Kapitel.2 Heiligtum
#1
古びて年老いた町並み。それが『ザイオン』の在り方を形作る姿のひとつだった。しかし、もうひとつ。
市街の中心部に向かうにつれ、それらの街並みは別の姿を帯びてくる。
セピア色のひび割れた土壁たちは、クリスタル色の統制のとれた住居の連なりに取って代わり、陰気さの代わりに清廉さと美しさが目立ってくる。そこは同じザイオンにあっても、まるで違う世界。清浄さに満ちた、白と青と、透明の世界。
それもそのはずである。そこは既に、天使達の住まう領域なのだ。羽を持たない『ただの人間』は、近づくことすら許されない。流れている空気そのものが違うのだから。
そんな中にあって、街の『核』にそびえ立つのは、さらに異質なもの。
天を突き抜けるようにそびえ立つ、まるで空間を切り裂いたように鋭角で怜悧な尖塔。街のどこからでも見えて、すべての場所を監視するように存在する――それこそが、『ミクダール』。
街全体を統御し、そのいただきに大天使ミカエルをかかえた聖なる塔である。
その頂点付近、街並がミクロに見えるほど高層に位置する場所。
その窓際に、彼女――シュヴァールの部屋はあった。
「なら、あれらに処理させなさい。私を手間取らせないで」
彼女はタブレット型の端末に声を吹き込むと、その画面を消した。何かを言いたげだった向こうの者の姿は、ふっつりと消滅した。
「……」
球体を縦に割いたようなチェアに、深く座る。
……白いコート。深い年輪が刻まれた全身のしわ。それに不釣り合いなほどしなやかで、長い手足。後方で結わえられた白銀の髪に、左目の眼帯。残った右目は何かを思案するようにわずかに揺れたが、そこにあるのはあくまでも鋭く、猛禽のような容赦のなさをたたえた光。
なによりも、その背中に生えた羽こそが、彼女が何者であるのかを告げていた。
立ち上がる。白磁色の重厚なテーブルの上では、モニターがいくつもの名前をピックアップし、電子画面上に並べ立てながら流している。
ミドロ、ヘルガ、トイディ……それぞれの意味を知っているから、彼女はそれを見る必要がなかった。
立ち上がり、椅子から離れる。
白で統一された空間。調度品のすべても、白。ただ、椅子の後方に位置する壁全面に取り付けられた窓だけが、外の光をその部屋に取り込んでいた。
彼女はヒールの音を立てながら歩き、窓へ。それから、街並みを見おろす。薄い雲の流れの下に見える、雑多で薄暗く、どこまでも統一性のない住居の群。
「……世迷いどもが」
老齢の彼女は、周囲の空気が冷えるほど低い声で呟いた。
目を細める、眺め続ける――。
「閣下」
ブザーが鳴って、来客が告げられた。
彼女はその声を知っている。
「入りなさい」
そう言うと、間もなく彼女の後方で、リモートドアが開いた。
「失礼いたします」
二つの足音が、するりと室内へ滑り込んだ。
「第一級天使、リアセドならびにゾルハ。任務を終了し、ただいま帰還しました」
凛とした、よどみのない声。
『閣下』は振り返り、座席に着いた。
そして、前方の2人を見る。
――全ての天使達の中でも、トップクラスの実力を持つ2人。リアセドは冷たい無表情で直立し、その隣ではゾルハが、意味のありげな微笑をたたえながら、やや崩れた姿勢で立っている。
「……報告なさい」
2人を見て、腕を組んでから告げる。
リアセドが、口を開いた。
彼女の口から語られる任務のいきさつとあらましは、通奏低音のごとく滑らかに響いた。閣下は静かに耳を傾けた。
「……というところでして。問題のブツは、既に提出済みです。連中もこざかしいことをしますね。新入りとはいえ、こちらに負傷を出すとは――」
リアセドの隣で、ゾルハが割って入った。
「余計な言葉は不要。余計な感情など必要ないように」
ゾルハは、肩をすくめる。
態度をとがめることはしない。この者は、こういったパーソナルだ。それが分かってさえいれば、どうであれ関係ない。そこからはみ出さなければ。
「――報告は以上です」
リアセドが、言葉を結んだ。
しかし、それだけではなさそうだった。
シュヴァールは彼女の目を見た。
わずかに頷いて、数秒置いてから、言った。
「近頃の彼らの動きに、妙なものを感じます」
「――と、いうと?」
問う。彼女は答える。
「襲撃が極めて散発的です。まるで、何かを誘い込もうとしているかのような」
「……それは妙ね。どう思う」
そこで、リアセドは一歩下がった。
それから、あくまで平板に、言った。
「私見を述べれば、それは余剰感情の発露になりかねません。意見の陳述を辞退します」
……シュヴァールは、少し微笑を浮かべる。
「そう、さすがね」
それで、報告は終了した。
後は、二人を下がらせてもよかった。
「……下がっても?」
ゾルハが、飄々とした口調で聞いた。閣下は少しだけ手を上げて、制する。
視線は、再びリアセドへ。彼女はあらためて姿勢を正した。
「近頃、調子はどうかしら。リアセド」
それは、ごく私的な質問だった。
リアセドは一瞬黙ったが、答えはすぐに出た。
彼女はいつもそうなのだ。
「何の問題もありません。任務にも支障となる要素は――」
「あなたの、私生活のこと。つまり、あなたの任務以外でのことを聞いているのよ」
……その質問は、予想の外にあったらしい。
ほんのすこし、彼女の瞳が揺れた。
だが、誤差の範囲だ。
彼女は目を瞑って、開いた。
「すべては、閣下。あなたの取り計らいのおかげです。極めて充実しています。一切の障害なく、任務にのぞめている」
「……そう。随分と、高く買ってくれているのね」
「孤児であった私を見初め、理想を教え、天使として登用し、こんにちに至るまで鍛え上げてくださった閣下には、感謝しています」
今度はリアセドが、こちらを見た。
瞳と瞳が交錯して、時間が経過する。
ゾルハは、所在なさげに部屋の中を見回していた。
……そこから、実時間にして十数秒後。
「嬉しいことを言うわね。――では、これでよし。2人とも、下がりなさい」
――その言葉とともに、2人の天使はつま先をそろえ、向き直った。
天使としての礼を行い身を翻す。
それから、リアセドはきびきびと、ゾルハはやや軽い足取りでリモートドアの向こう側へ消えた。
部屋には、彼女が1人。
白一色に統一された、ひとりだけの空間。
……しばらくして、シュヴァールは机の上での思案と仕事を再開した。
窓の外には、相も変わらず灰色の空と景色が広がっている。
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