして届けたかった。毎年、花が咲くたびに悲しい恋だったと——幸せな恋だったと想いを伝えたかった)
バラの写真集を出せる事を目標にしていた矢先——。
新田の身体に思わぬ病気が見つかった。目の前が真っ暗になるような宣告。
信じられなかった。
そして、その時まで同じだった二人の想いが別々の方向へ向かいだした。
別れ
さよなら
会わない
新田の口から発せられた全ての言葉がどれも胸を切り裂いた。
如月にはどれも空虚な言葉であり、絶望を突き付けられただけだった。それはそのまま新田への信頼を一つ一つ崩していく言葉だった。
ただ一つ、新田は如月が作るバラ園のバラだけはどうしても満開の時に見てみたい。そう言った。
バラ園。
その時にはそれだけしか、新田と如月を繋ぐ接点として残っていなかった。
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