第13話 バケツ

『画家の花屋』から歩いて十分位の近さには病院がある。

そこの病院の受け付けや待合室の数カ所に生け花の契約をしていた。定期的に花を替え管理をするのだ。


その日、紫は二つの花束を抱え病院に向かっていた。

いつもは若店長がする仕事だが、連日の忙しさと今日の出張が重なり都合がつかなかったからだ。


「紫ちゃんを行かせるのは嫌なんだけど、本当に大丈夫かい? 別の日に僕が……と言っても、五日位先まで行けないし……」


若店長は頭をかきながらぼやく。五日先では、病院に今ある花が枯れているおそれがある。多勢の人がみるというのに、それは絶対に避けたいと言う。


「大丈夫です、店長。私、ちゃんと行けます」


「本当に君は……初めてお使いに行く子供みたいに無邪気に言うんだね」


なぜ? と紫が小首を傾げる。紫のこういう仕種がとにかく可愛いい。若店長は紫を見つめながら目を細める。


「正直行かせたくない。また、何かあったら嫌だ」


「大丈夫です。契約している所、二ヶ所の花を生けてくればいいんでしょ。何度か店長と一緒にしたから大丈夫です」


「紫ちゃんができるのはわかってるよ。ただ……」


心配そうに紫を見つめる若店長。


紫はその若店長の顔を思い出しながら、契約場所の三階、入院病棟待合室の花を生けなおす。若店長が心配するのも無理はない。


確かここだった。


何度めかに花の手入れをしに一人で来た時の事だ。ある看護士の女性が盛大にバケツの水をひっくり返したのは———


「何やってるのよっ。こんな所にバケツなんか置くからでしょう」


若い看護士のお姉さんが怒鳴ってきた。


「すいません」


一生懸命頭を下げて謝る。


「すぐ拭き取ります。すいません」


持参していた雑巾三枚では足らず、絞っては拭き、絞っては拭きを繰り返した。


「汚ったない花。さっさと捨てちゃてよね。バイキンが広がるわ」


咲き終わった花たちを見て看護士が吐き捨てた言葉がそれ。

どう考えても、


(あの人が、バケツをわざとひっくり返した)


としか考えられなかった。バケツは若店長に教えられた通り、いつもの壁ぎわに添って置いたのだ。故意でなくては倒れるはずもなかった。

看護士の女性は当たり散らすだけ散らして、さっさと行ってしまった。

もはや文句を返す相手もいない。


(あー、もうなんで——、泣けてくる——)


「お姉さん、大丈夫かい?」


紫が見上げると、モップを持った清掃係の女性が広がった水を拭いていってくれる。


「すいません。ありがとうございます」


「いいの、いいのよ。ほら立って。私が拭いちゃうからね」


「ありがとうございます」


巨大なモップはあっという間に水を吸い上げ、床を元通りキレイにしてくれた。


「すいませんでした」


紫はもう一度頭を下げる。


「いいのよ。あなたが悪いんじゃないから」


女性はあけすけには誰がバケツを転がしたか言わないが、紫の想像通りなのだろう。紫は礼を言って帰ろうとすると、清掃の女性がそっと話しかけてきた。


「みんなあなたに嫉妬してるのよ」


突然そう言われた。


「えっ?」


「以外とね、あの花屋の店長さん看護士の間でモテてたのよ。背なんかスラッと高いし、二枚目だからね。狙ってた人は何人かいるのに、あの人ったら見向きもしないで、いつの間にか可愛い高校生連れて歩いてるんだもん。トンビに油揚げ持ってかれるとは、こういう事を言うのね」


「でも、私ただのバイトです。仕事だから店長について来るのは当たり前だし……」


「気をつけなさい。女性は女性に対してそうは思わないからね」


そう忠告して清掃員の女性はにこやかに去って行った。


今も彼女は働いていて時々声をかけてくれる。彼女の情報によれば、どうやらあの後、その看護士は婦長から厳重注意を受けたらしい。婦長は若店長とは先代から親しくしていたのだ。

三代目の力はこんな所にも根ざしている。

でも、そんな事より、その時の紫には今日の理不尽な出来事に無性に腹が立っていた。


(店長のばーか、きっと誰彼構わず愛想をふりまくからダメなのよ。

あのカッコイイ人がニコッって笑ったら勘違いの一つや二つしちゃうじゃん。それ全然分かってないんだからっ!)


腹の中で思いっきり若店長に悪態をついた。

それを口に出しては言わない。何故なら、あの後病院の婦長からの電話で事の次第を聞いた若店長がびっくりして、すごく気を使ってくれたから。


「紫ちゃん! 大丈夫だった?……なんか、僕のせいみたいで……」


そう言われるともう文句など言う気が失せてしまったのだ。

若店長は自分に自覚が無い人なのだ。

おそらくは花屋を切り盛りする間に自分よりも花の事しか考えてなくて、周りにどう思われているかなんて考えている間もなかった。それくらい忙しい人だったのだと思う。

ずっと、ずっと頑張っている若店長をきっとみんなが見てて、みんなにとって大切な人なんだろうなと思えた。


ただ一つだけ質問をした。


(店長は好きな人とかはいないんですか?)


はははははは、と若店長は笑って誤魔化そうとする。

そして、一言。


「今、目の前にいるよ」


そうゆう歯の浮くような台詞をサラッと言う所がまた一つ誤解を生むという事を若店長は分かっていない。

そこの所をしっかり指摘してみるが、若店長は


「えっ? ふつうだろ」


そう言って取り合ってくれなかった。

本気に聞こえる冗談があるって事を若店長は知らないのだろうか? その逆も然りなのだけど……

紫は、


「他の人にそんな事言ったらダメですよ。みんな誤解しますから」


そう釘を刺す。

若店長はにこぉっと笑って、了解と答える。


(他の人に言う訳ないだろ。

本気と冗談くらい使い分けてるに決まってるだろ)


若店長は心の中でそう呟く。

二十代を稼ぐことに費やしてきた三代目の処世術だった。その為には自分自身を最大限に活かす。


(笑って仕事が上手くいくなら嫌な相手にも笑ってやるさ)


紫には見せることはない考えを持った仕事の鬼のような若店長がいた。



若店長なら十五分で済むところを、 たっぷり一時間もの時間をかけて紫はようやく新しい花に交換し終わる。


「ごくろうさま」


紫は役目を終えた古い花たちに向かって頭を下げる。若店長に教わった感謝を込める儀式。いつのまにか、自分も板についてきたな。

そう思う。

紫は出来上がった花瓶の花達を見て満足そうに微笑むが、若店長がみたら首をひねるような作品だった。



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