#5

 パッヘルベルのカノン。並べ立てられるいくつもの音色が、時間を経る事に変化していく。まるで、かつてザイオンにも存在していた『四季』のごとく。


 足下で瓦礫が割れる。

 悲鳴と轟音が遠くに響いている。残響の如くに。

 音色は、その上から被さり、ゆっくりと大きくなっていく。

 リアセドは歩いていく。

 破壊の痕をかきわけながら、その音に引きつけられるように。

 ――だが、手に持った銃は離さない。彼女は、天使だったから。


 ……そして、彼女は到達した。

 その場所に。


 がらんどうの空間だった。

 かつては講堂か何かであったらしい。演壇や座席が朽ち果てたまま打ち捨てられている。どれだけの時間が経過したのかは不明だが、確かなのは、ここにも天使がやってきたということ。その証拠は、空間に満ちる妙に澄んだ空気と、青と灰の情景……それに、横溢する光の粒子が物語っている。


 リアセドはそこに足を踏み入れた、そして見た。

 空間の端、ガラスの割れ目から降り注ぐ光を浴びながらピアノを演奏する一人の少年の姿を。


 ――ぼろ布をまとって、目をつぶっていた。

 やせ細っていた。光がめいっぱい差し込んでいるのに、それを厭わしく思っている様子はなかった。


 彼は、何かに憑かれたように弾いていた。そこにあったおおきな、埃を被ったピアノを。


 ――ここが何らかの団体や組織のために使われていた場所なら、ピアノがあってもおかしくない。そして、ここに反乱者たちが定期的に来ていたのなら。点検されていても違和感がない。なるほど、そうに違いない。


 リアセドの冷静な理性が、そんなことを考えていた。

 しかし、頭の反対側では。


 ……その少年が弾いている音色が、耳にべったりとこびりついて、離れなくなっていた。底から逃れられない。目を離すことができない。

 自分にはやるべきことがある。

 そのはずなのだが。


 ――彼女は、少年の弾くピアノを聴いていた。

 パッヘルベルの、カノン。


「……」


 手元で、銃を握りしめる。

 乾いた金属の音。


「……」


 すると、少年は演奏をやめた。白鍵と黒鍵から指をはなし、身体をわずかにふるわせる。まるで、別の場所にとばしていた心が、元に戻ったかのように。あるいは、本当にそうだったのかもしれない。


 リアセドは前に進んだ。そのたび、足下で瓦礫が抗議の音を立てた。

 だが、無視する。


 そして、構える。彼の頭に向けて。


「――ここで何をしている」


 少年はしばらく、周囲を――見えない目で――見回していたが、やがて声の場所に気づいて、顔を止めた。


「あなたは……」


 柔らかく、弱々しい声だった。死にかけた鳥のような。


「答えろ。ここで何をしている」


 ――はやくしろ。この子供を無力化するのは簡単な話だ。

 早くしろ、早くしろ……。


 焦燥感が、つのる。

 銃を持つ手が、震える。

 だが、そんなことに少年が気づくはずがない。


 彼は、言った。


「ああ――わかった。あなたは、天使なんですね」


 そうして、ほほえんだ。

 ……微笑んだ?


 リアセドは、一歩下がる。

 何故そんな表情をする。

 私は天使。お前の命をあっさりとつみ取ることができる存在。

 なのに、何故。


 ――イリル。


 何故、

 お前は、いったい――。


「そうだ。私は天使。第一級天使・リアセドだ。答えろ、ここで何をしていた」


 ――馬鹿を言うな、はやくこの少年を無力化しろ、それがお前の――。


「何って。ピアノを弾いていたんですよ。見て分かりませんか?」


 こちらの声の調子などまるで意に介さず、少年は言った。

 ――こいつはいったい何者なのか。


 リアセドのペースが崩されていき、会話が積み重ねられていく。


「見れば分かる。だが、それが何を意味するのか。お前ほどの見かけの年齢なら理解できるはず」


「ええ、理解していますよ。僕はとらえられ、しかるべき処理を施されるのでしょうね」


「そうだ――すぐには殺さない。お前のような年少者であれば。しかし、その後は今の行動は行えなくなる」


「なるほど……だったらなおさら、弾き続けなきゃ。やりたいことをやるのが、人間の特権ですからね」


「それは違う。人間の権利とは――制限されてこそ保証される。抑制のない人間は獣と同じ。お前は、獣になりたいのか」


「まさか。僕は人間ですよ、うんざりするほどに」


 少年は肩をすくめた。

 ――リアセドの中で、苛立ちが募っていく。


 落ち着け、お前は乱れに乱れている。

 このままだと……。


 ――だが、止まらない。止められない。


 リアセドは、遠くに来ていた。


「議論をする気はない。ここで殺されたいか」


 ――そんな台詞は、氾濫者の台詞だ。天使には相応しくない……。


「嫌ですよ。僕は生きたい」


「だったら――」


「でも……自由なまま死ねるのなら、それでもいいかもしれませんね」


「……っ」


 ――自由。

 ふざけるな。


 ――イリル。

 ――イリル、奴も同じようなことを言っていた。


 何故。

 何故、今奴のことが頭に浮かぶ。


 ピアノのフレーズが一緒だったから?

