#3
その夜、リアセドは夢を見た。
起きると、背中がじっとりと濡れている。
傍らのゾルハは、そんなことにまるで気付かず、短調でミニマルな寝息を立てている。
彼女は荒い息をついた。
ある事実に気付いて、背中がさらに冷たくなった。
――自分は泣いていたのだ。
ほかでもない、かつてのパートナーの夢を見て泣いた。
それ以上の細かい夢のディテールは定かではなかったし、思い出そうともしなかった。
少なくともその時点で、ある一つの事実が彼女のうえで頭を垂れた。
自分は、ミカエルの作り出す世界を正しいと信じていた。
だからこそ、彼女を許さなかった。
それが今この瞬間、揺らいでいる――。
いつからだ?
いったい、何をきっかけとして?
彼女は探そうとした、探そうとした。
しかし、そこにはおそれがあった。まるで巨大な壁だった。
彼女はたじろぎ、躊躇した。
何も行動は起きなかった。
……そして、朝がきた。
夢の事実は消えないまま、新たな任務が告げられた。
◇
世界は雨に濡れていた。
空に斜線を描くように降り注いで、全ての情景をいつもよりずっと濃い灰色に染め上げる。黒く深く、建物は眠りについている。
誰も、その降水を歓迎しない――植物も作物も、全ては人工テントで管理されているからだ。
「……ですから、皆さんは。こんな日にこそ、耳を傾けてほしいのです。我々には音楽など必要ありません。ですが、雨には調べがあります。それで十分ではありませんか。何も、新しく願う必要などないのです……」
ミカエルの慈悲と憂いに満ちた声が響いている。雨とともに、地面に降り注いで、染み渡っていく。
人々は軒下で、あるいは自分たちの家の中で、じっとその旋律とリズムを聴いている。単調で、違いのない衣服。彼らを形作る、暗い表情。そこに違いなどない。
ただ、雨が降り続いている。
――そこへ、もう一つの音が重なってくる。
路地裏に座り込んでいたうちの一人が、それに気付いた。
彼は顔を上げた。
雨粒が口の中に入るのもいとわず……その情景を凝視した。
電線の隙間から広がる空に、いくつもの黒い陰が通過した。耳の奥を揺さぶるような轟音を立てながら……次々と。
「彼らだ……」
別の一人が言った。
「天使が……やってきた」
皆が空を見上げた。
まるで、祈るように。
◇
雨の中、低い建物が広がる陰鬱な街並みの上を通っていくのは、天使たちの乗り込んだヘリである。隊列を組んで飛行し、目的地へと向かっているのだ。
「――ゆえに、我々はこのように……4班に分かれて行動。潜伏している反乱軍を殲滅する」
その内部。
カタカタと揺れる無骨な内装の中で、計8名の天使たちに向かって話しているのは、もちろんリアセドである。
彼女のすぐ後ろには、薄型モニターで展開されたフィールドマップがある。それは、彼女が指を示すたびにポイントを水滴のように垂らし、作戦の指示内容にふさわしく形を変えていく。
「敵戦力の数は未知数だ。おまえたちはまだ戦闘経験が浅い。油断することのないように」
リアセドが告げて、皆が頷いた。
そうして、作戦についての教えは終了する。
しかし今日は、それだけではなかった。
……画面を切り替えて、デフォルトの紋章に切り替える。
ミカエルに付き従う、天使たちの紋章。
ゾルハはリアセドをちらりと見たが、彼女は無視した。
リアセドは若い天使たちを一人ずつ見て、やがて一呼吸おいてから、話し始める。
「我々天使にとって、一番大切なものは何か。今、それを改めておまえたちに伝える――それは、戦闘技能でも、経験でもない。何か、分かるか」
顔を見回す。
答えは出ない。緊張しているのかもしれなかった。
リアセドは、続けた。
「それは、大天使ミカエルの教えに忠実であるということだ。秩序こそ自由であり、統御こそ正義。それこそが、この国の平和を保つ必要十分条件であるということ。些末事にとらわれて、それを忘れている者は多い。そして、その者たちは、やがてどうなっていくか……――行き着く果ては、奴ら氾濫者と同じだ。私はかつて、そうなった一人の天使を処刑した」
はじまった訓示に困惑し、疑問符を浮かべる者は誰もいなかった。
彼らにとってリアセドとは目指すべき指標であり続けていたから、その言葉は絶対的な託宣のように響いているのだ。
「おまえたちは、この先の戦いでどれほどの窮地におちいったとしても、これを決して忘れてはいけない。ミカエルを信奉する強固な意志が、我々の感情を安定させ、力を与える。これは全てに繋がっている重要なことだ。今一度、おまえたちは……しっかりと理解するように」
そしてリアセドは、もう一度彼らを見た。
「――わかったな」
明朗な返事が、いくつもあがった。
リアセドはそれを聞いて、静かにうなずいた。
ゾルハは、相棒の姿をじっと見ていたが……何も言わなかった。
彼女は、視線に気付いていなかったのだ。
「アプローチ・ポイントに到着。ステルスを展開します」
無機質なオペレーターの声が響く。
それと同時に、ヘリ車体がガクンと大きく揺れた。
目的地に近づいたのだ。
「では――準備にかかれ」
リアセドが指示する。若い天使たちが、一斉に装備品をチェックし、装着する。
「タラップを展開」
ふたたび、声。
ヘリの側面が裂けるようにして開け放たれる。
とたんに、雨と風が吹き込んでくる。天使たちの衣服が強く揺れる。
彼らは少し顔を押さえたが、リアセドとゾルハは微動だにしなかった。
「No.1。行きます」
最初の一人が、リニアカタパルトに足をかけて言った。
そして、アラートが鳴る。
――火花を散らしながら足場が前方へスライドし、加速。
次の瞬間には、彼はヘリの外へと飛び立った。
続いて、No.2、No.3。
透明な、見えないヘリから、次々と天使が降下していく。
……雨の中、彼らは見えない。淡々と目的地に向かい、任務に臨むのだ。
ゾルハの出番になった。
「じゃあ、私ね」
彼女は背中に武器を装着する。
長大なガトリングに、チェーンソーが据え付けられている。彼女はそれを縦横無尽に操り、全ての敵を殲滅するのだ。
ゾルハは、リアセドにウインクする。
そして、リニアカタパルトで飛び立った。
「……」
最後の一人は、リアセドになった。
カタパルトに脚を乗せる。
前方の真下に広がるのは、暗くよどんだ街並み。
そこに、いったいどれだけの人間が居るのだろう。
いったいどれだけの違反者が居るのだろう――。
……彼女はそこで思考を断ち切って、深く息を吸い込んだ。
寒い。吐く息が白かった。
「……迷いなど。ない。何一つ」
彼女は呟いた、言い聞かせるように。
「――発進する」
「どうぞ。ミカエルのご加護を」
それからリアセドは、雨の戦場へと躍り出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます