#4
背中が血で塗れるのを感じながら転がり込んだ部屋は、ごく小さかった。暗闇に目が慣れてくると、その詳細なディテールが見えてくる。
遠くで怒号が聞こえる。ここも――いつまで居られるかどうか分からない。
本棚と、小さなベッド。引き裂かれたシーツ。それから、いくつも散乱した書類。おもちゃ。壁の落書き。
それだけで、ここがどういう場所か理解できた。いずれここも消える。
彼女は部屋を見回し、そして気づく。
「っ……!」
部屋の隅に、人がいた。
小さな子供だ。銃を構えて、こちらを狙っていた。
粗雑な衣服。ぼろぼろの肌。玩具のごとき銃。
そして――憎しみと、恐怖でゆがんだ瞳。がちがちと震える歯。
年齢で言えば、十歳にも満たないだろう。
リアセドは、そんな少年に近づいた。
「ああああああ!!!!」
少年は――撃った。
反動で、大きく後方へ転倒する。
銃弾は、彼女が一瞬だけ展開した障壁によって脇にそれ、後方へ消える。
「……」
淡々と、少年に近づいていく。一歩ずつ。
彼は撃った、撃った。
だが、効かない。効くはずもない。
「おまえたちは」
リアセドは問う。
分かっている、答えられるはずもない。
だからこれは、自分に問うているようなものだ。
「おまえたちは何を守る――自由を、秩序を捨ててまで、いったい何を守る……」
子供に迫る。
――脳裏によみがえる。
幼い頃の孤独。暗闇。そこに縮こまり、引きこもっていた、自分。
死んでいった者たち。
憎しみを、捨てぜりふを吐いて自分の前から消えていった、名も知らぬ者たちの顔、顔。
舞い降りる、無数の天使。天から、光と共に降り注ぐ。その中に、自分も居る。
そして――。
涙を流す、イリルの姿。
「ああああ、ああああ!!」
「答えろ。我々は何を倒している、何を絶滅させようとしている。お前たちの守っているものは、それほどまでに危険なものなのか。それほどまでに、世界を揺るがすものなのか……答えろ、答えろっ!!」
「っ、うわあああああ!!」
その瞬間。
少年は、銃をかなぐり捨てた。
そして、衣服をはだけて、こちらに特攻をかけた。
暗闇である。
――一瞬、見えなかった。
少年の腹に巻き付いているのは。
……爆弾だった。
「……っ!!」
――まもなく。
少年の身体が裂けて、そこから巨大な轟音と炎が起きた。
◇
耳の奥で、びりびりと音が残り続けている。
「……っ」
リアセドは膝立ちのまま、障壁を展開していた。
ダメージは受けていない。
そして、煙が晴れる。
……少年であったものが、そこに転がっていた。無数の、いやにあざやかな朱色をした欠片と共に。肉の焼ける悪臭。
ただ一つの事実。
名も知らぬ一人の少年が、無謀をして、死んだ。それだけのこと。
リアセドは立ち上がった。
それから、それらを越えて、部屋の奥に踏み込む。
彼女は見ようとしたのだ。少年が何を守ろうとしていたのかを。恐怖を顔いっぱいに浮かべながら、それでも愚かな抵抗をやめなかった理由を。
それはあっさりと明らかになった。
部屋の隅にあったのは人形で、その裏側には少女の名が刻まれていた。
その傍らには、小さな傷で、その名前と、もう一つ、男の名が刻まれていた。
「……」
リアセドは、ほこりとガラスの欠片がついたそれを拾い、しばらく見つめた。
「……ふ」
少年は死んだ。もう生き返らない。
どのみち、この人形の主には会えないのだ。
戻れない過去に憧憬を感じ、そのために心を乱し、暴走する。
まるで、まるで……。
「……ははは」
だらりと人形を下げる。
遠くで聞こえてくる、声。
「ははは……ははははははは!!!!」
リアセドは――笑った。
愉快で愉快で、たまらなかった。
だから、笑ったのだ。
こんなにも大げさに、腹の底から笑ったことは今までなかった。
彼女は笑い続けた。ひとしきり、しばらくのあいだ。
……それが終わると、彼女は人形を部屋の真ん中にそっと置いた。
少年の肉片が転がるただなかに。
よろめきながら、部屋を出る。
――部屋は、ただの暗闇に戻った。
もうだれも、そこを訪れない。侵略しないのだ。
◇
彼等は、隠れているはずの天使を待った。
暗闇に銃撃を撃ち込んでおびき寄せるため、壁際に控えていたのだ。
沈黙し、心臓の鼓動を感じながら。互いの目を見合わせて。
奴は、何故一人で。
その疑問は、この現実の前に消え去る。今自分たちが直面しているのは、天使と戦うということ。それだけ。
彼らは待った。静寂の中、暗闇から天使が出てくるのを。
そして、顔を見せた瞬間――彼等は一斉に銃撃を浴びせるのだ。そうなれば、一溜りもないはずだ。
淡い期待かもしれないが、彼等にはそれしか残されていない。
ゆえに、待った、待った。果てしない時間が流れた。
――気の遠くなるような沈黙の果てに。
足音が、聞こえてきた。
彼等は一斉に構える。暗闇に向けて。逸って撃ち始めないように、互いを見合いながら……じっと、その銃口を足音に向ける。
かつ、かつ。
近づいてくる――近づいてくる。
そして。
天使は、姿を現した。
ただし、丸腰で。
「……!」
