#2

「プロポーズされたのよ、私。信じられる?」


 当然、信じられるはずがない。

 任務終了後の、わずかな時間。

 誰にも『監視』されていない数少ない時間、ヘリが到着するまでのほんの少しの合間に――イリルは言った。


 リアセドは最初、何を言われたのか分からなかった。



 収監されている今も、信じられていない。


 どれほど長い時間、この柔らかいブロック壁の中に包まれて幽閉されているのか分からなかった。

 理性はゆっくりと溶けだして、とめどない思考があふれる――そして、忘れていたひとつの、一連の記憶を呼び覚ます。そうだ……あれがあったから、イリルは……。



「イリル、それは――」


 どうやら今、自分は『焦っている』らしい。

 彼女の発言に対して、動揺を隠せないでいる。

 その理由を考えることは……しなかった。


 するとイリルは、そんなリアセドの心の内を察したのか、ふっと微笑を浮かべて言った。


「まさか。違反になると分かっていて、恋愛なんてするわけないでしょう。もちろん、監視よ。そのためにつきあいごっこをする。上にも報告する」


 リアセドは、その言葉を受けて。

 ……どこか、安堵したような、果てのない寂しさにおそわれたような、そんな気持ちになった。

 その、どこの誰とも知らない男の思いが、仮に自分に向いていたら、どうしていただろう。


 それは愉快な想像ではなかったが……。

 少なくとも、今よりはマシかもしれない。



 『お付き合い』を始めたイリルは、実に演技上手だった。そのあいだの動きを、ストーリーライターは賞賛していた。


 本当に自然だ……まるで本気で、真剣に恋をしているように見える、と。


 なるほど、確かに。

 リアセドは何度も見た。

 男と自然な距離を保ちながら、二人で楽しそうに笑っている姿を。

 冗談に笑い、身振りを交え。道を歩いていく。


 ――本当に、うまい。

 ……リアセドは、胸がしめつけられていた。

 ひどく屈辱だった。


「……任務は順調らしいな、イリル」


 だから、ある日、そんなことを言った。

 ……莫迦らしい。何を思ってそんなことを。後でライトのところに行かなければ。


 ――イリルは小首を傾げて――実にかわいらしく――言葉の続きを待った。

 ゆえに、言ってやった。


「あの男とパートナーのほうが……良いんじゃないか」


 すると、イリルは……――これは予想外なのだが――顔色を変えた。

 そして、ひどく真剣な顔をして、こう言ったのだった。


「馬鹿なことを言わないで。あなたほど大切なパートナーなんて、ほかにいないわよ」


 ああ――分かっている。

 そんなことは分かっている。

 だが、言うしかなかったのだ。

 だからこそ、余計にみじめになる。


 どこかでは、思っていたのかもしれない。

 そのまま、みじめなままであれば、と。


 そうすれば、たとえ偽物でも、幸せそうに笑うイリルの顔が見られるから。



 しばらくして。

 男は、あっさりと尻尾を出した。

 罪状は、おきまりの感情違反。


 だから、始末された、あっさりと。

 当然――やったのはイリルだ。


 実に見事な手並みだった。

 男は、困惑したまま死んでいた。絶望の一歩手前で。

 無数の賞賛の中で、イリルは言った。


「こんなものよね。何も変わらないわ」


 だが。

 今だからこそ、言える。

 イリルが演技上手なのはその時だって分かっていた。


 ……彼女が変わりはじめてしまったのは、その男を殺してからだった。調べればきっと、時期が完全に一致する。


 イリルは演技上手だ。

 だから――『こんなもの』なんていう、使い古しの天使の言葉だって、簡単に言ってみせるのだ。


 ねえ、イリル。

 ――あなたは本当は、男に何を思っていたの?



 そして。

 変わってしまったのは、イリルだけではなかった。

 その男が現れて、死んだ。顔も名前も、はっきりと刻印されないままに。


 その時、暗い喜びを覚えたのは誰だ?

 イリルの変わらない笑顔に安堵したのは誰だ?

 ――『嫉妬』をおぼえたのは誰だ?


 ああ、許されない。許されない感情。だからこそ、だからこそ。


 ――イリルがいなくなってから、ようやく忘れることが出来た。それらの心の動きを。


 彼女が失踪してから、リアセドはこれまで以上に職務に励んだ。心を封じ込めて、任務に明け暮れた。積み重なる賞賛と名誉。それらを歯牙にもかけず、戦った、殺した。

 そうして、たどり着いた。

 第一級天使という称号に。


 ああ――そうか。

 そういうことか。


 孤独な四角の壁の中で、一人合点が行く。

 

 自分はあのときから既に、潜在的な違反者だったのだ。


 それが、今になって表出しただけだった。

 イリルと出会って、彼女の髪を美しいと思い、その声をもっと聞きたいと感じた時点で、自分はもう天使としての資格を失っていたようなものだったのだ。


 で、あるならば。


「……ああ」


 リアセドは一人、頭を抱える。

 嘆きは自殺防止の柔らかな壁面に吸い込まれ、だれにも聞こえない。

 見ているのは、監視用の戦闘ロボットの赤い目の光だけ。


 どうせ聞こえないのなら、実際に口に出したって意味がない。

 だから彼女は、心の内で叫んだ。


 ――お教えください、ミカエル。

 ――私が天使であり、強くあらねばならぬのなら。

 ――どうして私を、イリルと出会わせてしまったのですか。


 リアセドは耳をふさいで、目を閉じた。


 何も感じない暗闇が、今の自分にはむしろありがたかった。

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