第21話 家族会議
閉店後、紫は珍しく雨森家の食卓についていた。
百合の作った麻婆豆腐にキャベツの肉味噌炒め、鶏肉とキュウリのあっさりサラダ、ワカメの味噌汁をみんなで戴く。
「百合さんはお料理上手ですねー。私、全然出来なくって……」
「大丈夫よ、すぐ出来るようになるから。私が教えてあげるわ」
「はい、絶対ですよ」
「本当、早くお嫁にきてほしいわねぇ」
ゴホッと若店長がむせる。でも、誰も突っ込まなかった。
そんな茶化すような雰囲気ではない。
味噌汁をすする若店長は明らかに機嫌が悪かった。ふさぎ込んでいるようにも見える。
昼間に新田から呼び出しを受け、その話しの内容があまり良くないものだったのは明らかだ。
(紫ちゃんにも新田さんから聞いた事話すから)
と、緊急に呼ばれた。
それで今夜は雨森家に長居しているのだ。
早々に晩御飯を食べ終え、後片付けを済ませると、テレビを見ながらコーヒーを飲んでくつろいでいる若店長の前へと二人は座った。
「それで新田さんの話はどうだったの?」
百合も入れてきたコーヒーを飲む。若店長はテレビを消して二人に向き直った。
「夜も遅いし、要点だけ伝えるけどその前に、母さんも紫ちゃんもあのバラってどんな意味で贈られてると思ってた?」
そう聞いてくる。
二人の答えはもちろんバラかの定番「愛してる」だ。
ちっちっちっと若店長は舌を鳴らしながら人差し指を振る。
「それが全然違う、さよならって意味だった」
百合と紫は「はあ?」と冷たい声を上げる。
「新田さんと如月さんが不倫の仲だというのは正解だけど、あの二人の仲はもう終わってた。三か月前にね。
それで新田さんの方から手切れ金代わりにバラを贈る事にしたらしいんだ」
若店長は如月が土地を買いバラ園を作る計画があることをかいつまんで話す。
「ふーん………終わってる仲なのに今日のは熱烈だったわね〜。まだ愛しあってるのに可哀想な二人ね」
百合はあまりバラ園には興味無さげに夕方の事を蒸し返してくる。
「そのバラ園、百万本のバラも新田さんの為に作るんでしょう? 百万本のバラの花束にして………。
如月さんってある意味純真よね——。愛する人への想いをバラにして………。
私も一度でいいから抱えきれないほどのバラの花束がほしかったわ——、もう父さん死んじゃったし……。あ——誰かいないかなあ………」
百合がぼそぼそ言いかける横で若店長と紫は思わず顔を見合わせていた。紫の頰がみるみる赤く染まっていく。母の手前何も話さないが、代わりにテーブルの下で紫の小さな足先に軽く触れてみる。それに気づいた紫は驚いて瞬きを繰り返し、悪戯っぽく見上げてくる。紫の口元が艶っぽく微笑んできた。
(おっ、きぼうのバラの意味ちゃんと伝わってるみたいだな)
若店長はホッと胸を撫で下ろす。ずっと気になっていたが確かめる事も出来ずにいただけに母、ナイスと手を合わしておく。
若店長はゴホッと咳払いをすると、例の五百万の小切手を出した。途端に百合の顔つきが変わって食い付いてくる。
「五百万………!」
「これから如月さんにバラを贈るバラ代を一括で貰った」
「五百万も!新田さんお金持ってるわねー。不倫相手に五百万!」
そう何度も繰り返す。
そしてその大金が我が家に来るというので興奮している。自分のがめつい所は間違いなく母譲りだと確信するが、しかし、これは受け取る事は出来ない。
「母さん、これは暫く保留にしとくから」
百合が喚くが若店長はお構いなく続ける。
「五百万………、これ毎日のバラ代、七十年分って言われたんだ。仕事も完了していない上に………明日からは、もう新田さんは………画家の花屋には来ない。どうするかまだ決められない」
「何? どうしたの?」
百合と紫は不安そうに見つめてきた。
言わなくてはならない重い話。それでも情報を共有しておかないと今後の店の方針が決まらない。
「新田さん明日からそこの病院に入院される。肺ガンで………。三か月がヤマだと言われた」
余りにも突然の話に百合も紫も言葉が出ない。重苦しい空気が三人の間を流れていく。避けては通れぬ現実がもう明日に迫っていた。
「二人が別れようとなった最大の理由がこれだよ。これから肺ガンの治療を始めるのに如月は邪魔なだけだからね。
病気の身になったら結局看病してくれる妻の元……なんだろうね……」
若店長はそこで盛大にため息をつく。何が悲しくて他人の痴情に介入しているのか。
「今後新田さんは自分の入院中に如月が現れて、もし不倫がバレたら……新田さんはそれを一番気にされててね」
「本当ね、新田さんそんな事だと治療に専念出来ないわね。なんでもっと遠くの病院にしなかったのかしらね」
百合がもっともな質問をしてくる。
当然の考えだがこの地域にはガンの治療体制が整っている大病院はここしかないというのが理由なのだ。そして家族が通い易いというのも理由だった。
如月の行動範囲にあるこの病院を選んだ事は不倫発覚の恐れが十分考えられる。
新田の浅い考えに若店長は苛立ちを覚えていた。
これから先の新田の生活を考えれば、不倫が発覚するのは余りにも痛手が大きい。新田は妻と子を失う。家族は夫と父を失う。
突然家族を失うというこの意味の深さを若店長、芳樹は知っている。
突然交通事故で亡くなった父。
母の悲しみ。
その後の自分達のくらし。
いろんな物が歯車が外れたように上手くいかない時期があった。泣きたい気持ちを随分押し殺してきた。
新田の子供はまだ小学生だ。新田の家族にだけは、そんな辛い思いはして欲しくはないのだ。
如月の感情よりも、新田の揺れ動く感情よりも、まだ見た事もない新田の家族の味方をしてしまう。
「とりあえず如月は明日も来るから僕からも念押しで新田さんには会いに行くなって言うよ。聞くかどうかわかんないけどね」
「でも……七十年は長いわね——」
心底残念そうに百合が小切手を見つめながら呟く。
確かに何故七十年もの歳月が必要なんだろう?
如月がバラを百万本にして返すとかの目標があるにしても、そんなに長い時間をかけなくてもバラは育ってくれるもんだがな、と若店長は首をひねってしまう。母の百合も長過ぎると指摘してくる。
「芳樹もずいぶん苦労して『きぼう』をあそこまでに仕上げたけど、如月さんのバラも咲き揃うまでには後どれ位の時間がかかるかしらね。
それまでに新田さんが元気になってくれるといいんだけどね」
「治りますよ、きっと。そう信じよう。画家の花屋は彼らの為に最後まで出来ることをする。母さんも紫ちゃんも協力してくれるよね」
若店長の決意表明に紫と百合は黙って頷いた。
時刻は夜の十一時を回ろうとしていた。
百合が席を立って離れて行ったが若店長と紫はしばらく残っていた。話しの終わりまで二人は足を触れ合わせたままだった。紫がクスクス笑ってくる。若店長の足がまとわりついてきていた。
「くすぐりっこしよう」
「やだぁ………きゃは、えい」
二人は足だけでじゃれ合う。
重くるしい話をして気分まで滅入っているのを二人とも追い払いたかった。
はははははと二人して大笑いした所で終了。
「帰ろうか、送るよ」
若店長はいつものように紫を自宅まで業務用の車で送るこにする。
新田の事とは別の話を敢えて車の中ではする。気まずい重苦しい雰囲気になるのだけはこの狭い空間では避けたかった。
紫の学校の事、宿題の事、進路の事………。
四十分程の距離はあっと言う間に過ぎて行く。紫を怖がらせてはいけないと思い車の中では清廉潔白に何も手出ししないようにしていた。
「お休み。また明日」
「ありがとうございました。お休みなさい」
そう言って紫が助手席を出て行く。一日で一番切ない瞬間。
「店長?」
紫がドアを開けたまま小首を傾げていた。
「ん?」
「あのきぼうには幾つも意味を込めてませんよね? あれで合ってますよね?」
心臓が振るえるくらい嬉しい質問をしてきた。若店長はニヤリと口元をほころばせると、いつもの軽口がついてでる。
「そうだな……あれで合ってるし、もっと幾つも想いを込めた。紫ちゃんをこのまま帰したくない、とか、出来れば一晩中抱き合いたい、とか………」
「うわーっ、エロエロ、店長のバーカ」
紫は勢い良くドアを閉める。そのまま笑顔で二人は手を振りあう。自分達の距離がどんどん近づいて行っているのをお互いはっきりと認識していた。
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