第4話 新田
『画家の花屋』の若店長、雨森 芳樹の仕事は花き市場での仕入れや、外回りが主だった。
近所には市立病院もあり、そこの受付や待合室に定期的に花を届ける仕事。学校や市役所の行事用の鉢花や花束等の注文も安定して入ってきていた。
他にもホテルや冠婚葬祭むけの花の注文にも対応していた。
個人経営の花屋はすこぶる忙しい。忙しいが経営は火の車なのだろう。
紫のアルバイト代は当初の時給から10円上がっただけだった。けれど紫には全然文句はなかった。『画家の花屋』で雨森家の若店長と母の百合に見守られながら過ごす時間はとても楽しかったから。
「紫ちゃん、この花届けに行ってくるからね。店番頼むよ。」
「はーい、行ってらっしゃいませー」
若店長は配送用の軽トラックに、結婚式用の花束達を乗せて颯爽と店前を走り抜けて行った。
じっとりと汗をかくようになった七月。
ガーベラやトルコキキョウ、スイトピー、スプレーカーネーション、バラ、スカシ百合、ソケイ、アスパラガス、ドラセナ、アジアンタムなどなど。それらの鮮度を保つために保冷を効かせたショーケースが触るとひんやりして、とても気持ちいい季節がやってきた。
週末の午後五時前。
店前の道路はまだ静かだ。これが五時を過ぎると退勤の車や人で溢れ出す。
近くの病院からも勤務を終えた人々が一斉に帰途につく。
沢山の人間はいるけれど『画家の花屋』に足を運んでくれるお客はなかなかいない。
(この時間帯ヒマー)
紫は店のレジ横で丸椅子に座りながら、ぼんやりと外を眺めていた。
眩しい明るい光があふれかえる。その光は夏の日差しらしくギラギラと暑い熱をおびてアスファルトの地面を照らす。熱は地面から反射して、空気を更に熱くしていく。通り過ぎていく人々の額に汗がにじんでいるのが見える。
すると一人の男性が『画家の花屋』を訪れた。思わず紫の背筋がシャンと伸びる。
「いらっしゃいませ」
いつものように控えめに小声で挨拶をする。
その男性は十二畳ほどの狭い店内を無言で一周していく。背も高く、たぶん若店長くらいに。細身だが、がっしりした体格をしている。顔は面長でアゴの辺りがすっきりした男前だ。歳の頃は四十歳くらい。グレーのスーツを着て、黒い細いカバンを持っている。サラリーマンだろうか。
男性はしばらくどの花にするか迷いながら花を眺めて歩く。
『画家の花屋』の近くには病院があるため、お見舞い用に花を買っていく客も多い。若店長はそういう客の要望に応えやすいように、花の種類は多く置くようにしていた。量も週明けには無くなるくらいで店の回転率は他店に比べて良い方である。
その男性は迷った末にたくさんある花の中から一輪の赤いバラを選んでレジカウンターに持ってきた。
「いらっしゃいませ、贈り物にされますか」
バラ一本だけの買う客は珍しくはなかった。
「ええ、お願いします」
低く落ち着いた声。
「メッセージ・カードをおつけになりますか?」
「いや、いらないよ」
「かしこまりした。少々お待ちください」
紫は慣れた手つきで透明なセロファンでバラをつつみビニタイでしばる。
「お会計よろしいでしょうか。250円でございます」
紫がレジを打っている間に男性は小銭を出してきた。会計を済ませて男性にバラの包みを渡そうとする。
すると男性はそれを手で制してきた。
「いや、すまないが、自分は持ち帰らない。その……」
紫も一瞬戸惑ってしまいそのまま動きが止まる。
(持ち帰らない?)
「実は後で如月という者がきます。
「はぁ、そうですか」
紫はキョトンとした顔のまま固まる。今まで宅配で送るようにと注文を受けた事はあったが、別の相手に渡してほしいという客はいなかった。
「大丈夫ですか?」
男性の声に紫ははっとする。
「は、はい。承りました。えっと、キサラギ様ですね」
「そう、二月の如月に冬と、哉は、えーっと、、」
「なり、の字ですか?、それとも、志賀直哉の哉ですか?」
「あっ、志賀直哉のほうで、上手いね、君」
例えがだ。
「ウチの店長に仕込まれてますので」
「ほぉー、面白い人みたいだね」
「はい、とても」
男性は如月冬哉の字を教える。ただそれだけなのに、妙に盛り上がる。
「如月様ですが、何時頃にこちらにお見えになりますでしょう。当店は七時半に閉店になりますが」
「ああ、それなら大丈夫。今日の六時には必ず来るようにと伝えてあるから」
「左様でございますか。では必ず如月冬哉様にお渡しさせていただきます。
ただ万一お渡しできないという事もございますので、失礼ですが、お客様のお名前と電話番号をこちらにご記入願えませんか?」
紫がペンと共に記入用紙を差し出す。
男性はしばし躊躇したが、おもむろにペンをとるとスラスラと書きこむ。
差し出された用紙には「新田裕介」と書かれていた。住所と電話番号は無記入。
「すまないが住所と電話番号は勘弁してほしい。携帯も。ダメかな?」
「いえ、大丈夫でございます」
何か事情ありの様子だ。紫はもうそれ以上追求はしない。
「それじゃあ六時によろしく頼むよ」
そう言って新田裕介は店を後にした。
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