Kapitel.5 Schwarz und weiß
#1
「宣告する、貴官は――」
自分に降り注ぐ声が何を告げているのか、リアセドにはよく聞こえなかった。そこに意味はもう感じられない。
ただ、あるのは、自分がもう天使でなくなってしまったということだけ。
牢獄に向かう自分に注がれる視線。
感じ取る無数の侮蔑、失望……それに、僅かな憐憫。
もはやどうでもいい。何もかもがどうでもいい。
彼らと自分は、違うのだ。
「――刑の執行まで、貴様はここに拘留される」
これまでとは明らかに違う対応。
その冷たい声と共に、リアセドはそこに閉じこめられた。
光の少ない、セピア色のタイル張りの牢獄。
どこかで水滴がしたたり落ちて、むなしい反響を呼び起こす。
冷たい地面。両手足には枷。どれだけかきむしっても、決してほどけやしない。
――最低限の調度品だけがそこにあった。
彼女はもう、誰からの敬意も受けない立場にいるのだと言うことが、はっきりと分かった。
……そこは、煉獄だった。
死へのカウントダウンは、そこで始まった。
◇
飢えや病気にならない巧妙な仕掛けが施される中で、無為な日々がすぎていく。
リアセドは今や、自分の記憶すべてを疑うほどに消耗していた。かろうじて自分を成り立たせているのは、記憶の底にあるイリルの顔――そして、ミカエルへの信奉のみ。
その二つがあれば、天使ではなくなったとしても、彼女は彼女だった。
「……馬鹿らしい」
それがあったから、なんだというのだ。自分はもうすぐ、死ぬというのに。
――笑おうとした。
しかし、渇いた喉は、奇妙な音を鳴らしただけだった。
◇
「――やあ。ここでの生活はどうかな」
……隣から声が聞こえた。
自分の左右にも牢があって、それぞれの様子が筒抜けであることに、そこで初めて気づいた。
声は右側からだった。
リアセドは僅かに顔を傾けて、そちらを見た。
そこにいたのは、髪をごく短く切りそろえた若い女性だった。
むろん、羽が生えていた。元・天使なのは間違いない。
だが、リアセドよりも遙かに衰弱していた。頬はやせこけて、声は枯れていた。その目の下には、半月のような隈が刻印されている。
「……貴女は」
「第一級天使、ヨルンだよ。貴女とは担当地区が違ったから、あまりお会いすることはなかったけれど……その活躍は聞いている」
「……ああ」
――知っている名だった。
実力者であると耳にしていた。そんな彼女が……ここにいるという事実。
「驚いたかな? そう――私も罪人なんだよ。もう、天使じゃないと言うわけ」
……驚いた、というのは本当のことだった。
だが、釈然としない。
「あなたほどの天使が――どうしてここへ。一体何を……?」
リアセドは聞いた。自分のことを棚に上げているということには、無自覚だった。
「ははは、知ってどうする?」
「……」
「少なくとも、あなたが考えているような通り一遍の理由ではないよ。私の心は、今もなお凪いでいる」
「では、何故」
「……それに答えるためには、身振り手振りを交えたいところだけど。あいにく、これがそうさせてくれない」
そう言って彼女は、手足の枷を見せつけた。
……『
「……そうか」
「では、君は。君は、一体どうしてここへ?」
リアセドは、問われた。
答える必要があるとは思わなかった。
だが、もはや守秘義務もなにもない。
ゆえに、リアセドは語って聞かせた――自分が、いかにしてこの場所にたどり着いたのかを。過不足なく丁寧に、まるで他者について語るかのように。イリルについては、伏せたまま。
意外なほど楽だった。自分のことをここまで掘り下げても、欠片も動揺がなかった。それは、今自分が完全な諦めの境地に居ることを意味しているわけだが、リアセドにはある種の癒しとさえ言えた。
そして、語り終わる。
……最後は。
ミカエルへの許しと、彼女への変わらぬ信奉について短い言葉で綴った。それがすべてだった。
「……ふむ」
彼女は、考え込むようにして聞いていた。
謎めいた反応。
しばらくして……ヨルンは、言った。
「では――リアセド。君は」
次に継げられた言葉は、さらに謎めいていた。
「君は、ミカエルが完全な存在だと……未だに信じているのか」
「……なんだと」
それはやがて、ふつふつと沸き立つざわめきに変わった。いらだち、と言っても良かった。砦になっているものに、杭を打ち込まれたような気持ち。続きを促そうと思った。
「……何がいいたい、ヨルン」
「そのままの通りさ。――君は、あれの言っていることを、ほんとうの真実だと思っているのか?」
――やはり。
やはり、この者もそうだ。
イリルと同じ。ミカエルのやり方に疑問を抱いた存在だったということだ。
「ふざけるな。それ以上は聞きたくない」
リアセドはかぶりをふって、顔を背ける。
「ねえ、リアセド。私は――」
そこで。
上階のドアが開き、誰かが降りてくる音がした。
それから、声が降ってきた。
「――第一級違反者・ヨルン」
それは。
箴言だった。帯の光と共に、ヨルンへ突き刺さる。
彼女はにわかに、打ち据えられたように背筋を伸ばした。それから、顔に生気を取り戻す。光によって照らされる埃の粒をまといながら、彼女は瑞々しさを取り戻していた。
「……ああ」
彼女はぶるりと身を震わせて、ゆっくりと立ち上がる。
光の向こう側から、何人かの天使がやってくる。
リアセドの隣を、開錠する。
それが、意味すること。
「リアセド――お別れだ」
……そういうことだった。
彼女はこれより、処刑される。
――ヨルンは、笑っている。一切の恐怖を見せずに。
そこには透明な微笑だけがあった。ぞっとするほどに空虚な笑みだった。
彼女はそこにいて、そこに居なかった。
――一歩、二歩進む。武装した天使達のところへ。
……リアセドは。
そこで、衝動的に叫んでいた。
「待て――あなたは一体、なにをしてここに来た!?」
すると、彼女は振り返って言った。
死の光の中で。
「ミドロ、ヘルガ、トイディ――みな、死んでいった。真実を知ったから。そして私も、それによって死ぬ」
その一言だけを残して。
彼女はもう、リアセドのほうを向かなかった。
彼女は、連れ去られていった。欠片の抵抗も見せずに。
十数分後。
乾いた銃声が複数回、はっきりと聞こえてきた。
後にはもう、名にも聞こえなかった。
そこにはリアセドだけが居た。
だが、最後の言葉が、はっきりと耳に残っていた。
――『真実』。
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