第22話 きぼうの庭

パキッ 、パキッ、パキッ

夏を過ぎて、放置されていた『きぼう』のバラの葉は隙間なく生い茂り、枝はからまるくらいに伸びきっていた。

少し涼しくしてやろうと伸びすぎた枝や古く邪魔になる枝を切り落とす。それらを刈り取ることで新葉が更に伸びていくことができる。

少し遅くなったが、ようやくきぼうのひと枝ひと枝がゆったり手を広げられるようになった感がでた。

広い庭のあちこちには切られた枝が山のように盛り上がっている。バラの根元にあるラベンダーの上にも枝がかかり迷惑そうに首を垂れていた。


「ごめんよ」


若店長はその枝も取り去るとゴミ袋の中に押しこむ。


「おはようございます。店長。お母様から手伝うように言われてこちらに来ましたが……」


「ああ、紫ちゃん。おはよう。こっち来るまえにゴミ袋もうちょっと持ってきてくれ」


「はい」


おはようと言ってはいるがもう午後三時半過ぎ。出勤の時の挨拶はこんなもの。


「どうぞ、店長」


紫がゴミ袋を持って庭へ降りてくる。足元には紫専用の和柄のサンダル。


「すまん、そこらへん置いといて」


若店長はジャージに軍手もしっかりはめた紫の姿をチラリと見る。


(こういう格好もさまになってきたな)


もう一年以上も花屋にいるのだ。『きぼう』の手入れを去年もしてもらった。


「気をつけて。トゲがあるからね」


「はい……、気をつけます」


紫がにこっと笑いながら枝を抱え上げると、若店長がさっとゴミ袋の口を持ってやる。


「すいません」


「なんの」


二人は黙々と枝を集め三十分もかからずに庭はすっきりと片付いた。


「やっぱ二人は早いな。紫ちゃんがいると助かるよ」


「いえ、ほんの少ししか……」


「いやいや、本当助かるよ」


側にいると紫の体から汗の匂いがする。紫は持っていたミニタオルで顔の汗を拭っていた。


(少しなものか、結構広い庭をあっちへこっちへ走り回ってくれたではないか)


「少し休憩しよう」


「はい」


紫は先に縁側から上がり台所から麦茶を取って来る。

二人は縁側に並び麦茶と台所に置いてあった抹茶団子で休憩にする。

紫はチラリと若店長の横顔を覗き見る。さっき学校が終わってやって来た時店番をしていた百合が言っていた。


「あの子、今朝からずっときぼうの枝切りしてるの。

考え事する時は決まってきぼうの所に行くのよ」


「新田さんと如月さんの事ですよね。店長を悩ましてるのは……」


「そう、如月さんが約束破ってもしも病院で奥さんと鉢合わせになったら新田さんは身も蓋も無いでしょう。

本当ドロ沼。ドロドロになったら病気の療養どころじゃなくなるわ。

あの子、そういう所まで考えちゃうのよ。

もう、なるようにしかならないのにねぇ」


百合はいたって呑気な事を言う。新田にすれば目を覚ました時に妻と如月が正面衝突していたでは、そのまま卒倒しかねない事態を招くことになる。

身動き取れない病人に、大切なお客様に、五百万円も大金をもらったわけでもあるし……、若店長が余計な事に首を突っ込まずにはいられない理由は揃っていた。


「きぼうはね、昔はあんなに見事には咲かなかったのよ」


百合はレジ裏の丸椅子に座りながら、ふと昔を懐かしむ様な顔をする。


「私の主人なんか全く花には興味無しで二代目継いだもんだから、なかなか商売も上手く回らなかったし、きぼうも最後の一株までにしちゃったからね」


「ええっ!そんな時があったんですか?」


紫は心底驚いて百合に聞き返す。百合は何度も頷いて答える。


「主人は向いてなかったんだろうねぇ。どうにかこうにか店は回ってたけど、呆気なく死んじゃうし、跡を継いだあの子には本当に苦労させちゃった」


紫は百合の言葉と抹茶饅頭を無言で頬張る若店長を重ねながら彼の姿を見つめる。


「今だに世間の人はあの子の事を若店長って呼ぶでしょう。

店長、若店長って親子揃ってこれからって時に父親が亡くなって、途方に暮れてたあの子へのエールでもあるのよ。

さっさと一人前になって店長って呼ばれるようになれって。

店の経営に行き詰まっては庭に行き、人になんか言われては落ち込んでは庭に行き、あの庭で世話してるふりして出て来ないのよ。そんな事がしょっ中あったの」


『きぼう』は芳樹の汗や涙や迷いを全部吸収して育った結晶みたいな物だから。


そう教えてもらうと『きぼう』のバラはますます愛おしい物へとかわっていく。

紫の中ではあの花束の思い出が更に輝きを増してくる。白い小さな花。抱えきれないほど大きな花束にして………。


「きぼうのバラ? あの子の大事にしてる物を勝手に切ったりは私は絶対しないわよ。あの子も他人にあげたりした事なんかないわね」


百合もそう言い切る。

若店長がそれほど大切にしているバラ。紫はそのきぼうのバラの花束を貰った特別な存在なのかもしれない。紫の胸の鼓動が自分でも分かるほどに高鳴る。


(花束に込めた想いは……)


「庭にひきこもりしてるとかなんとか母さん言ってなかったかい?」


抹茶饅頭を食べ終わると若店長がついさっき百合が言っていた事をピタリと当ててきた。

紫は慌てて饅頭をお茶で流し込み、コクリと頷く。


「はい、おっしゃってました」


はははははと若店長は声を上げて笑う。


「全くいつまでも子供扱いだよな。見りゃ分かるだろうに。きぼうの手入れをしてただけだよ、ね——」


紫に向かって同意を求めるように頷きかけた。紫も「ね——」と小首を傾げて同意する。

二人はお互いに笑い合う。


「この庭の『きぼう』は州じいちゃんが魅惑の人に貰った最初の一株から始まってるんだ。

大きく育てては挿し木をして増やして、それの繰り返し。全てが同じ遺伝子を持ったコピーみたいなものなんだ」


紫は花にも遺伝子があるのかと感心する。


「如月が広大な土地を買ってバラ園を作るって話を聞いた時、正直羨ましいと思った。この小さな庭ではこれ以上増やすのは無理だからね。

広い土地があるっていうのはそれだけで夢がある。何百、何千と苗木が植えられて、数年後には満開になれば……、そう思うとワクワクする」


若店長は嬉しそうに語る。


「でも、僕の持ち物はこれだけだ。花屋としての仕事もある。

これ以上手を広げると手入れも大変になってくるし、この大きさが限界かなとは思うんだけど……」


「如月さんの作ってるお庭を見に行きたいんですね。どうなってるか気になっているんでしょう?」


紫が若店長の気持ちを代弁するように言う。


「ああ、ただその場所がわからない。新田さんからも教えてもらえなかった。如月が口止めしてるらしい」


内向的な如月の判断らしい秘密主義だ。


「なあ、紫ちゃん、如月の事なんだけど」


若店長は目下、自分を悩ましているもう一つの問題について相談する。


「新田さんからは如月と家族が出会わないよう注意を払ってくれなんて頼まれたんだけど。

僕も迂闊に(任して下さい)なんて返事したけど、はっきり言って、そんな無理な事言われてもできないんだよね。

如月に首輪でも付けて繋いで置けたらいいんだけど」


紫は飲み終わった麦茶を後ろに下げると若店長の横で、


(んにゃん)


と頭に猫耳を着ける真似をする。


(えー、何?)


と若店長が引きつったように笑う。


「んー、如月さんはどちらかというと犬じゃなくて猫タイプな人だと思います。

ネコ耳なんか付けてあげたら可愛くなりそうでしょう?」


「………僕は君の言っている事が分からない。ネコ耳を男に付ける意味が分からん」


ネコ耳が一時期流行ったらしいが若店長には全く着いて行けない話題だった。

こうやって話しが食い違って、すれ違うのは歳のせいかと愕然とするときがある。

ジェネレーション・ギャップ。

こればっかりはどうしようもない。

紫はお構いなしに猫耳のポーズのまま、


「如月さんなら、たぶんネコみたいにそろおっと、新田さんの病室に忍び込みそうな気がします。

病院って以外と出入り自由だし、新田さんの奥さんが守っている自宅に比べたら簡単な事だと思います」


「ほぉ——」


紫らしい見方だなと感心する。若店長もその意見には賛成だ。

如月は十中八九新田が入院している間に彼に会いに行こうとするに違いない。紫が言う通り病院は出入りが自由で怪しまれる事はない。

もし、新田の妻と鉢合わせしたとしても素知らぬ振りで逃げることもできる。

あのバラが手切れ金がわりに毎日如月の手に渡されてはいるが、二人を切り離すには余りにも効果が無さすぎる。バラの効力はさよならではない。


愛しているだ。


大昔からずっとそうだった。

魅惑の花の女王として人々に愛された花は胸の中に眠る情念をかき乱す。

愛している人を求めて止まない花だ。

新田と如月の中に今も残ってくすぶっている想いは毎日、毎日紡がれていく。


決してさよならではない。


愛して、愛して、まだ足りないだ。


「不倫なんかする新田さんが全て悪いと思うんだよ。奥さんにバレて家庭崩壊になっても自業自得、そう思うんだけどね」


「私も不倫には反対です。でも、新田さんの味方をしてあげたいって思ってるんですよね。どうしてですか?」


「味方………か……。

味方をするのは新田さんの家族かな。家庭崩壊なんかして欲しくない。それだけだ。

あとはお客様だから、かな。

バラを手切れ金代わりに使うなんて聞いた事ない。しかも七十年。

この先彼らがどうなるか見て見たい、そう思ってる。

たとえ結末が最悪であってもね。

それに、もう五百万も頂いたんだから、やらなきゃならんだろ」


「七十年かぁ、私八十八歳になってます、すっごいお婆ちゃん」


「僕は間違いなく死んでるわ。百越えてるし……」


お互い黙りこんでしまう。

先のことなど考えても仕方がないのに、厳然たる年の差を今はっきり感じてしまった。

紫がまっすぐ若店長を見つめながらはっきりとした口調で言う。


「絶対長生きしないとダメですよ、店長。お仕事完了しませんよ」


「ああ、だね。紫ちゃんが可愛いお婆ちゃんになるまで一緒に居たいものだ」


紫がほわっと柔らかく笑ったのにつられるように若店長も笑う。


(今、僕は結構大事な事を言ったんだが、スルーか……)


