第12話 戸辻夫人
若店長がバラの品種を数種類置く。……という行動が功を奏したのか『画家の花屋』は小さい店ながらも妙にバラの種類が豊富に揃っている店と噂が広まった。おかげでバラを買い求めるお客様が増えた。まさに瓢箪から駒、棚からぼた餅、意外にも売り上げを伸ばす結果に繋がっていた。
そのお客様の中にバラの種類が増えた事に敏感に反応した方がいた。
「いらっしゃいませ、戸辻様」
戸辻と呼ばれた女性は軽く会釈をして「こんにちは」と返す。
まだ六十代くらいのとても穏やかな感じのする上品な方だ。
「最近、バラが増えましたのね。とても素敵なバラばかりで選ぶのに迷ってしまうわ」
若店長はお客様から思う通りの言葉を聞けてご満悦だ。
「公也もきっとこのバラの花の香りに反応して笑ってくれるわ」
「ええ、公也君もバラを気に入ってくれるといいんですが……」
たくさんの花を戸辻夫人は買い上げていく。包装を始める若店長の横で紫が花の本数を数え、花の値段を電卓に打ち込んでいく。
打ち込み終わると若店長に、これくらいです、の確認の為電卓を見せる。
「ん、それであってるよ」
若店長の許可が出るとお会計にうつる。
「紫ちゃんも、もう長いわね。もうすぐ高校卒業かしら?」
「はい。春には……」
「そう、春には寂しくなってしまうのね。残念だわ。若店長さんも寂しがるわよ」
若店長も紫も言葉がない。
「ウチの公也も元気なら、こんな可愛いお嫁さんを貰ってたのに、そう思って見てたのよ。まだまだ、ここにいてほしいわね」
紫がいても戸辻夫人の役にはたてない、そう思うと紫は黙ることしかできない。
戸辻夫人の息子、公也は十代の頃の交通事故で半身不随の寝たきり状態だった。
それがもう十年近く続いているという。
花を買っていくのは公也さんが見るからだ。動かない体、動かない手足。それでも目や鼻は花を感じているらしいのだ。
「笑うのよ、新しい、香りのいい花には特に気に入って、唯一反応してくれる。今日のこのバラはとても良さそうね」
「イレネ・チュルカという品種です」
少し黄味をおびたピンク色の美しいバラを見て戸辻夫人はニッコリ微笑んでいる。
「素敵な花ね。ウチに帰って生けるのが楽しみだわ」
そう言って戸辻夫人は花束を抱え店を後にする。
気丈に振る舞う彼女の辛さも悲しみも自分達にはわからない。この小さな『画家の花屋』で美しい花を届けることしか出来ない。
新田や如月と同じく彼女もまた、花束に想いを込める人だった。
その想いは息子の公也に向けてのものだ。何を花束に託しているのか?。それを知ることはない。
(お客様のプライバシーには介入しない事)
若店長は口の前に人差し指をたてて紫に忠告するのだった。
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