#3

 その夜、リアセドは夢を見た。

 起きると、背中がじっとりと濡れている。

 傍らのゾルハは、そんなことにまるで気付かず、短調でミニマルな寝息を立てている。


 彼女は荒い息をついた。

 ある事実に気付いて、背中がさらに冷たくなった。


 ――自分は泣いていたのだ。

 ほかでもない、かつてのパートナーの夢を見て泣いた。

 それ以上の細かい夢のディテールは定かではなかったし、思い出そうともしなかった。


 少なくともその時点で、ある一つの事実が彼女のうえで頭を垂れた。


 自分は、ミカエルの作り出す世界を正しいと信じていた。

 だからこそ、彼女を許さなかった。


 それが今この瞬間、揺らいでいる――。


 いつからだ?

 いったい、何をきっかけとして?


 彼女は探そうとした、探そうとした。

 しかし、そこにはおそれがあった。まるで巨大な壁だった。

 彼女はたじろぎ、躊躇した。

 何も行動は起きなかった。


 ……そして、朝がきた。

 夢の事実は消えないまま、新たな任務が告げられた。



 世界は雨に濡れていた。

 空に斜線を描くように降り注いで、全ての情景をいつもよりずっと濃い灰色に染め上げる。黒く深く、建物は眠りについている。

 誰も、その降水を歓迎しない――植物も作物も、全ては人工テントで管理されているからだ。


「……ですから、皆さんは。こんな日にこそ、耳を傾けてほしいのです。我々には音楽など必要ありません。ですが、雨には調べがあります。それで十分ではありませんか。何も、新しく願う必要などないのです……」


 ミカエルの慈悲と憂いに満ちた声が響いている。雨とともに、地面に降り注いで、染み渡っていく。

 人々は軒下で、あるいは自分たちの家の中で、じっとその旋律とリズムを聴いている。単調で、違いのない衣服。彼らを形作る、暗い表情。そこに違いなどない。

 ただ、雨が降り続いている。


 ――そこへ、もう一つの音が重なってくる。

 路地裏に座り込んでいたうちの一人が、それに気付いた。

 彼は顔を上げた。

 雨粒が口の中に入るのもいとわず……その情景を凝視した。


 電線の隙間から広がる空に、いくつもの黒い陰が通過した。耳の奥を揺さぶるような轟音を立てながら……次々と。


「彼らだ……」


 別の一人が言った。


「天使が……やってきた」


 皆が空を見上げた。

 まるで、祈るように。



 雨の中、低い建物が広がる陰鬱な街並みの上を通っていくのは、天使たちの乗り込んだヘリである。隊列を組んで飛行し、目的地へと向かっているのだ。


「――ゆえに、我々はこのように……4班に分かれて行動。潜伏している反乱軍を殲滅する」


 その内部。

 カタカタと揺れる無骨な内装の中で、計8名の天使たちに向かって話しているのは、もちろんリアセドである。


 彼女のすぐ後ろには、薄型モニターで展開されたフィールドマップがある。それは、彼女が指を示すたびにポイントを水滴のように垂らし、作戦の指示内容にふさわしく形を変えていく。


「敵戦力の数は未知数だ。おまえたちはまだ戦闘経験が浅い。油断することのないように」


 リアセドが告げて、皆が頷いた。

 そうして、作戦についての教えは終了する。


 しかし今日は、それだけではなかった。

 ……画面を切り替えて、デフォルトの紋章に切り替える。

 ミカエルに付き従う、天使たちの紋章。

 ゾルハはリアセドをちらりと見たが、彼女は無視した。


 リアセドは若い天使たちを一人ずつ見て、やがて一呼吸おいてから、話し始める。


「我々天使にとって、一番大切なものは何か。今、それを改めておまえたちに伝える――それは、戦闘技能でも、経験でもない。何か、分かるか」


 顔を見回す。


 答えは出ない。緊張しているのかもしれなかった。

 リアセドは、続けた。


「それは、大天使ミカエルの教えに忠実であるということだ。秩序こそ自由であり、統御こそ正義。それこそが、この国の平和を保つ必要十分条件であるということ。些末事にとらわれて、それを忘れている者は多い。そして、その者たちは、やがてどうなっていくか……――行き着く果ては、奴ら氾濫者と同じだ。私はかつて、そうなった一人の天使を処刑した」


 はじまった訓示に困惑し、疑問符を浮かべる者は誰もいなかった。

 彼らにとってリアセドとは目指すべき指標であり続けていたから、その言葉は絶対的な託宣のように響いているのだ。


「おまえたちは、この先の戦いでどれほどの窮地におちいったとしても、これを決して忘れてはいけない。ミカエルを信奉する強固な意志が、我々の感情を安定させ、力を与える。これは全てに繋がっている重要なことだ。今一度、おまえたちは……しっかりと理解するように」


 そしてリアセドは、もう一度彼らを見た。


「――わかったな」


 明朗な返事が、いくつもあがった。

 リアセドはそれを聞いて、静かにうなずいた。


 ゾルハは、相棒の姿をじっと見ていたが……何も言わなかった。

 彼女は、視線に気付いていなかったのだ。



「アプローチ・ポイントに到着。ステルスを展開します」


 無機質なオペレーターの声が響く。

 それと同時に、ヘリ車体がガクンと大きく揺れた。

 目的地に近づいたのだ。


「では――準備にかかれ」


 リアセドが指示する。若い天使たちが、一斉に装備品をチェックし、装着する。


「タラップを展開」


 ふたたび、声。

 ヘリの側面が裂けるようにして開け放たれる。


 とたんに、雨と風が吹き込んでくる。天使たちの衣服が強く揺れる。

 彼らは少し顔を押さえたが、リアセドとゾルハは微動だにしなかった。


「No.1。行きます」


 最初の一人が、リニアカタパルトに足をかけて言った。

 そして、アラートが鳴る。


 ――火花を散らしながら足場が前方へスライドし、加速。

 次の瞬間には、彼はヘリの外へと飛び立った。


 続いて、No.2、No.3。


 透明な、見えないヘリから、次々と天使が降下していく。

 ……雨の中、彼らは見えない。淡々と目的地に向かい、任務に臨むのだ。


 ゾルハの出番になった。


「じゃあ、私ね」


 彼女は背中に武器を装着する。

 長大なガトリングに、チェーンソーが据え付けられている。彼女はそれを縦横無尽に操り、全ての敵を殲滅するのだ。


 ゾルハは、リアセドにウインクする。

 そして、リニアカタパルトで飛び立った。


「……」


 最後の一人は、リアセドになった。

 カタパルトに脚を乗せる。


 前方の真下に広がるのは、暗くよどんだ街並み。

 そこに、いったいどれだけの人間が居るのだろう。

 いったいどれだけの違反者が居るのだろう――。


 ……彼女はそこで思考を断ち切って、深く息を吸い込んだ。

 寒い。吐く息が白かった。


「……迷いなど。ない。何一つ」


 彼女は呟いた、言い聞かせるように。


「――発進する」


「どうぞ。ミカエルのご加護を」


 

 それからリアセドは、雨の戦場へと躍り出た。

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