#3

 どれだけの時間、自分の内側にこもっていて動かなかったのか。それが分からなかった。

 だからこそ、声がかかったときは、まるで眠りから覚めた直後のように現実感がなかった。


「久しぶりね、リアセドちゃん?」


 ゾルハが、独房の外に来て、言った。


「――ゾルハ……?」


「随分とまあ、覇気をなくしちゃって。ここの居心地は、地下よりもずっと快適じゃないのかしら?」


「からかいにきたのなら……」


「馬鹿。それだけのために来たわけないでしょう。言伝よ、第一級天使・リアセド」


 彼女は――完全に自分を見下ろして、言った。

 立場を、はっきりと分からせるように。


「シュヴァール閣下が、貴女に対して新たな処分をくだすと判断した。これより貴女を解放して、裁きの間に連行します」


「……」


 リアセドはしばらくその意味を考えて、問うた。


「それは……ミカエルの意志?」


 ゾルハは眉をひそめて、言葉を返した。


「そんなもの、自分で考えなさいな」


 ――まもなく、リアセドは監房から出された。



 リアセドは、裁きの間にふたたび訪れた。

 空間は暗く、自分のいる場所にだけ光がまっすぐ降っていた。

 後方の暗闇にはゾルハがいる――今更気にかけることもない。相棒という枷が外れた彼女は、以前よりも自然体に見える。


 まもなく、壇上に一筋の光。

 そこに現れたるは、シュヴァール。

 その目が、冷厳にリアセドを見据える。


「久しぶりね、リアセド」


 彼女は、それだけ言った。

 リアセドが言葉を差し挟む余裕を与えず、次の言葉を言った。

 圧倒的な響きのある、貫くような言葉だった。


「貴女に対する処理が決まりました。処罰、という言葉を使わないのには、意味がある」


 リアセドは聞いている。


「反乱組織の拠点のひとつを、我々が発見しました。貴女はその地に単身で降り立ち、反乱分子を一手に殲滅する。そうすれば、貴女は我々への忠誠を『誓い直す』ことが出来る。天使としての信頼を、取り戻すことが出来る」


「……」


 それは、有無をいわさぬ託宣だった。

 答えは、はじめから決まっているようなものだ。


 この背中に羽がある限り、逃れられない。

 だからリアセドは、しっかりと彼女を見た。

 そして、言った。


「――その任務。つつしんでお受けいたします。ミカエルの名の下に」


 あっさりと。

 まるで台詞を読むようにすらすらと、その言葉を吐き出せた。



 孤児であった時のことを、そう詳しくは覚えていない。きっと、首筋の制御装置を取り付けられた際、自然に忘れてしまったのだろう。

 だが、はっきりと覚えていることがある。


 暗くて冷たい場所に自分はいて、それはとても恐ろしいことだったということ。

 その恐怖の感情が常に自分のそばにあったということ。


 だから――幼いリアセドは望んでいた。

 何かに守られること、巨大な何かが、自分を取り囲んでくれることを。

 そうすれば、安心が得られるから。

 彼女は願い続けた。願い続けた。


 ……ある日、光が射し込んだ。

 大人たちが死んでいったが、彼女は何も思わなかった。誰も助けてくれなかったからだ。


 そして、血と瓦礫、硝煙の世界から、手が差し伸べられた。

 リアセドは、さしたる疑問もなくその手をつかんだ。

 手の主は言った。


「おいで――あなたに、軌道を与えてあげる。生存のための、確かな道筋を」


 そうしてリアセドは、悩むことを、恐れることをやめた。

 彼女は、天使になった。



 単純な道程が、果てのない回廊のように感じられた。


「はーっ、はーっ……」


 ふらふらと歩く。後方に血が滴る音が続く。

 負傷は決して浅くはない。目の奥がちかちかと光り、先ほどまでの戦いを半強制的に反芻させられる。


 敵地に突入して数時間。

 彼女は既に――氾濫者の半分以上を『処理』し終えていた。

 その余韻が、心に食い込んでいる。

 もはや、以前のようには戦えていなかった。


「あああ、ああああ……」


 『欲望』をむき出しにして小銃を乱射する敵には障壁の防御。その次には、隙間から十字架を差し出して銃撃する。ぐちゃぐちゃという音とともに相手の腹がやぶれて、赤黒い内蔵をむき出しにする。相手の目玉がとぐろを巻いて、口から吐瀉物をまき散らしながら死んでいく。


 間髪入れずに『憤怒』に身を染めて襲いかかる相手。大振りの剣で攻撃してくる――とりあう理由はない。バックステップで距離をとって、十字架をライフルに変形。相手の剣が地面に刺さって抜けないところに、撃つ。脳漿が飛び散り、饐えた匂いがまき散らされる。相手は規則的なダンスを踊りながら痙攣して死んでいる。楽しそうに。


 ロケット砲を放ってくる相手に対して有効なのは、回避からの接近だ。大型の火器を持っている者は得てして懐が空いている。

 だから近づいて、対応できない間に、その十字架から刃を展開して――正確に、心臓に突き刺す。えぐる。まっすぐ刺すだけでは死なない。完全に臓器を潰すのだ。

 相手は口から奇妙な声を出して血を吐いて、ごぼごぼと溺れて倒れる。そのまま動けなくなる。さぞ苦しいことだろう。彼女の顔には血がたくさん付着した。しかし、払うのは十字架についた血だけで十分で――次の敵がおそってきた。


 一瞬の隙をついて、その死体の狭間から別の男がやってきた。ナイフを構えて。だが、接近戦にはならない。回避したからだ、流水のように身体をくねらせて。そして距離を置いて――十字架を連射した。

 その身体が蜂の巣になって崩れる――『嫉妬』の代償。

 それからも、戦った、戦った、戦った……。


 壁に手をつきながら、何とか進む。

 あと何人だ、今でどれだけ経った、喉がからからだ。


 だが、支援など望むべくもない。

 これは……試練そのもの。ミカエルが、自分を試しているのだ。その足下に跪く価値があるのかどうか。かつて、天使となったその時と同じように……試しているのだ。


 こんなにも苦しい戦いは、かつてなかった。

 もう、自分は……第一級天使などではなかった。

 羽をもがれ、失墜する寸前の存在なのだ。


 それを痛感させながら、彼女は暗い迷宮をさまよった。

 怒号――どこかで自分を捜す声がする。


 かつては、あちら側に自分がいたのだ。

 そう思うと、なんだか滑稽だった。笑えはしないが。


「げほっ……はあ、はあっ……」


 疲労と痛み――それに耐えながら進んで、彼女は一つの空間にたどり着いた。

 何かの小部屋だった。


 敵は迫りつつあった。

 彼女はなかば本能的に、そこへ転がり込んだ……血塗れで。


 『隠れる』。暗闇に。

 ――幼少期以来のことだった。

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