#3

 2人は向かい合い、しばし沈黙が流れた。


 リアセドも相手も、同じ構え。基本動作のまま止まっている。だが、心理的優位がどちらにあるのかは、誰の目から見ても明白。リアセドの瞳は一切揺れることがないが、相手はわずかにその輝きをゆらめかせている。

 わずかな違いだが、天使にとっては致命的。


 皆が、黙り込んだままその様子を見ている。

 ――ゾルハが、小さくあくびをこぼした。

 誰かが、ゴクリと唾をのんだ。


 リアセドはそこで……指にトリガーをひっかけたまま脱力し、拳銃の構えを解いた。それが、停止した時間を解きほぐす動作だった。


「――ッ、行きます」


 相手を刺激するには十分すぎるほどの動作。

 相手は一言吐いてから、駆けた。

 ――姿がその場から消えて、羽根が残像に取って代わる。


 フィールドは広かった。相手は天使としての脚力を最大限に発揮しながら、指定された場所を駆けめぐった。ランダムに、その位置を補足できぬほど高速で。まるで地を滑るかのように、彼は走った。着色された風のように。そのまま、じぐざぐに……徐々に、リアセドへの位置を詰めていく。


 そして、撃った。

 一発。

 二発。


 銃撃が立ち止まったままのリアセドに殺到する。彼女は瞬時に障壁を展開して受け止めた。ペイント弾のベチャリという音が響く。


「……」


 なるほど、定石としては正しい。

 予想を超えた動きで、相手の『怠惰』を突き崩す。良い判断だ。初動を彼に譲った結果、今自分は縦横無尽に動く相手に対応できず、まるで周囲全てを彼に囲まれたような錯覚を覚えている。


 ……出来の良い生徒だ。

 そう思い、ちらりと教官を見た。

 彼は微動だにせず、戦いの趨勢を見守っている。どちらに肩入れをしている様子もなかった。


「……天使の鑑だな」


 小さく呟く。

 すると。

 ――彼は、すぐそばまで接近していた。

 高速移動とランダムな銃撃が、彼を標的に肉薄させたのだ。


 相手が後数歩踏み込んだところまで来ていた。そのまままっすぐ走れば、懐に到達する。そのとき新人天使である彼が考えた相手の出方もまた定石通りであり、きわめて優秀だった。


 ――この距離であれば、引き離すのは難しい。となれば相手は、こちらを後退させる手段を選んでくる。至近距離とはいえ、真っ直ぐ前に此方が居る。答えは一つ。相手は射撃してくる。正確無比な射撃……対『憤怒』のメソッドを利用して、こちらを狙ってくるはずだ。そうであれば、こちらは、接近戦のメソッドである――……、


 しかし。

 リアセドは、その考えを読んでいた。

 そのうえで、次なる手段をとった。とっさの判断だった。だが、微塵も不安はなかった。


「――っ!?」


 リアセドがとった手段は、『狙いを付けない』というものだった。つまり彼女は、接近してくる彼に対し――同じく駆けて、白兵戦の構えをとったのである。


 ――彼は焦った。そこにあるべきはずの彼女の姿が視界から消えた。

 そして撃った。ペイント弾は何もない空間の奥に色彩を与えただけだった。

 ……存在感、悪寒。足元を見る。


「な……」


 そこに、リアセドが居た。

 するりと、自分の懐に入り込んできていた。その銃口が、はっきりとこちらに向いている。


「対『貪食』……ッ」


「……」


 接近戦のメソッドである。流水のように相手の領域に侵入し、絡みつく力。



「ここで、対『貪食』か……」

「セオリーから外れている……いや、セオリーを越えた戦い方……」


 わずかな感嘆が、見ている者達から漏れる。

 決して騒がしくはならないが、それでもちいさな風のようなざわめきは、絶えることがない。


「そう――あれこそがリアセドのリアセドたる所以。七つ全てのメソッドを拾得し、それらを変幻自在に組み合わせて戦う。おまえたちの最後に到達すべき場所に彼女はいる」


 彼らの言葉をまとめ上げるように、教官が言った。



「くっ……」


 至近距離からの銃撃で重視されるのは、射撃の腕そのものより格闘能力。

 彼は今リアセドに対して、それを行っていた。目の前にいる相手に銃撃を撃ち込んでいく、撃ち込んでいく。

 しかしそれらはすぐ、流水の如き回避と、的確な障壁展開によってあっさりといなされる。銃弾が四方へ飛び、様々な色彩を床に添える。


 彼は顔中にじんわりと汗をかいていたが、対するリアセドはまるで動じていない。火花が散り、金属が衝突する音が響く。当たらない――ただの一度も!