彼等はその行動に困惑し、虚を突かれた。
まるで思考そのものに痺れが走ったかのように、みな、動けなくなる。
彼女は暗闇から出てきた。そして、歩いた。
……停止する自分たちを無視して、先に進んだ。自分に向けられていた銃口など、はじめからなかったかのように。
彼等には、天使が――異様な雰囲気を発していることに気づいた。
埃と細かな傷にまみれているということ以上に……その、異様なまでの静けさ。それは、『死の静けさ』といっても過言ではなかった。
あまりにも得体が知れなかった。
だから彼等は沈黙はすれど、銃を下ろすことはしなかった。
歩いていく彼女に追従し……ゆっくりと、ゆっくりと包囲していく。
その間隔をせばめていき、彼女がそれ以上進めないように。
……目を離さないようにしながら。
「……」
包囲は、完了した。
銃口はすべて、円状に天使の周りに展開している。
……彼女は、顔をうつむかせたままだった。
またしても、異様。
……だが。
誰かが、喉を鳴らした。
「……う」
その瞬間。
「撃てえええええっ!!」
しびれを切らした一人がそう叫んだと同時に、銃口が一斉に火を噴いた。
――リアセドのパルスが、加速する。
◇
すべての銃弾の軌道が、彼女にははっきりと見えていた。
故にどのような対処をすべきかも自明だった。武器は展開しなかった。それをする必要さえなかった。
銃撃が殺到したが、彼女が取った行動は、その全てから身を逸らせることだけだった――的確に、一瞬ごとに身体の動きを変える。メソッド・ジーベンの応用ではあるものの、武器を使用しないで行うそれはまさしく絶技とも言えた。
――そして、銃弾を交わした先に、彼女の手が、足が伸びる。
「うわあああああっ!!」
「ぐあああああっ……」
銃をはたき落とし、手首をひねる。折る。あるいは膝を蹴りつけて倒れ込ませる。それを繰り返していく。埃の舞う空間で、銃撃が光って見える。反乱者たちが、次々と無力化されていく。
何故攻撃を行わないのだろう、あからさまなその疑問を差し挟む余地は彼等にはなかった。リアセドは流水のごとく動き、超絶的とも言える身体捌きを続けた。格闘技とさえ言ってしまえそうなその動きにより……銃撃が徒労と化していく。その虚しさが、積み重なっていくだけ積み重なり……。
とうとう。
「あ、あ……」
ぱらぱらと、空の薬莢がいくつもこぼれ落ちる。
そこからやや遅れて、叩き落とされた銃が転がる重い音。
どさりと尻餅をつくいくつもの音。
――数秒後。
「……」
沈黙が訪れる。
彼らは呻きながら倒れていた。一人残らず。
だが、息はあった。誰一人として死んでいない。
そして、誰一人として戦意と戦う手段を残していない。腕を伸ばして、堕ちている銃を拾おうとする者すらも。
その中で一人――中央で、天使だけが立っていた。
「……」
彼女は周囲を一瞥する、氷のような無表情で。
自分を凝視する、いくつもの顔。恐怖に歪んでいる。
これから自分たちは殺されるのだと信じて疑わない顔。
――そう、確かにリアセドは、次の瞬間には。
袖口から、十字架を展開していた。
「ひ、ひ……」
だが。
――その天使は、驚くべきことを口にした。
「――逃げろ」
◇
その言葉を一瞬で理解できた者は、誰もいなかった。
遅れて理解した者は、正気を疑った。
――コイツは今、一体……。
「てめえ、いったい今……」
「逃げろと言った。聞こえなかったのか」
彼女は――彼らを睨みつけた。ぞっとするほど鋭い目。心臓に氷を押しつけられたような。
彼らは身体を硬直させて、次の言葉を耳の中に入れた。
「いますぐ私の前から姿を消せ。そして……二度と我々の前に姿を現すな。分かったか」
何人かが、おずおずと立ち上がった、そして後ずさる。
だが、誰も信じていない。
こいつが、この天使が今、言ったことは――。
「今から五秒以内にここから消えろ。さもなくばお前たち全員を殺す。私の力なら、今すぐにでもそれが出来る。分かったら、早く――」
その言葉通り、彼女は彼らに銃を向けた。語気を荒くして。
それが効果を呼んだ。
「に、逃げるぞ……」
「し、しかし……」
「いいからッ!!」
彼らは、飛び跳ねるようにしてその場から立ち去り始めた。彼女が元居た闇に向かって疾走する――一刻も早く、この気の狂った天使から離れたいのだろう。
そして彼らはいなくなった。
床に散らばる、無数の薬莢と銃を残して。
リアセドは、一人になった。
◇
リアセドは、一人だけの空間で、静かに通信端末をオンにした。
そして、今自分がやったことを声に吹き込んだ。
……あの子供が死んだ時点で、自分は天使であることを放棄していたようなものだった。
自分はもう、天使として使い物にならないのだ。
だったら――自分には、人を裁く権利などありはしない。
だからこうする。故にこうする。
自暴自棄を起こしているとも思わなかった。
当然のことをしているとしか、考えられなかった。
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