 それがなんになる、こいつは無関係で――。


 ……しかし。

 少年は、言った。

 それは――核心であり、確信だった。


「ねえ、そうでしょう、――この曲を弾いていれば、いずれあなたがやってくると思った。だからあわてて、ここにやってきたんです」



 ――何故。

 何故こいつは今、私の名を――。


「どういうことだ、貴様……」


 乱れる。

 心がバラバラになって、違う自分になっていく。

 これまでの一度も、そんな経験はなかったから。今のリアセドは、おそろしいほどに無防備だった。


 そして、周囲の音、色の一切が抜け落ちていった。

 果てしのない空洞。


「貴女の存在は知っていたんですよ、前から。そして僕たちは、あなたを憎みながらも、別のところでは……あなたを待ち続けていた」


「どういうことだ。答えを言え」


 ――だめだ。

 その先を聞いてはいけない。


 理性がきしみ、悲鳴を上げる。

 だが止まらない。彼女は今、完全に感情だけで動いていた。その力が抜け落ちていく。彼女にあるのはその銃だけ。


 ――だめだ、聞くな。

 その言葉を、聞いてはいけない――。


「僕たちのイリルが、教えてくれたんです。あなたという存在が、いつか現れるって。そして、僕たちの言う自由を、本当の意味で知ることになる、と」


「――……」


 それが。

 答えだった。


 すべてが、腑に落ちた。

 イリルの消失。

 その心変わり。


 そのすべてが、理解できた。


 ――イリルは。


 ――私の、イリルは。私を――……。


「……!!」


 ――最後に、彼女の笑顔が一瞬脳裏に写った。


 それで、おしまいだった。

 とどのつまり。


 ――彼女は、少年を椅子から引きずり落とし、地面にたたき伏せた。

 そして、その頭に銃を突きつける。小さなうめきが聞こえたが、彼女には聞こえなかった。その息は荒く、全身が震えていた。

 彼女は歯を食いしばった。砕けるほどに。

 そして、叫んだ――。


「なぜミカエルが自由を奪うか分かるか!! 人間を別のものに変貌させてしまうからだ、そして全てを混沌に陥れる!! だからこそ許されない、自由も感情も、すべて、制御されるべきだ――裏切られることのないように――!!」


 そして、リアセドは撃った。

 少年を。


 銃撃音。空間に響いた。それで、おわりだった。


 少年は一度身体を震わせたが、もう動かなかった。

 地面に突っ伏していたから、表情は見えない。


 真っ赤な血だまりが、じんわりと広がっていく。灰色の地面に。


「……――」


 ……。

 ややあって。


 リアセドは立ち上がった。

 心の中は奇妙なほど冷め切って、冷静に状況を分析できていた。それが妙だった。

 そのまま、長い時間が経過したように思われた。



 騒ぎを聞きつけた天使たちが、リアセドのもとにやってきた。

 彼等の戦闘は終了していたらしい。耳元の通信端末もそれらしいことを言っていたが、リアセドはまったく聞いていなかったのだ。


「リアセド――」


 皆、虚を突かれたように押し黙り、状況を見た。

 顔に血を飛び散らしたリアセドが、ただ立っている。何も見ていない。

 だが、足下には……頭に花を咲かせて、事切れた少年。


 天使のうち一人が、リアセドに近づこうとした。

 だが、手が伸びてそれを止めた。

 ゾルハだった。



「ねぇ、リアセド」


 声がした。

 リアセドは振り向いて、相棒の顔を見た。それがゾルハだと認識できるまでしばらくかかった気がした。もう何時間も経過している気がした。


「そういうのは、生かしとくもんよ。敵の重要な手がかりとして。後ろの子たちに教え込んだのは、あんたじゃなかった?」


 わからない。ゾルハがどんな表情をしているのか。

 だが、推理すればあっさり分かりそうなものだ。


 リアセドは、答えなかった。

 そうする必要を感じなかったからだ。


 ゾルハが近づいてきて、リアセドの肩をたたいた。

 それから、言った。それで、決まりだった。


「あんた――もう駄目だわ。監視役はこれでおしまい。今まで楽しかったわよ、リアセドちゃん」


 ――その日の戦いは、それで終わった。


 もう、ピアノの音は聞こえない。

 少なくとも、実際の空間の中では。

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