「圧倒的だ、対嫉妬を使うまでもないってことか……」


 誰かが、そう漏らした。

 次の瞬間……乾いた音を立てて、何かが宙を舞った。


 地面に落ちて何かが分かった。

 銃だ。

 リアセドによって弾かれたのだ。


「……っ」


 相手は息を荒げながら膝をつく。向き合ったリアセドは彼の額に銃口を向けた。実際の敵にそうするように。顔を上げて、こちらに向けられた瞳は諦観に染まっていた。


 だが。



「勝負あったな……」


 次の瞬間。



「っ、ああっ!!」


 リアセドは感知した。相手の感情の乱れを。

 一瞬予想ができなかった。相手の動きが変わった。


 屈み込んで、そのまま大きく脚を広げ、逆立ちの姿勢。鋭い槍のような脚が、リアセドのほうに素早く伸びた。

 ――それはセオリーを大きく無視していた。



「おい、あれは対『色欲』だ――」

「あの場で出すべきじゃ、」

「あいつ、『乱れて』るぞ……!」

 ざわめき。

 教官は呟く。


「まだまだだな……」



 ……脚が一瞬、リアセドの頬を、かすめた。

 痛み。

 わずかな痛み。

 ――そう。感じた。

 瞬間。



 ――感情とは。制御するためにあるんじゃない。解放させるためにあるのよ。怒りも、かなしみも、すべて。



 枯れた花を慈しむようになでる女の顔。脳裏に浮かんだ。

 彼女はこちらに向けて、笑いかけた――。


「ッ……!!」


 それはリアセドの中にある何かをかきたてた。


 彼女は相手の脚をその場で掴んでひねり、地面にたたき伏せた。

 痛みで相手が呻く。一瞬の出来事。汗が玉になって浮かび、羽根がちぎれて宙を舞う。

 そのまま荒々しく相手の髪を掴み、床に押しつける。振動。更なるうめき。そこへ、リアセドは。

 銃を突きつけた。


「……」


 誰もが、息をのんでいた。

 一瞬で形勢が逆転した。


 しかし、皆が黙っていた理由はそれだけではなかった。


「っ……」


 リアセドは荒く息を吐く。

 相手は後頭部に銃口を突きつけられたまませき込んでいた。


 彼は少しだけ首をひねって、視線をこちらに向けた。一瞬大幅に乱れた感情の痕はそこになく、今滲んでいるのは後悔と諦念と、それからリアセドに対する謝罪だった。


 そこでようやく、彼女は、自分がなにをやったのかを理解した。


「勝負、あったな……」


 教官が近づいてきたが、彼の顔は険しかった。

 リアセドは中腰になって、相手を立たせた。


「……大丈夫か。すまない」


「ええ。申し訳ありません。私の感情の乱れが原因です」


「だが、私の乱れは自分の問題だ」


 教官は少しだけため息をつく。

 見ると、ギャラリーは皆押し黙っており、そのはざまから、小さな疑問の声が漏れ出ていた。


 ――リアセドはなにをやった?

 ――まさか、『乱れた』んじゃ……。

 ーーまさか、彼女に限って……。


 ゾルハと視線があった。彼女はただ肩をすくめただけだった。


「積極性は買うが、そこまでだったな。お前にはまだ基礎が足りない。分かったな」


 教官が、リアセドの相手をつとめた天使の肩をたたいて言った。


「はい。感情の制御が至りませんでした」


「よろしい。では……いますぐ『ストーリーライター』のもとへ向かえ。許可が出るまでは、彼の指示に従い均衡を保て」


「了解しました」


 彼は背筋を伸ばして、きびすを返す。それから、その場を足早に離れていった。

 実にキビキビとした動作だった。

 先程までは、悪い夢でも見ていたとでもいうように。



 その姿を見届けた教官は、あらためてリアセドの方を見た。

 彼の目には、少しだけの困惑と、それ以上の……憐憫のような者が滲んでいる。


「任務のことは聞いたぞ、リアセド」


「はい」


「だが、以来お前は働きすぎだ。少し休め」


「……」


「お前も『ストーリーライター』へ向かえ。分かったな」


 断る理由などなかった。

 あればその時点で、彼女には反逆の意志があることになる。


「……はい」


 此方を見てくるいくつもの視線。

 それらを無視して、リアセドはゾルハに言った。


「聞こえていた? 食事なら先に」


「――良いわよ。ついてく」


 彼女は笑った。

 ……少なくとも、鼻から上は。

 少しの間見つめ合ってから、リアセドは答える。


「……分かった」


 2人が、訓練の場から離れていく。

 ……何人もの若き天使達が、その背中を見ている。

 美しい、純白の羽を持つ天使。

 かれらの、あこがれとなるべき姿――。



「……」


 彼女は、リアセド達のもとを通りがかった。さきの戦いで負傷し、彼女に助けられた天使だ。


 その背中を見つめる。


 そこに滲むのは、どこまでも真っ直ぐなあこがれだった。


 夾雑物など、ありはしなかった。

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