しばらく二人の間に沈黙が落ちる。


「少し庭を歩こうか?」


若店長は立ち上がると右手を紫に向けて差し出す。紫も思わず若店長の手を取り庭へと足を向けた。

二人は黙り込んだまま緑で溢れかえるきぼうの庭をゆったりと歩いて行く。

ゆっくり、ゆっくり……

二人だけの特別な時間

特別な場所

特別な人


「何、考えているんですか?」


ずっと考え込むようにして黙り込んでいる若店長にそっと紫は声をかける。


「新田さんの事?、それとも如月さん?」


はははははと若店長は笑う。


「んな訳ないだろう。君の可愛い手を握ってるのに考える事は一つしかないよ。どうやって紫ちゃんとキスしようか、だよ」


ドクン。紫の心臓が跳ね上がる。


「店長——、そういう冗談言って——、本気にしちゃう人がいるからダメって言ったでしょう」


紫はそう軽く返すのが精一杯だった。心臓がバクバク早鐘を鳴らしてくる。


「紫ちゃんこそ本気になってくれないかな——」


若店長は顔を真っ赤にしている紫を誘うように、握っている手を回すとすっと左腕に紫を抱きしめる。そのまま歩き疲れた二人は小さなベンチに座りこむ。

ベンチの上はバーゴラ仕立ての屋根がきぼうの葉で覆い尽くされている。まるで秘密の場所みたいに。

唐突に若店長は話しだす。


「紫ちゃん、この間のきぼうのバラの意味……君、分かっててくれるよね?」


改めて紫にそう聞いてみる。紫が鈍いなら事は全くの白紙から始めなくてはならない。

だが若店長の意に反して紫はコクリと頷いて返事をしてきた。いつもは透き通るほどに白い紫の顔は真っ赤に染まっている。


「そっか……まあ、良かった、伝わってて……」


ここまで言ってから若店長は始めて後悔した。

花束ならただの花束としてそこに込めた想いを相手に直接は伝えられないが、想いを自分の中にしまってもおける。自分が傷つくこともない。臆病者には花束はうってつけのアイテムだ。

けれど口から出た言葉は取り返しようがない。紫の気持ちなどお構いなしに勝手に歩き始めてしまう。

紫には全く迷惑な話かもしれないのに。

如月のような若い奴が好きかもしれないのに。

十三歳差がある自分はオジサンだぞ。

この後に及んでもまだ迷いはあった。しかし、若店長は昨日からの想いを止めようがない。ええいままよと腹をくくった。


「きぼうの花束には、愛しているの想いを込めた。

紫ちゃんとの年の差はどうしようもないし、僕は君よりも先に老いて、先に死んでいく。

だだ……ただ……僕は紫ちゃんがあんまりにも愛らしいから好きで、好きでしょうがない。

僕の今の正直な気持ちだ。紫ちゃん………………、愛している」


横にいる紫はさらに顔をうつ向けてしまっている。


(わあ、どうしよう………、いきなり………)


紫の頰は熱くなり過ぎ、見えるなら紫の頭からは湯気が出ていたかもしれない。


「紫ちゃん……返事は今でなくてもいいから……急がないから……僕の想いだけは知っておいて欲しい」


若店長はベンチから立ち上がろうとしたが、紫の手が自分の手に添えられていることに気づいて途中でやめる。

その手はまだ行かないでと言っているようだったから。

若店長は紫からの言葉を待つようにしばらく紫の小さな手を眺めていた。


「だって……」


ポツリと紫が言う。


「だって、店長が花束をくれたから私も花束で返そう思ってて……でも、上手くできないし……」


「あっ、そう……なんだ」


紫がそんな事を考えていたとは若店長はびっくりする。


「そのうちに、もっともっと一杯練習したらきっと上手くできるから……」


何となく良い感触がある。若店長はこの際だと押してみる。


「どんな想いを込めて?」


「それはもちろん……」


紫は思わず若店長を見上げようとすると若店長の前髪が額に当たってきた。


(うわわわ、近い)


「何?」


「あの……」


「愛してる」


「うん」


紫が頷くと額に触れる店長の髪も揺れる。二人は何度かためらった後そっと唇を重ねた。



きぼうの葉が風に揺れ夕暮れの黄金色の光を受けて波のように光り輝いていた。



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